第3話 小宮山家のママと藤牙家のパパ
その後祥子はすぐちょっと大きめの病院に連れていかれた。医師の診察を受け、額の傷を消毒されて巨大な絆創膏を貼られ、CTスキャンとレントゲンを撮り、また医師の診察を受けた。
検査の結果、脳にも頭蓋骨にも特筆すべき所見なし、とのことで、異常はありません、ときっぱり言われた。この程度であれば縫合もいらず、傷跡が残る可能性も低く、ただ鬱血して一時的に紫色に腫れる可能性はある、程度らしい。診断書には、打撲および擦過傷、全治一週間、とはっきり書かれた。ひと晩様子を見て、異常が出てきたらまた受診してください、とだけ言われて、自宅に帰された。
祥子としては、額の傷より眼鏡のほうがずっと気に掛かった。早く眼鏡をどうにかしてほしい。だが、晃はとりあえずまっすぐ帰宅すると言って譲らない。
結局、二人はどこにも寄らずにタクシーで帰宅した。足元が不安でよちよち歩きの祥子の腰を、晃が支える。ものすごい重傷者になった気分である。眼鏡さえあれば解消されるのに、視力のいい晃にはわからないのかもしれない。
自宅に戻ってすぐ、中学の時に使っていた眼鏡を避難袋から発掘した。多少度が合わなくても災害時に役立つから、と言われてしまっておいたのが功を奏した。銀縁のいかにも文学少女の優等生といった眼鏡は今の祥子の趣味に合わなかったが、背に腹は代えられない。少しぼんやりではあったが、家の中では支障なく暮らせる程度には回復した。
帰宅後も晃は態度が大袈裟だった。祥子はおとなしい子供だったので、そもそも怪我をするということ自体が少なかったためだろう。他人に怪我をさせられたこと、頭部だったこと、眼鏡が壊れたことなどなど、いろいろと怒りと心配が尽きないようである。
あまりにも過保護なので、面倒臭い、という気持ちのほうが圧倒的に大きい。けれどほんのわずかだけ、小さい頃のように甘えるのも悪くはないかもしれない、とも思ってしまう自分が恥ずかしい。
午後八時過ぎ、事件が勃発した。
なんと、蓮が母親を連れて自宅を訪ねてきたのである。
からくりとしては、こうらしい。
まず、蓮と祥子は同じクラスなので、クラスで作ったグループLINEが存在する。祥子が病院で検査を受けている間に、蓮が、騒動を起こしたことの謝罪と祥子に改めてお詫びをしたい旨をグループLINEに流す。祥子の自宅を訪問したいが、誰か住所を知っているか、と訊ねたところ、小中学校で一緒だった生徒から祥子の住所が流出した。個人情報の取り扱い、と祥子が怒った時にはすでにすべてが遅かった。
祥子がいつもどおりに自室で数学の復習をしていると、玄関チャイムが鳴った。嫌な予感がした。
リビングにいた晃が「はい」と言って対応し始めた。
祥子は蓮ではないかと思って慌てて玄関に向かったが、時すでに遅し。晃がつっかけサンダルを履いて扉を開けていた。
扉の向こう側にいたのは、制服のままの蓮と、きちんとした服装のスマートな女性が立っていた。
女性は、フォーマルというほどでもないが、オフィスカジュアルというよりは少し真面目な感じのスーツを着ていた。年上の人間の年齢の区別がつかない祥子には、彼女が何歳なのかはわからない。女性の芸能人を脳内検索して、照らし合わせる。ばっちり化粧をしていることもあり、まだ四十代前半くらいに見えた。とりあえず美咲よりは年上だろう。
彼女は晃を見るなりこう言った。
「祥子さんの保護者の方、いらっしゃるかしら」
晃が絶句した。
蓮が「ちょっと、母さん」と慌てた声を出す。
「この人が藤牙さんのお父さん」
「えっ、あら、本当? お若いからお兄さんだと思った」
蓮の母親は素だったようだ。晃が祥子の兄に間違えられたのも初めてではない。けれど晃はショックを受けたようである。少し間を置いてから、苛立ちを隠さぬ声で答えた。
「俺が祥子の父親です。祥子は俺が高校生の時の娘でして」
蓮の母親がまた、今度はちょっとすっとんきょうな声で「あら」と言った。
「お父様、おいくつですか?」
「三十二です」
「あら、あら、私が蓮を産んだ時と同じですね……」
蓮は晃の後ろに祥子が控えていることに気づいたようだ。蓮が「藤牙さん」と言うと、蓮の母親もこちらを向いた。蓮の母親が「大丈夫?」と優しい声で訊ねてくる。
「うちの馬鹿息子のせいで怪我をしたと聞いて、私、いても立ってもいられなくて。お怪我の具合はどうですか?」
祥子は手を振りながら「ぜんぜん大丈夫です」と答えた。だが、蓮の母親はすぐに下がらなかった。
「検査の結果も、なんともなかったし。病院の先生は、一時的にちょっと腫れるかもしれないけど、痕も残らないと言ってました」
「そう……よかった。女の子なのに顔に怪我をさせるなんて、ってすごく心配したのよ」
蓮がずっと右手にさげていた紙袋に左手を突っ込んだ。そして、中から菓子折りを取り出した。蓮と蓮の母親が同時に頭を下げる。蓮が菓子折りを突き出す。
