獣
髄液が、泥水になったような日々だった。
平衡感覚を失い、絶えず吐き気を催させる。
目が、耳が、鼻腔が、舌が、性器が――普く脆弱が、紅い錆に覆われている。
こそいでも、こそいでも、それは落ちきらず、
どこまでが錆で、どこからが地金なのかも、判然としない。
――私はなぜ、生きているのだろうか。
頭の中を、彼女の横顔が過るたび、私は〝私〟に馬乗りになり、思うさま殴った。
何度も、何度も。
粉々に砕き、カレットになれば、また彼女の枕元に行けるだろうか。
そんな甘えた考えが、浮いては、沈む。その、繰り返し。
やがて〝私〟の顔も、私の拳も、粘つく血に塗れ、汚辱と、やるせなさだけが、残った。
あの日、私は、これ以上、彼女を傷つけたくなかった。
だから、彼女の元を去った。
最初から死んでいれば良かった。
私が死んでいれば、良かったんだ。
毎日そんな風に、己を呪った。
そうだ。私は、思い出してしまった。
そこには蔵があった。入口のあたりの床板は、雨漏りで腐っている。
それを跨ぎ、黴くさいような、埃くさいような蔵に閉じ込められた空気の層を抜けると、そこには
あの日、私たちの新しい未来の
私は惹き寄せられ、乱暴に打たれた捻じ曲がった釘を、傍に在った金づちについた爪で抜いた。
私を誘ったものは、なんだろう。好奇心、なのだろうか。
きっと開けるべきではなかった。
でもいまとなっては、それは必然だった。
そういう種類の物事というのは、ある。
まるで、パンドラの箱だ。
であれば、箱を開けたのは、通過儀礼なのかもしれない。
だとしたら、火をもたらした者は、いったい誰なのだろうか。
私に、進化を促した、彼女なのか。あるいは、彼女に変化を
きっと私だと、考えるべきだ。私が、引き受けるべきだ。
プロメテウスは神々に反逆し、変革の責任を自ら負う。
好奇心ではなく、その覚悟と責任において、箱を開けたのだ。
世界に災いが解き放たれたとき、彼女はそのすべてを傍らで見届ける。
そして彼女は、希望を手のひらに包む。そうあるべきだ。
私は日々、大鷲に肝を啄まれては、再生し、それを繰り返す。
きっと、ヘラクレスは来ない。
鎖は自ら断つ。彼女に、希望を届けるために。
情熱を胸の奥に秘め、受難の道を征く。
夜、目を覚ます。
眠りが浅いのか、夢ばかり見る。
私は森の奥で独り、火を燈している。
あるいは、奇妙な悪夢をみる。
纏わりつく布団の馴れ馴れしさに耐えきれず、肌に爪を立てた。
さらに歯を立てると、舌先を血の味が刺した。
――静寂。
音はあらかた、削ぎ落とした。
時計も、叩き割りそうになったところを、ふと冷静になって、惨めに電池を抜いた。
冷蔵庫のモーター音すら、業腹だった。
拳と頭を何度か打ちつけたあと、馬鹿馬鹿しくなって、事務的に電源を抜いた。
それでやっと、静かになった。
ここはいったい、何処なんだろう。
闇の中、融け合う曖昧な輪郭が、
頭の中も、曖昧になっていく。
私はまた、眠ったのか……?
