徴Ⅱ
――結局、自分は何者なのだろう。
昏い山道、帰りの車を運転しながら、文乃は振り返っていた。
存在証明を経済基盤に求めるというなら、やはり自分は歪な因習に捕まえられた村の、元巫女なのだろう。
信
昼は筆を執り、詩歌を詠じ、特任講師の身分でポルシェに乗る女。
彼と出会って、受け容れられて……ようやく少女になったような、そんな気持ちになっていたのも束の間。
やはり分不相応だったのだろうか。そんな後ろ向きな気持ちが、肩に手をかける。
正直、追いかけようと思ったこともあった。でも何も知らないことに気がついた。自分は彼のことを、何も知らないのだと。
アカウントBANの話で零れた加奈子の言葉が、椀の底の
なにが正常で、なにが異常か、システムに寄りかかってるうちは、勝手に決められてしまうのだ、と。
ただ同時にこうも言っていた。積み上げてきたものは、決して裏切らないと。
そう、だから自分は村というシステムのソトに、よすがを求めていたのだろう。それが、言葉であり、知識だった。
自分は回復する必要のある人間だ――それを認めるのに、まず時間がかかった。でも、若菜のために、少しでも、当たり前の母親になりたいと思った。
そうして学問に触れ、自分のおかれた環境や自分自身を言語化する訓練を重ね、少しずつ前進してきた。
そしてその度に、感じたことがある。
――わたしの言葉は、わたし以上に、わたしを知っている。
――わたしはわたしの言葉に追いつけていない。
かつて彼に伝えた言葉は、自分自身に向けて何度も投げかけてきたものだった。
きっとわたしは、一般的な女性に比べれば随分と理屈っぽいのではないかと思う。
研究成果が認められると、嬉しかった。曖昧だった輪郭が、朧気に掴めそうな気がした。
こんなにも理解されていいのだろうかと、心躍らせたこともあった。
ここにいるような知性ある人々となら、うまくやれるかもしれない。
でも、しばらく経って、なにかが違うと思った。
大学の人達は、確かにわたしの研究や表現を〝理解〟してくれた。
でも、そこに込めた感情の肌触りまでは伝わらないのだと気づいた。
理解はされる。でも、それは額縁に飾られるだけで、触れられない。
わたしの研究は、
詩を書いて気持ちを落ち着けていると、そのことがよく分かった。わたしは結局、違うカタチのものに自分を押し込めようとしていただけなのかもしれない、と。
すこしは、社会というものに繋がれた気がしたけれど。
でも、やはりどこか、孤独だった。
若菜も、そんなこと言ってたっけ。
文乃は山道で車を停車させ、エンジンを切った。静謐の中で空を見上げる。
ふと、星の少年と少女のことを思い出した。
今頃、どうしているのだろうか。
その少年は、彼、月城結人の守護星なのだと語った。
その領分を超えて守護対象のために涙を流し地に堕ちた妹――そんな彼女を追ってきた少年の姿をした星の子。
その妹は、娘の若菜の守護星で……夢物語のようなお話。
彼らの姿を見ることが出来るのは、守護対象と深く心を通わせている人間だけなのだという。
若菜がミラという名を贈ったその子の姿を、わたしはもう見ることが出来なくなっていた。
きっと、若菜が家を出ることを決意して、自分も子離れを誓ったあの日が、分岐点だったのだろうと文乃は想う。
(でも、
結人の守護星――彼がアルクトゥールスという春の明星の名を贈った少年の姿は、はっきりと見えた。
絵本の中の獣のような美しさを湛えた姿が、瞼の裏に焼きついていた。
――憶えている。
わたしは、彼と彼の星を、憶えている。
でも彼は、どうなんだろう。きっと憶えている気がする。でも、何の保証もない。
もし憶えていたとして……それがただの過去か、それともいまに繋がる光かで、すべてが変わってしまう。
わたしは、彼と心を通わせている時の自分が、たぶん、好きだった。
何者でもない自分を、そのまま見つめてくれた、彼のことが――好きだった。
もう一度空を見上げると、鼻の奥がつんとして、夜空の輪郭が滲んだ。
星は、さっきよりも数を増していた。
*
「君はいろいろと仕事が多くて、大変だね。バクたちの世話はいいの……?」
グレージュの髪の少年が、隣に立つふたりのうち、ひとりの少女に語り掛ける。
「大丈夫。今朝もあの子が端切れをたんまりあげてたから。助かってるんだ。みんなが悪夢を見るもんだから、ぜんぜんバクが足りなくて……でも、そろそろ戻るね。あとはふたりで、やれるでしょ?」
セミロングの純白の髪は、星明りを受けると、淡く金の粒子を散らしながら、尾を引く彗星のように輝いた。
銀鼠の瞳に、白いワンピース。柔らかく揺れる裾に、風が甘える。
どこか茶目っ気を感じさせる笑みに、澄んだ湖面のような相貌が軽やかに揺れた。
「うん、あとの引率はふたりで大丈夫だ。ありがとう。でも、挨拶はいいの?」
「まだ正式に後任と決まったわけじゃないからね。それに――」
そこへちょうど訪れた彼女の気配に、少女の気配が去る。
「あなたたち……」
自分の庭に佇んでいた
「勝手にお庭にお邪魔して、申し訳ありません。美しい人」
グレージュの髪に琥珀の瞳の少年――アルクトゥールスは、漆黒のスモックを翻し、恭しく片膝をついた。
そして隣に立つ、もうひとりの少女も、小さく頭を下げた。
外見年齢は少女の方が少年よりもすこし上に見えたが、アルクトゥールスの方がずっと落ち着いていた。
