芍薬の君へ ――ふたつの花が咲く庭で
水月 りか
プロローグ:言葉なき契り
東の果て、生まれ育った故郷を離れ、
「姫様、まもなく後宮にご到着でございます」
そう告げる侍女の声も、璃珠には遠く聞こえた。ここ数日、彼女の耳には故郷の言葉が届くことはなく、ただ漠然とした不安と、胸の奥に宿る一つの決意だけが、静かに燃え続けている。
輿から降り立つと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。異国の後宮は、想像以上に広大で、複雑な回廊がいくつも続いていた。艶やかな絹の衣をまとった女官たちが、好奇の目を隠しもせず璃珠を見つめる。きっと、噂はもう都中に広まっているのだろう。
──『東の異国から献上された姫は、美しいが、何も話さぬ』
言葉を話さぬのではない。話せないのだ。この国の言葉は、璃珠の唇にはまだ重すぎる。しかし、彼女には伝えたいことがあった。この地にもたらされた使命と、胸に秘めた想いを。
その夜、帝・
玉座に座る帝は、若く、涼やかな顔立ちをしていた。しかし、その瞳の奥には、深い氷のような冷たさが宿っているように見えた。彼は璃珠を一瞥すると、何の言葉も発することなく、静かに席を立った。
「下がって良い」
傍らの老女官が、璃珠に伝わるようゆっくりと告げた。呆気ないほどの、短い対面だった。帝は璃珠に目もくれず、広間の奥へと去っていく。その背中に、璃珠はただ静かに頭を下げることしかできなかった。
唯一、その広間の窓から見えたのは、夜の闇に浮かび上がる、広大な庭園の片隅に、月の光を浴びてひっそりと咲く、幾輪もの芍薬の花だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます