門Ⅰ
上信越から関越を抜け、圏央道へ。雪の残り香をはらんだ風が、車の外を流れていった。
目的のつくばまで時間にして4~5時間の道のりを運転を交代しながら進む。
夏に免許を取ったばかりで運転したくて仕方ない娘の若菜を、文乃が「まだ川を越えたくない」と言って退けた。
妙高SAに続き、ふたつ目の休憩ポイントであった佐久間PAで運転の交代を兼ね、休息を取ることに。
道と道を繋ぐ浮島の如き場所は、風の通り道。どこにも属さない場所。文乃は心地良い解放感を感じていた。
そんな十二月の風に吹かれながら、ここまでハンドルを握っていた燈子が天高く伸びをする。あとは任せてと、文乃が彼女を労った。
「私はいいけど、すみれが心配。本人は平気だっていうけど……」
文乃のポルシェ Taycanに、文乃、燈子、若菜、千種の四人が乗り、仕事の関係でやや遅れて出発したすみれとも、ここで合流する手筈になっていた。
若菜がサンタ役? 絶対に千種さんの方が安心な気がするけれど……
そんななんとも言えない表情で文乃と燈子が見つめあう。
進学先のつくばで独り暮らしをする琴音の様子を見がてら遊びに行くという計画は、これまで二度頓挫していた。
一回目は十月の土浦の花火大会に合わせて。二回目は十一月の文化祭に合わせて計画されていたが、諸々の事情で見送りになった。
琴音がアルバイトで年末年始に帰省できそうにないというので、せめて年内にと金曜午後から二泊・三日の旅に出ることに。
それは、いまここにはいない彼の念願でもあった。
『僕にとっての心の故郷なんです』
琴音のOBにあたる彼は、かつてそう語った。そしていつかその地を、文乃とともに踏みたいのだと。
つくばは車社会だ。計画的な学園都市をゆったりとした大通りが横切り、夏は整然とした並木が眩しいが、冬になり葉を落とすと寒々しさが際立つ。
学生の移動手段は専ら自転車で「日本じゃないみたい」というのは琴音の言。
それでも誰かは車を持ち、足となり、それが先輩から後輩へ継承されていく。
丁度すみれが車を買い替えたいということもあり、じゃあいま乗っているブルーのフォルクスワーゲン ID.4を琴音にという話になった。
「学生がワーゲン?」「 ポルシェじゃなくて良かったじゃない」
そんな軽口が子を持つ母三人の間で交わされた。
悪目立ちするから嫌だと言っていた琴音も、足になる口実で酒を飲まずに済むならと、最終的には首を縦に振った。
昔はアッシー君なんて言葉があったが、女性の場合はなんだろう、キャリー姐さんだろうか。
「でも、すみれがまだ乗れる車から買い替えなんて、ちょっと意外」
「
牙?と文乃が怪訝な顔をすると、燈子が不敵な笑みを浮かべる。
「ジャガーのI-PACE。子猫だと思って油断してたら、食べられちゃうんだから」
そんな風にふたりで笑ううち、当のすみれも無事到着し、合流する。
アイスが食べたいという若菜に全会一致で、地元農園の紅玉を使ったりんごソフトに女五人が蟻のように群がった。
昔ながらの紅玉の酸味がひんやりと舌の上で解け、長距離移動の緊張と窮屈な箱のような疲れを雪の如く包み流す。
「最高。運転してると体に熱が籠るのよ」
〝夏の日差し照り付ける暑い日も、冬のドライブで火照った体にも瑞々しい刺激を〟
そんなコピーの通りに、十二月でもお構いなしに売られているソフトクリームは実際需要があるのだろう。
食べる間、若菜と千種は意識して文乃に話しかけているように見えた。
先に平らげた燈子とすみれが、温かいお茶を取ってくるといって席を立つ。
ウォーターサーバーの前で、すみれがぽつりと漏らす。
「文乃ちゃん、落ち着いて見えるわね。むしろ――」
「前より元気そう……?」
そう言われて、すみれは困ったように微笑んだ。
記憶が混乱している、うまく言えないが不安なのだという文乃に相談を受け、燈子は病院に付き添った。
彼女が
予感のようなものが、あったのかもしれない。
また、そんな風に文乃に頼られ、燈子は心配と安堵を同時に覚えた。
自分はようやくすこし、彼女に甘えてもらえるようになったのかもしれないと。
それはふたりの問題というより、文乃の変化が大きいのかもしれない。
それでも燈子にとっては、励まされることだった。