「このたびはたいへん申し訳ございませんでした」
「本当に、ごめんなさい」
深々とお辞儀をする母と息子を見て、祥子は、ちゃんとした家庭だ、と思った。これが理想的なおうちで、世間一般で言うところの常識的に正しい親子なのだろう。
菓子は欲しい、と思いつつも、ここは遠慮すべきなのだろうか、と悩んだ祥子は、「いいですいいですたいした怪我じゃないんで」と言った。
しかし、晃は怒っていた。
晃は蓮の手から菓子折りをひったくると、背後にいた祥子に押しつけた。それから、「お前は下がっていなさい」と命令してきた。嫌な感じだ。これは、喧嘩をする気なのではないか。
ぞっとする。
藤牙家は小宮山家と違ってちゃんとした家庭ではない。まして三十二歳の退魔師で常識が怪しい晃と四十八歳できちんとしたところに勤めていそうな蓮の母親とでは、口では勝負にならないのではないか。
「あの、お父さん」
「黙ってろ」
「わたしは大丈夫だから、その、あんまり怒らないでよ」
すると蓮の母親のほうがこんなことを言った。
「祥子ちゃん、普通の親は、娘が怪我をしたら怒るものなのよ」
その目がとても優しく、なんだか哀れまれているような気もした。いつの間にか祥子さんから祥子ちゃんになっていることもあり、祥子は、うっすら、この常識的に正しい女性に格下に見られたかも、と感じた。晃は苦手なタイプかもしれない。
祥子がこのまま引き下がることを懸念したのか、蓮が少し慌てた様子で制服のブレザーのポケットからスマホを取り出した。派手なスマホケースに入っているスマホを操作しながら、「あのさ、藤牙さん」と優しい声で言う。
「俺と藤牙さんで一対一でLINEのやり取りしない? もし体調が悪くなったり、何か不便なことがあったら、直接俺にLINEしてよ。俺、すぐ対応するからさ」
祥子は目を真ん丸にした。思わず「えっ」と言ってしまった。蓮が表情を曇らせて「嫌?」と訊ねてくる。
「そ、そういうわけじゃないんだけど……、わたし、男子と個人でLINE交換するの初めてで……」
「なんだ、べつにいいじゃん。男子も女子も同じ人間だし、俺らクラスメートじゃん」
耳まで赤くなった。
生まれて初めてLINEを交換する男子が、クラスで指折りのイケメンで、サッカー部のエースで、心優しく真面目な少年――怪我の功名かもしれない。こんなチャンスは人生そう何度もないのではないか。
「ありがとう……、スマホ、部屋の机の上に置きっぱなしだから、持ってくるね」
菓子折りを抱き締めたまま下がろうとする祥子を、晃が「待て待て待て」と引き止める。さっきは下がれ、黙れと言ったくせに、勝手なやつである。
「必要ありません。うちの祥子に変なこと言わないでください」
「でも、ほら、万が一体調が悪くなったらと思うと心配だし、医療費や眼鏡代も領収書を持ってきてくれればうちが払うから」
そう言ったのは蓮の母親である。晃に対してもタメ口になってしまったのでは、と思うと血の気が引く。しかし四十八歳の大人の女性からすると三十二歳の青年は若者だろう。
「いりません」
「そんなこと言わないで」
「お前、祥子に怪我をさせておきながら祥子に近づくんじゃねえよ」
「下心があるわけじゃないです。母さんの言うとおり、俺、藤牙さんが心配なんです。いろいろ俺のせいなんですから」
まったく正論の小宮山親子に、晃が押されている。
蓮の母親は、晃に正論で殴り掛かった。
「祥子ちゃんのお父さん、お仕事は何をされているの?」
晃がこの世でもっとも嫌いな質問であった。
「あー……えーっと……肉体労働というか、現場仕事というか……掃除とかする仕事です」
確かに妖魔退治は世の中の悪い気を祓う掃除だが、苦しい説明だ。
「申し遅れました、私、こういう者です」
蓮の母親がハンドバッグから小さな革製の入れ物を取り出した。中から出てきたのは、白い名刺だ。誰もが知っている大企業のロゴが入っており、営業三課第二係係長小宮山理香子、と書かれている。KOMIYAMA, Rikakoと入っているのが、いかにもグローバル企業、といった感じだった。
「蓮に連絡先を聞いてくれれば私用の携帯番号も教えるし、この名刺に書いてある営業用の番号にかけてくれれば、仕事中にも出られるから」
あまりにもちゃんとしている。
「夫はIT系の企業で開発の仕事をしていて、リモートワークで家にいることも多いから、最悪日中に車で迎えに来ることもできるわ」
「……はあ……」
世の中にはそんな絵に描いたような家庭もあるのか。
「お父さん、あまり一人で抱え込まないようにね」
晃はとどめを刺された。
「今は福祉も充実してるし、私たち夫婦もできることがあればするから、頼ってちょうだい」
「…………」
理香子の名刺を見つめて沈黙した晃の隣で気まずい思いをしながら、祥子と蓮はLINEを交換した。
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