【第1.8話】雪影の目覚め

 どれほど歩いたのだろう。


 リルに導かれるまま、私は雪影の森を抜け、さらに奥へ進んでいた。


 やがて木々が途切れ、小さな開けた場所に出る。

 そこには粗末な木の小屋がぽつんと建っていた。屋根には雪が積もり、外壁もところどころ歪んでいて、いつ崩れてもおかしくなさそうだった。


「ここ……?」


「うん。私の隠れ家みたいなもの」


 リルはほっと息をつくと、戸を押し開けた。


 中は狭いが、風をしのぐには十分だった。奥には薪ストーブがあり、簡単な寝台や棚が置かれている。


 リルは慣れた手つきでストーブに火を入れると、小屋の中がじんわりと暖かくなった。


「座って。少し休もう」


 私は言われるままに粗末な椅子に腰を下ろした。


 暖かい空気が頬に触れる。それだけで、何か大きな重荷が少し軽くなった気がした。


 

「……ありがとう」


 ぽつりと呟くと、リルは「何が?」と首をかしげた。


「助けてくれて……私、きっとあのまま捕まってた」


「ううん、いいの。困ってる人を見たら助けたいって思っちゃうの。……お節介、かな」


「そんなこと……ないよ」


 私はかすかに笑った。


 不思議だった。

 ついさっきまで名前も思い出せなかったのに、この小さな子を見ていると胸が温かくなる。


 火がパチパチと音を立て、薪がはぜた。


「ねぇ……リル」


「なに?」


「この世界のこと、教えてくれる?」


「この世界……?」


 リルは少し考えるように瞳を揺らし、それからゆっくり話し始めた。


 

「ここはね、万影大陸って呼ばれてるの。16の領域に分かれてて、それぞれ『影』を持ってるの。雪影、水影、森影、焔影……いっぱいあるんだよ」


「16の……影」


「そう。そして、その影はね、昔々、神様から授かったって言われてる。私たち雪影の民は、寒さの中で生きていく力を与えられた。でもね、それは同時に呪いでもあるの」


「呪い……?」


 リルは寂しそうに微笑んだ。


「雪影の血は冷たいんだって。だからね、私たちはあまり長生きできないの」


「そんな……」


「でもいいんだよ。こうして誰かと一緒にいて、あったかいって思えるだけで」


 リルはそう言って、そっと私の手を握った。


 細くて冷たいはずのその手は、ほんのりと熱を持っていて、思わずぎゅっと握り返してしまった。


 

 ──その時。


 また頭の奥がずきんと痛んだ。


 景色が滲む。

 白い小屋の中に、ぼやけた影がいくつも見えた。


(……ユズカ……必ず……目覚め……)


 声がする。男の声。懐かしいような、怖いような。


「……ユズカ?」


 私は思わず口にしていた。


「え?」


「……ユズカ……って……私の……名前……?」


「ユズカ……うん、綺麗な響きだね」


 リルは小さく笑って、また私の手を握った。


「じゃあ、今日からそう呼んでいい?」


「……うん」


 涙が滲んだ。自分の名前を思い出せた安心感と、その名前を誰かに呼んでもらえる喜びが、胸の奥で優しく混ざった。


 

 しばらくして、ストーブの火が落ち着き、小屋の中は柔らかな闇に包まれた。


 リルは椅子の向かいで膝を抱えて目を閉じている。


 小さな寝息が聞こえた。


 私はそっと手を伸ばし、リルの髪を撫でた。


 銀色の髪は、雪のように冷たくて、だけどどこか懐かしい匂いがした。


 

(……ユズカ……)


 また遠くで誰かが呼ぶ声がした。


 私は目を閉じた。


 この夜だけは、眠っていい気がした。


 


──こうして私は、雪影の小さな小屋で、自分の名前を取り戻した。


そして、この小さな出会いが後にどれほど大きな運命を引き寄せるのか、まだ何も知らなかった。

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