「志保さんに診てもらって、紹介された大学病院でも検査してもらったけど、特に器質的な異常はなし。精神的な問題だろうから、経過観察するしかないって」
若菜と千種、文乃の三人で仲良くアイスを舐めている姿は、平和そのものだった。
「わたしたちとご飯食べてても、いつも通りだけど……気づくとぼんやりしてるっていうか。電池切れみたいに」
そういうときの文乃は、空き地の前に立っているようだった。
なにかずっと当たり前にそこにあったはずの温かさの不在の前で、立ち尽くす。
でもそれがなにか、分からないというような。
ずっと熱中していた長編小説を、読み終えてしまったような。
そこには、距離があった。
「強がってる……って感じでもないしね」
ふと、燈子とすみれの目が合う。視線が交わり、瞳の色が混じる。強い色だった。
それから互いに小さく微笑むと、水を載せたトレーを持つすみれのフレアパンツを、燈子が摘んだ。
ちゃんと見つめている。ふたりで。今度こそ。
そう告げるように。
それから出発の時刻を決め、各々に土産物などを見て回ることに。
そんな文乃の目が留まる。
〝鯉ぐるま〟というその銘菓は、円環を成す二尾の鯉の姿をした人形焼き。
一方には粒あん、もう一方にはカスタードクリーム。
かわいい、と彼女は迷わず手に取ると、しばらく
(あなた、いいわね。お腹いっぱいに甘いものを詰めてもらって)
なぜか、そんな風に思った。
「え、これマドレーヌでクリーム挟んでますけど……多分もうマドレーヌの自我ないよ」
「琴音ちゃんのお土産にしよう」
すこし離れたところでは若菜と千種が年相応にはしゃいでいるようだった。
結局、すみれのワーゲンには燈子が同乗し、千種が運転することに。
真剣な表情でハンドルを握る千種の横顔を見ながら、燈子は少しだけ目を細めた。
一方、文乃のポルシェは、若菜と親子水入らず。
不満を漏らすかと思われた若菜は、意外に静かだった。
つくばまでの道中、最後の休憩地点である藤岡PAで五人は再び足を伸ばす。
土産コーナーで目当ての地酒を手にご満悦の文乃の手には、瑠璃色の瓶が美しい〝船尾瀧〟の純米吟醸。
お土産ですか?と問う千種に、今日飲むものがないと困るでしょ?と返す文乃はたしかに軽やかだった。
「高速道路はどうだった?」と文乃が尋ねると、「ちょっとクセになりそうです」と千種は目の奥を光らせていた。
そのあとで燈子にも尋ねると、「やっぱり私の娘だった」と。
ちなみに千種たちの方が文乃たちより五分ほど早く着いていた。
静かな夜の気配が車内に陰影をつける頃、文乃はひとつ息を吐いた。
インターを降りると、薄闇に沈む景色に、街道沿いの街灯だけが橙の小さな輪を作っている。
ロードノイズが静かに響き、遠くの住宅地の窓灯りが、ぽつりぽつりと頼りなく浮かぶ。
山に向け、街の明るさが遠のくにつれ、車道は次第に田畑の広がる暗がりへと変わっていった。
田を張る黒い鏡のような水面には月明かりが揺れ、稲の切株に白く霜がおりていた。
民家群を抜け、山麓への坂道に入ると、外灯の間隔はさらに広がり、世界が夜の底へと沈んでいく。
星明かりに飾られた筑波山の輪郭だけが幻のように浮かぶ。
助手席の窓ガラスにもたれた若菜の髪を伝って、澄んだ夜気の冷たさが感じられた。
宿までの道には人影もなく、フロントライトが細い山道を白く照らして進んでいく。
夜の里山、闇に包まれた筑波山がじっと迎えてくれるような気がした。
「タヌキに気をつけてね」
「道を渡る時は手を挙げて欲しいわ」
若菜の軽口に、いくらか疲れの滲む声で、文乃が返す。
筑波山の中腹に立つ宿は、昭和の名残を留めながらも現代的にリノベーションされた小さな旅館だった。
玄関先の欄間には、まだ
湿気を帯びた
「なんか、石鹸っぽい?」
すんすんと鼻をひくつかせて若菜が零すと、
「この辺の泉質は素直なアルカリ性ですから、そちらとは随分違うでしょうねぇ」
着物姿の女将がニコニコと愛想よく説明を挟んだ。
客室へと向かう磨かれた木の廊下に足音が吸い込まれる。
その感触に、文乃は養父の和夫の家を思い出した。
「お部屋はこちらになります」
文乃と若菜、燈子と千種、すみれで三部屋に分かれる。
その後、部屋を移し、五人揃っての夕餉。
食卓には炭火で焼かれた地場の原木椎茸がじんわりと芳しさを広げていた。