少年と、少女と……そして奥に
「あなたが……わたしの担当なの……?」
文乃の柔和な声に、少女はどこか緊張した面持ちで、伏せていた目を上げる。
銀青色の髪が肩から腰にかけて柔らかく流れ、常夜灯の光に透けると、淡い群青が差す。
春の夜空のような薄いターコイズブルーの瞳が揺れると、それはどこか憂いを帯びた水面の
ベビーブルーから瑠璃にグラデーションするドレスは、腰から裾にかけて刺繍が施され、夜空の切れ端を纏っているかのよう。
首元には光を集めたかのような、一粒の真珠のペンダント。
少女から大人に向かう
文乃は、息を吞んだ。
「はい……そうです」
少女は指を腰の前で組みながら、答えた。
「あ、でも堕ちてきたわけじゃなくて、そこはご心配なく!たまたま、ちょーっと、通りかかっただけなので……」
そうして背後の塊に視線を移す。
それは、熊くらいの大きさの、犬のような狼のような獣だった。
いまはただ静かに、そこがあるべき寝床であるというように、寝息を立てていた。
最初、警戒していた文乃の元に、風が獣の匂いを運んだ。
すると彼女は、ゆっくりと獣に近づく。
目を泳がせる少女を、アルクトゥールスは視線で制した。
文乃は獣の首元に腰を下ろすと、毛に身を埋めるようにして寄りかかった。
毛並みは荒いけれど、撫でれば温かく、そして――草原の匂いがした。
懐かしいような、もう随分長く嗅いでいないような、そんな匂いだと思った。
「それは、彼の獣の影です」
影? と少年に問うように、文乃はぼんやりとした頭を傾げた。
「人は誰しも、物語を持っています。その
物語が、人を喰らう。文乃はその響きに、古い夢をなぞられるように、不思議に恍惚とした。
「でも彼は抗った。手懐けようと、いまも闘っています。ここにいるのは、その残滓です。……あなたの匂いに、惹かれてきたんでしょうね」
文乃はその言葉に、再び獣に身を寄せると、深く息を吸い込んだ。
「僕たちは、それを回収しに来ました。稀有なケースなので、その獣にも役割があります」
「古くなったり、歪んだ星を食べるのよ」
文乃が疑問を挟む前に、少女が補足する。
それが何を意味するかは分からなかったが、文乃はただ「そう」と息を吐くように零すと、そっと獣から身を離した。
「喪失の後に残る記憶は、鉄より重い……」
少女の突然の一言に、文乃の瞳が彼女を捉える。
自分を守護する人ならざる存在が、なにかを伝えようとしているのだ。
「心の奥に沈んでる。金や、銀や、ウランみたいに。それも――
光――加奈子も今日、そんなことを言っていたなと、思い返す。
「お友達を支えてた人たちにとって、その
少女の微笑みに、文乃の目尻も、自然に下がる。
彼女は励まそうとしているのだ。不器用に、懸命に。
自分と、自分の大切な人を。
「だから大丈夫。だって天の川が消えたなんて大ニュースすぎるでしょ?すぐにみんな空を見上げて、星を探して、飾って……すぐに前よりずっと賑やかになるわよ」
それから――と、星の少女は付け加えた。
「
そんな風にわざとらしく毒づきながらも、少女は笑っていた。
そして、短い邂逅に、別れの
「わたしも、あなたに名前を贈ってもいいかしら?」
少女は気恥ずかしそうに、ちらりと少年の方を見た後、確かに頷いた。
その時、文乃の舌先にふと、あの日の味が甦った。
あの、奇妙な柘榴。
四粒や六粒では済まないくらい、食べてしまった。
なにかを鎮めるかのように。
もしかすると、その時点で、何かの歯車が狂ってしまったのかもしれない。
いいえ、それなら……自分の今いる場所が夜の底だというのなら……わたしは、その符牒を利用しよう。
狂ったのではなく、動いた。大きな歯車が動き始めたのだ。
それは希望……かもしれない。
とても、口には出せないけれど。
せめて、あなたに、この名前を――
彼女は少女の姿をした星の子の耳元で、そっと囁く。
星の少女の背が、ぴくりと震える。
その震えは、銀青の髪に光の波紋を立て、心臓を打った。
そして、そんなふたりを見つめるアルクトゥールスの瞳の奥が、まるで呼応するかのように揺らぐのを、文乃は見逃さなかった。
彼の静かな佇まいの奥に秘められた、言葉になる前の、抑えきれぬ熱を。
嗚呼……やっぱりこの子も、彼と同じなんだ。
それは胸を軋ませ、焦がし、静かな切なさを呼んだ。
「あなたにも……いい?」
「星でダブルネームを持つのは、きっと僕が初めてですね。〝境界の君〟たる彼を守護する者としては、あるいは似つかわしいのかもしれません」
――境界。
彼はいま、何の境界に立ち向かっているのだろう。
それは、独りでないといけないものなのだろうか。
文乃の声が震える前に、少年は再び片膝をついた。
「……慎んで、拝受いたします」
*
一対の星の子と一匹が去った庭を、文乃はしばらく見つめていた。
それから、屋上の天文台へと足を運ぶ。
扉には、若菜が小さい頃に描いた、架空の星座。
〝文乃座〟と〝若菜座〟。
その隣に、いまはもうひとつ、線が引かれている。
文乃はその線にそっと指を這わせる。
でも、すぐに離した。
確かなことなど、なにもない。
徴はただ、徴だ。
それでも、道標には、なるかもしれない。
その夜、彼女はそのまま、貝殻の中で眠りについた。
記憶に、抱かれながら。
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