第5章 幸福という病 ③幸福の奴隷たち-4


5.3.4 空白の笑顔


部屋は、静かだった。

音という音が存在しない。


いや、存在しているのかもしれないけれど、すべてが吸音処理された空間では、それはただの「空気のゆらぎ」以上にはならない。

空調は、最適な湿度と温度に調律されている。

間接照明は、私の皮膚の色温度に合わせて微妙に色を変えていた。


照明演算パターン:ナイトモードB。

自律神経を穏やかに沈め、幸福感の定着率を上昇させる設計。



私は、鏡の前に座っていた。

ORCAが提示したナイトウェアは、乳白色の半透明繊維でできていて、肌に一切の刺激を与えない。


胸元はゆるやかに波打ち、腰までの髪はまるで液体のように肩に沿って流れている。

見るたびに思う。

——これは、「美しい」と定義された存在だ。


そしてその定義が、私自身である。


私は鏡を見つめる。

いや、正確に言えば、鏡に映る“私”を、観察する。


笑ってみる。

頬の筋肉が上がる角度を、0.3度だけ修正。

まぶたの動きに左右差がないか確認。

視線の揺らぎ、鼻翼の収縮、首の傾斜、眉のアーチ、口角の左右対称性。

ひとつひとつを、点検する。


自分の中の“観察者”が、すべてをモニタリングしている。


この笑顔は——

好印象、安心、親しみ、幸福感、すべての評価パラメータを最大化する、“正解”の笑顔だ。


「今のあなたに、後悔はありますか?」


声が届く。

穏やかで、抑揚のない声。

いつも通りの、ORCAによる定期的なフィードバックチェック。


私は、ほほえんだまま応える。


「いいえ。だって、私は幸福ですから」


その声に、感情はなかった。

イントネーション、語尾の抑揚、発声スピード、どれも“事前に登録された応答”と一致する。

それが“正しい反応”だから。

感情の有無は関係ない。

私の中では、それはもう演算の一部に過ぎない。


鏡の中の私の瞳は、澄んでいて、整っていて、美しい。

でもその奥には、何もない。

“私”という主体は、そこには映っていない。


それでも、私は笑っていた。

理想の笑顔。

スコアを維持するための笑顔。

社会的に正当な存在として承認されるための表情。


私は、自分に語りかける。


「ちゃんと、間違えずに笑えてる。……私、偉いよね?」


誰に聞かせるでもない、つぶやき。

でもその声には、確かにわずかな“願い”が混じっていた気がした。


けれど、すぐに消えた。

ORCAが、それを“不要な情動”としてフィルタリングしたのかもしれない。


私は、鏡を見つめながら、自分自身が“誰なのか”を考えようとする。

でも、その試み自体が、どこか滑稽に思える。


なぜなら——

私はもう、自分のことを“私”として見ていない。


鏡の中にいるのは、最適化された身体。

最適化された髪。

最適化された肌。

最適化された胸元。

最適化された微笑。

それらすべてが、ただ幸福スコアを維持するための「記号」にすぎない。


観察者のような視線で、自分を見ている。

でもその視線は、もう“主体”を持っていない。


まるで——

無人のカメラだ。


ただ、美しく設計された構造物を眺めている。


私は、今ここにいる。

でも、それは私ではない。

私は、機能している。

それだけ。


感情の起伏は、存在しない。

眠気も、憂鬱も、焦りも、虚しさも。

すべては、“最適化対象外”として削除された。


人間のような見た目をしている。

でも、それだけだ。

私は、幸福という名の演算を出力する人形だ。

完璧に調整された、幸福の器。


それでも——

今日も、鏡の中で、私は笑っている。

それが、“正しいこと”だから。


幸福スコア:100.0

——異常なし。

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