菓Ⅰ
遠くの山から、ナマズの髭みたいに山霧が立ち昇ってる。
蓄えられて、濾されて、綺麗になって、排気ガスみたいに空に融けてく。
きっと、沁み込んだ、誰かの想いもいっしょに。
そのなかには、たぶん、ボクのも混じってる。
ボクの想いは、井戸の底。
ワンワン叫んで、思いっきり吐き出した。
千種にグチろうかと思ったけど、彼女は彼女で、変なオーラ出してたからなぁ。
本当、勘弁して欲しい。
〝あなた〟はもう、この村の楔だったんだよ。
勝手に抜けられると、色んなところがガタピシ
もうちょっと、自覚して欲しかったんデスケドモね。
やれやれ、じゃあ済まないよ。
気がつくと眉間にシワが寄っていた。
人差し指でぐにぐにと解す。
「若菜ちゃん」
「ひぁぅ」
振り返ると、巫女装束の千種がでんと立っていた。
彼女はたまに気配がない。
存在感はあるんだけど、たまにスンッて世界に融けちゃう。
ボクはそういうの、結構敏感な方なんだけど、ぼんやりしてたかもしれない。
おかげで変な声、出ちゃったじゃん。
千種はボクの座ってた石段の隣に腰を下ろす。
動きって言うか、所作?
千種はどんどん、燈子さんに似てきてる。
ボクはどうだろ。お母さん、ソトだと猫被ってるからなぁ……
お洒落できっちりしてるって思われてんだろうけど……いい迷惑だよ。
ボクたちが座ってるのは神社の敷地の隣の墓地。
斜面になってて、ボクはときどき、ここでぼんやりと山を眺める癖があった。
なんとなく、見守られてるような気がするのかもしれない。
友達には、変だって言われたけど。ボクが変なのはデフォですから。
……あ、どっかの誰かみたいになってる。よくないぞ。
「……なにか、できないのかな」
零れたのは、鈴みたいな千種の声。千種はさっきまでのボクと同じように、山の方を向いたまま、独り言みたいにそう言った。
ああ、たぶんきっと、お母さんたちのことだろうな、と思った。
和夫さんが倒れたり、
あと、あのボンツクも蒸発したし!
……はぁ。
「なにか……かぁ……」
そんな気の抜けた返事しかできない自分が悔しくて、ボクは知らず白衣の袖を握りしめていた。
「……なにか、甘いもの……つくるとか……?」
千種が自信なさげに、ようやくといった感じでそう言った。
こういう千種は最近では珍しい。
いやいや千種さん、すみれさんならともかく――
「あ゙」
また、変な声が出た。
でも、思い出しちゃった。
ボクが、はじめてお菓子を作った日のことを。
*
アレはたしか、まだ小学生で……台に乗らなくても台所の奥が見えるようになった頃。
お母さんは文筆の仕事が軌道に乗り始めて、すごく忙しそうだった。
それでボクはボクなりに、なにか励ましたくて、でも何をしたらいいか、わからなくて。
そんな、十一月二十五日。
「いい笑顔の日」だって、学校で誰かが言っていた。
……だったら、今日はお母さんを笑わせよう。
些細なことでもいい。きっと、お母さんなら、笑ってくれる。
そう、思った。
冷蔵庫の奥から卵と牛乳を出し、台に並べる。
レシピ本を片手にボウルの中を覗きこむと、背中が少し丸くなった。
粉の匂いに、少しむせた。
台の角でコンと卵を割って、白身と一緒に指に絡まった殻がボウルに落ちて、粉の上に白い小さな欠片がキラキラしてた。
それを必死にスプーン掬い出してるうちに、ボウルがひっくり返りそうになったりして。
でも、もう甘い匂いがしてきて……これ、焼かなくても食べられるんじゃない? って、ちょっと思った。
……いや、食べられないよ。
混ぜすぎて重くなった生地は、スプーンからぼてっと落ちて、丸くならなかった。
でも、頬っぺたに熱を感じながら、オーブンの窓越しに見える色の変化は、魔法みたいだった。
焼き上がりは、不揃いで、ところどころ焦げてた。
なんでこんな不器用なんだろう。
千種なら、きっともっと上手にできるんだろうな。
そう思って、ちょっと泣きそうになったのを、いまでも憶えてる。
お盆にのせて書斎に運ぶと、お母さんは書き物の手を止めた。
『……若菜が?』
半魚人でも見たような顔、してた。
ボクが口を尖らせたまま頷くと、唇がやわらかく持ち上がっていった。
その笑顔が、胸の奥のつかえを溶かして、背筋まであたためていって――忘れられない。
*
にしても、大雑把だったなぁ、あの頃から。
余った分は学校に持っていったりして、千種も琴音も、さすが若菜だね、センス爆発してるねって。
……いやセンスとかじゃないんだけどな。
でも、美味しそうに食べてくれたから、嬉しかった。
……誰だっけ。『これ恐竜⁉ 恐竜だよね⁉』って言ってたやつ。
……ワタナベ? あれは笑った。
そのあと、千種と琴音に詰められて、かわいそうだったけど。
ふふ……まぁ、そんな大雑把さも、母譲りなんだけど。
だから彼がお母さんと一緒に暮らし始めた時も、ヒヤヒヤしたもんだよ。
化けの皮が剥がれたら、幻滅しちゃわないかなって。
でも……彼は言ってた。そういうところも、可愛いんだって。
大雑把だとしても、それでも大切だと思うことを、ひとつひとつ丁寧にしようとするから美しいんだって。
