芍薬の君へ ――ふたつの花が咲く庭で

水月 りか

プロローグ:言葉なき契り

 東の果て、生まれ育った故郷を離れ、璃珠リジュは揺れる輿の揺れに身を任せていた。幾日もの長旅を経て、ようやくたどり着いたその地は、見慣れぬ瓦屋根と、高々とそびえる赤き門が印象的な、威厳に満ちた都だった。



 「姫様、まもなく後宮にご到着でございます」



 そう告げる侍女の声も、璃珠には遠く聞こえた。ここ数日、彼女の耳には故郷の言葉が届くことはなく、ただ漠然とした不安と、胸の奥に宿る一つの決意だけが、静かに燃え続けている。



 輿から降り立つと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。異国の後宮は、想像以上に広大で、複雑な回廊がいくつも続いていた。艶やかな絹の衣をまとった女官たちが、好奇の目を隠しもせず璃珠を見つめる。きっと、噂はもう都中に広まっているのだろう。



 ──『東の異国から献上された姫は、美しいが、何も話さぬ』



 言葉を話さぬのではない。話せないのだ。この国の言葉は、璃珠の唇にはまだ重すぎる。しかし、彼女には伝えたいことがあった。この地にもたらされた使命と、胸に秘めた想いを。



 その夜、帝・景宗ケイソウとの初めての対面が許された。広間へと案内される道のり、璃珠は息を詰めて歩いた。果たして、この国の帝は、どのようなお方なのだろうか。恐ろしい方だろうか、それとも慈悲深い方だろうか。



 玉座に座る帝は、若く、涼やかな顔立ちをしていた。しかし、その瞳の奥には、深い氷のような冷たさが宿っているように見えた。彼は璃珠を一瞥すると、何の言葉も発することなく、静かに席を立った。



 「下がって良い」



 傍らの老女官が、璃珠に伝わるようゆっくりと告げた。呆気ないほどの、短い対面だった。帝は璃珠に目もくれず、広間の奥へと去っていく。その背中に、璃珠はただ静かに頭を下げることしかできなかった。



 唯一、その広間の窓から見えたのは、夜の闇に浮かび上がる、広大な庭園の片隅に、月の光を浴びてひっそりと咲く、幾輪もの芍薬の花だった。

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