焼き網から立ち上る湯気に混じり、肉厚な椎茸の甘みと土の匂いが鼻をくすぐる。
その横には、涼しげに透けた鯉の洗いが盛られ、皿からは仄かな川の青みと酢味噌の柔らかな酸味が交じりあう。
柚子味噌の乗った蓮根饅頭に、鰻の白焼きからは炭と脂の香ばしさが漂っていた。
「これが本場の蓮根饅頭ですか」
「蓮根饅頭に本場とかあるの?」
だって名産なんでしょ?と若菜が顔に抗議を貼りつけて千種を見るものだから、すみれが吹き出し、皆が釣られた。
笑い声の中、文乃は微笑みながらも、気づくとふと、どこか遠くを見ていた。
そんな横顔を、若菜は時折、ちらりと見ていた。
湯の上を漂う山の霞の如き湯気は、夜の白い息のように形を変えながら緩やかに昇っていく。
舞い降り、地に吸わるものもあれば、空へと還るものもある。
「……燈子」
声の主は、視線を遠くに投げたままに、燈子に語り掛ける。
「どうして、思い出せないことを怖いと思うのかな」
湯に温められ、冬空の下で色づく憂いを帯びた頬が、燈子の視線を捕えて離さなかった。
燈子は湯の下の胸を密かにざわつかせた。
「思い出したら、たぶん、戻れなくなるから、なのかも」
それは、逆説のようだった。
「……戻りたいって思うのは、悪いこと?」
文乃が湯気の奥の紅葉を見つめたまま、ぽつりと問う。
「悪いことじゃない。でも……帰る場所がひとつとは限らないのかもね」
「……むずかしいのね」
そう、童女のように、文乃は呟いた。
燈子がするりと、湯の中を泳ぐようにして、文乃に身を寄せる。
それでも次の瞬間、先に口を開いたのは文乃の方だった。
「耳を澄ますしか、ないのかもしれない」
え?と、虚を突かれた燈子の声が漏れる。
湯の中の燈子の指先に、文乃の指が微かに触れる。
「不条理な世界だもの。色んなものを突き破るくらいの想いでなければ、届かないこともあるのよ。届いてしまうことの罪を知ってなお、手を伸ばしてしまうような。わたしは臆病だから、だからいま、こうなってるんだろうけど。せめて、声が聴こえた時には、応える準備をしておきたいのよ」
まるで、山に棲むなにかに憑かれたような文乃の饒舌に、燈子は呆気にとられた。
――変なこと言っちゃった。そう言って笑う文乃に、燈子は頬を緩める。
「……ううん。よく聴こえたわ」
昔からそうだった。文乃には、自分たちには聴こえない声が聴こえている――燈子はそんな風に感じることがあった。
いまもそう。彼女に聴こえているものは、自分には分からない。
それでも、闇の奥に消え入りそうな光を見るかのような文乃の声は、澄んだ
夜更け、文乃が目を開けると障子の隙間から月明かりが細く伸びていた。
若菜は千種のところに遊びに行ったまま、ガールズトークに花を咲かせているのかもしれない。
そう思いながら、むくりと体を起こした。
部屋を出て、長い廊下を擦るように歩く。
裏手の庭先に出る。
風が山肌を撫でる音がして、冬の冷気が微かに爽やかな香気を纏って鼻先を撫でる。
その冷たさに、じんと目の奥が疼く。
――誰かが呼んでいる。
燈子とあんな話をしたせいだろうか。
感覚が過敏になっている気がする。
ふと、なにかが頬を掠めた。
その、ひとひらの
冬にも関わらず青々とした葉。
指先で強く揉むと、柑橘の薫り。
橘の葉だと文乃は気づく。
(……
日本書紀においてそれは、
時の天皇が病に伏した際、それを求めたのだという。
いざ死ぬとなれば、それは誰しも恐怖するのだろう。
だが怖れるとして、なにを?
死そのものの漠然とした恐怖なのか、はたまた忘れ去られることなのか。
――
そんな万葉の歌があった。文乃は不思議に懐かしい気持ちになった。
「おやすみなさい」
誰にともなく呟くと踵を返す。
遠くで鈴の音が鳴った気がした。
光が舞っている。
決して派手な光ではない。
薄く瞼を開けると、そこは昏い、皮張りのソファの上。
古いインクと、紙の匂いがした。
書架が見える。
そうだ、ここは図書館だ。
どこからか、小さく甲高い音が聴こえる。
その音を骨の奥に確かめるように、耳を澄ませながら。
少女は安心して、再び瞼を閉じる。
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