いや……また、悪夢だ。
*
人間は、互いに不足を埋め合って、生きていくのだという。
人という字は、支え合う姿の象形だと。
教室の隅、僕は独り、膝を抱えている。
皆が手に手を取り合い、胸には光を宿している。
やがてそれは輪になり、さらに大きく、もっと温かく、もっと眩く。
一人のおかっぱの少女が、僕に歩み寄る。
手を、差し伸べてくれる。
笑顔だ。
目元は見えないけど。
口元でわかる。
白い歯が見える。
ツヤツヤとして、健康そうだ。
痺れたように動かない右手に力を込める。
神経の中を蚯蚓がのたくるような不快感を制し、どうにか持ち上げる。
――すっ、と少女が手を引く。
笑顔は、波が引くように去った後だ。
『あなた、ちょっと……怖い』
寒くなる。
耳鳴りがする。
他の皆も遠巻きに見ながら、何かを囁き合っている。
彼女も輪に戻った。
捏造だ。
こんな記憶はない。
でも違和感もない。
そうだ。
僕はいつだって、迷惑をかける。
離れろ。
期待させるな。
私は――
*
遠鳴とともに、くすんだ窓の向こうに、気配を感じた。
夜に穴をあけたような、漆黒が薫っていた。
私は誘われるように、外に出る。
十一月だというのに、台風の日のような、むっとした空気が顔を覆った。
一瞬、世界が明るくなった。
雷だ。
目の前に、大きな獣が、犬みたいに座っていた。
朧月を肩に背負う威容は、二階建ての建物くらいはありそうだ。
頭はひとつ。
吻の長い、犬とも狼とも狐ともつかない生き物。
目がギョロリとして、血走っている。
名を、なんといったか……あのサラブレッドみたいだ。
春分と秋分を表す、光と闇の均衡、そんなイメージの名前だった。
彼の眼と、同じだ。
さぞ俊足なんだろう。
つまり、きっと、逃げられない。
毛足の長い、黒く艶やかな
帯電でもしてるのだろうか。
私は妙に醒めていた。悪夢の延長だろうか。唇の端が、痙攣したように持ち上がった。
いいじゃないか。
そいつはたまにクルルと喉を鳴らしながら涎を垂らし、私を見下ろしていた。
そこにはどんな感情も読み取れはしなかった。
ぽつりと、雨粒が頬を打つ。
一気に来た。
そうか。オマエが、〝物語〟なんだな?
私にはわかった。ただ、わかった。
また、私を喰らいに来たのか?
好きにしろ、と言いたいところ。
でも私は、見た目ほど捨て鉢になっちゃいないんだ。
私はその獣を睨みつける。
そいつは、一瞬身を縮めたかと思うと、月を貫くかのように高く、存在を膨れ上がらせ、天を仰いで咆哮した。
咆哮……否。
その銀を裂くかのごとき金切り声は、まさにハウリングだった。嵐は四つ足だった。
鼓膜を
どこかで硝子の割れる音がした。とても生き物が出す音とは思えなかった。
私は陶然としていた。
唇に何かが触れた。鼻血を垂らしていた。
いいぞ、喰い殺してみろ。生き返ってやるから。
今度はなんだ。カメか?クワガタか?ラフレシアか?河童か?冬虫夏草か?
あるいは蝶か、蛙か。
なんだっていい。何度でもやり直してやる。
異物は異物らしく、そう簡単に消化されてやるものか。何度だって腹を割り裂いて出てやる。
仲良くやろうぜ。そうすれば、これからは何だって、オマエと半分こだ。
でも絶対に目を離さない。彼女まで半分こにされたら、たまらないからな。
生ぬるい風が首筋を撫でた。
巨体が覆いかぶさってくる。
ナイフはない。
あるのは、二本の腕だけだ。
十分だ。
それは、包み、重ね、撫で、探るための器だ。
でもいまは、立ち向かうために。
*
夜の底には 獣が棲む
影 あるいは 残光
普く導きから逸れた
名もなき場所で
声なき呻きをあげ続ける
強張った皮膚の奥に 揺れるのは
抑えがたき衝動 あるいは 疼き
いっそ世界を食いちぎるほどの
飢え 渇き——
だが
そのまなざしは 哀惜に濡れて
黎明の中 ただひとつ
ただしい名で 呼ばれることを 夢みる
理を脱いだそのとき
切り裂かれた魂から
新しき徴 春が生まれる
獣と呼ばれた 夜を超え
また 誰かを 腕の中へ
呻きと願いを重ねながら
獣はすすむ 人の途を
人とは
人間性とは
*
物語と対峙して、もうどれだけ経つだろう。
私はもう、ボロボロだった。
身を裂かれ、内臓を零し、そんな私の血が融けた水のように、
時間は、薄く、紅色に染まっていた。
現実感がない。
でも不思議と、思考が澄み始めた。