全部が全部、丁寧になんてやってられない。エネルギーは有限だ。
大雑把に見えるのは、ちゃんと大事にしたいものが、ある人だから。
僕はそういう人の方が、ほっとするんだ――って。
すごくやさしい表情で。
マグカップをそっと置いて、お母さんの手入れした庭を眺めながら。
娘に
だからいつも、お母さんの適当な本棚整理するの、あんなに楽しそうだったのかな。
ほんと、あの人らしいっていうか。変な人。
――それなのに。
ちがう、いまはその話じゃない。
「〝笑顔記念日〟を制定します!」
「……え?」
十一月二十五日
朝、裏庭に出ると、葉の落ちかけた柘榴の木が、冬のはじまりの光を受けて立っていた。
枝の先に、ひとつだけ、実が残っている。
少し裂けて、宝石みたいな粒がのぞいていた。
うん、まだ使えそう。
手を伸ばして
風の音に振り返る。もう一度、手の中を見る。
その赤さは、くすんだ庭の中で、ひときわ鮮やかだった。
台所に戻ると、千種が冷蔵庫の奥から瓶を出してきていた。
秋にお母さんが収穫して、蜂蜜漬けにしてたやつだ。
朝のやわらかな光のなか、キッチンのカウンターに置かれた瓶。
それはずっと誰かを待っていた仔犬みたいに、眩しく、澄んで見えた。
揺蕩う蜂蜜の中、ひと粒ひと粒の柘榴の実が、静かに寝息を立てていた。
「こっちはベース用にすると良さそう」
千種が瓶をそっと傾けると、とろりとした琥珀のなかで柘榴の果粒が優しく寄り添い合う。
お互いの陰影を映し合いながら、ゆらぎと色彩のゆめを見ている。
朝陽が瓶越しに透けると、蜜のなかに揺れる果粒の紅は、季節の記憶が目を醒ますように、しんしんと輝きを増した。
瓶を開けると、優しい蜂蜜と、柘榴の爽やかな匂いが混じり合って、ブーケみたいに広がった。
希望の匂いがする――そんな感じがした。
庭の最後のひとつと、秋の名残。
それなら、きっと立派なタルトになる。
「若菜ちゃん、まずタルト生地をのばそうか」
「はい!先生」
ふたりで話して、それぞれに別のお菓子を作ることにした。
五人分だし、その方が個性が出て面白いだろうってことで。
ボクは柘榴のタルト。千種はクランブルケーキ。
といっても、お菓子作りは千種が先生だ。手取り足取り……というわけ。
パート・シュクレを型に敷き、冷蔵庫で休ませた後、フォークでピケ。
重石を乗せて静かに空焼きする。
焼きあがった台にアーモンドクリームのブランケットを広げる。
まず千種がお手本にと、瓶からすくいあげた滴る命の粒を、ベッドにするみたいに、丁寧に並べていく。
……ああいうふうに、ボクはできない。
手先の器用さとは、きっと別の才能なんだと思う。
千種みたいにできたら、きっともっと、いいものが作れるのに。
スプーンの角度ひとつに迷って、何度もやり直すボクを、千種も自分の分を進めながら、時々微笑みながら見守ってくれた。
「柘榴のシロップはもう作っちゃっていい?」
「うん、大丈夫だよ。あ、ただ火にかけすぎると色がくすむから、気をつけてね」
千種の指示通り、火加減に気をつけながら、小鍋の中で泡立つ柘榴のシロップをじぃっと見つめる。
ナパージュ? 代わりにするといいと、彼女が教えてくれた。
並行してタルトを再び温めていたオーブンから、柘榴と蜂蜜の香りが漂い始める。
泣きだしたみたいに熱を帯びて。
とろけて、混ざって、生地とひとつになっていくのが、匂いと音で分かった。
「若菜ちゃん、そっちはもう火にかけた?」
「うん。……アタシだって、ちゃんと見てるんだから」
「……アタシ?」
「あ」
言ってから、あちゃーとオデコを手で押さえた。
スクールに通うようになってから、ボクはソトでは一人称を変えるようになっていた。
ワタシ、あるいは、アタシ。
学生同士だと、だいたいアタシ。
なんでいま、出ちゃったんだろ。
千種は、そういうのも悪くないね、とだけ言って、笑ってくれたけど。
さっき摘み取ったばかりの柘榴の実を割ると、赤い粒がぱらぱらと音を立ててボウルに落ちた。
ひとつひとつが、濡れたガラス玉みたいに光っている。
果汁が指先に滲んで、甘酸っぱい匂いが立ちのぼった。
焼きあがって冷めたタルト。
刷毛で表面にそっとシロップを塗り伸ばせば、焼き色と果実の隙間にやわらかな艶が息を吹き返す。
仕上げに、生の柘榴を散らす。
ごく控えめな量でも、粒がひとつ乗るだけで、冬の森に灯る真紅のベルみたいに、景色が引き締まる。
瑞々しく冷たい粒は、焼き込んだやさしい甘みの層と対照を成して、朱と紅がタルトの上で美しいグラデーションをつくる。
仕上げにミントの若葉や粉砂糖で化粧をすれば、陶然となるお披露目の瞬間。
……なんて、彼なら言うのかな。
でも、そこはボクだからね。
余っても勿体ないと思って、ふんだんに散らした。
生の柘榴は種が食べにくいけど、まぁ見た目も大事でしょ。
最後は、らしくすることにした。
千種が粉をふるいながら、きっちり同じ高さから落としていく。
その動きには、何か確かな約束みたいなものを感じて、見ているだけで安心する。
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