あの時、彼女が私を見つけてくれなければ、きっと私は、まったく違うものになっていたと思う。
結局また、瞬きするように、渇きを諫め、大きな鎌を持った男の外套を引くだけの日々。
ただ、風雨に晒される革紐の如くなっていただろう。
書くことなど、きっとしなかった。
あるいは、途中で筆を折っていた。
でも、彼女が繋ぎとめてくれた。
何度も、何度も。
触れ合った指先の感触が、いまも残っている。
冷やりとして、じんと沁みるように、胸の奥が温かくなった。
私は、知ってしまった。
遠い繰り返しの中で。
ある、残酷な現実に。
私が求めていたはずの平穏では、私が、満たされないということに。
選ばれることだけでは、癒えないということに。
失った時点で、傷を負った時点で、
同じだけの痛みがないと、甘さを感じられない体になっていた。
傷跡は消えない。膨らみ、色の変わった皮膚では、感じ方も変わってしまう。
そんな私に、彼女は、かけがえのないものをくれた。
それは――生の実感。
たとえ刹那であっても、そこにある感応の深さ、密度、熱――それは時間をバターのように溶かした。
耐え難く甘美だった。
冷蔵庫の奥、冷えて硬くなった乳白に、やさしく火を入れ、
ぷつぷつと粒を立てる泡の音に耳を澄ませる。
その味は忘却を拒み、魂に刻まれる。
だから、私は今日も、生きている。
物語に、対峙している。
この先、何が待っているのか、まだまだ見えない。
それでも、ひとつ言えるのは、
私が彼女を忘れることは、決してないということ。
仮に私が私の名前を忘れても、彼女のことだけは、憶えているだろう。
そうだ、シンプルなことだ。
それゆえに、困難だ。
私は、私の為すべきが、見えた気がする。
これは、その記録。
私は、もう一度、彼女と繋がる必要がある。
その方法は、まだ曖昧だ。
でもまずは、物語を紡ごう。
それが、ひとつ目の証明。
私が、彼女を、忘れていないことの。
そして、手紙を書こう。
伝えるべきことがある。
残酷なことかもしれない。
でもきっと、彼女なら――
その先で起こることは、きっと物語だけが知っている。
私はただ、誠実に向き合い続けるだけだ。
愛を手放さないために。
彼女に想いを馳せる。それがきっと、力になる。
重さや、痛みは、できうる限り、私が引き受ける。
彼女が痛みを覚えるなら、同じだけの甘さを注ごう。
知的で、艶美で、近くて、遠い。
誠実で、ユーモアを忘れない――
実は臆病で、強がりで、ときどき気まぐれで、
大雑把で、ちょっと口が悪くて、
ストレスが溜ると山盛りのブロッコリーにマヨネーズをたっぷりかけるし、
カツカレー並みのカロリーの激甘ドリンクをいつも一番大きいサイズでオーダーする、
矛盾だらけで、人間らしい――
そんな彼女を、本当は、ずっと隣で眺めていたい。
そして、同じ景色を見つめていたい。
何も強いない。
彼女が、軽やかにあれるように。
何も失わない。
私も、彼女も。
そんな幻想と、現実を交差させること。
それが、自称幻想小説家の本懐。
まだ、誰も感じたことのないタクティリティを、
――アルクトゥールス。
グレージュの髪に、琥珀の瞳をノミで起こした、星の子よ。
その瞳の奥には、なにか、別の色が揺らめいて見える。
私は、〝境界の君〟だ。
君が私を、そう呼んだとおりに。
境界を越えないこと。
境界の上にあること。
そのふたつは、矛盾しない。
私はただ、信じて、灯を燈すように書く。
私が彼女を見つけ、彼女が私を見つけられるように。
彼女が、おずおずと、指先で示すだけで、良いように。
彼女の望む、最も美しく、最も誠実で、最もままならない、
他の誰に理解される必要もない――そんな、物語を。
大丈夫、揺蕩っていてください。
遠く、近く、火を眺めながら。
星を、夜を、聴きながら。
物語という、花を、贈ります。
それでも、もしお気に召さなければ、
望む花が、咲かないのであれば、
根を掘り返して、新しく、一緒に種を植えてくれませんか。
私は、ガーデニングには疎いので。
もちろん、その時どうするかは、あなたが選んでください。
シャベルは、用意しておきますから。
――〝あわい〟の囁きが、聴こえる。
――栓抜き塔へ。
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