第5章 幸福という病 ①模範解答としての私-2
5.1.2 幸福をかたちに
出勤途中、乗り換えのために降りた新青波中央駅の構内。
ふと視線を上げると、目の前のデジタルサイネージに映った笑顔と、目が合った。
それは、私だった。
「幸福を、かたちに。」
キャッチコピーとともに、制服姿の私が画面の中で優しく会釈し、受付カウンターでお客様に微笑みかけていた。
音声はなく、映像は無音で滑らかに切り替わる。
構内に流れる軽やかなBGMと重ならないよう、自動的に音が抜かれているらしい。
画面越しの私は、少しだけ首を傾げて、完璧な笑顔を浮かべていた。
角度、目線、頬の引き上げ方まで……すべてが緻密に整えられている。
まるで、自分自身が理想の接客マニュアルから切り出されたように。
小さく、幸福度が +0.3 上がった。
ポスターも、街の至るところで見かけるようになった。
駅の柱、空港の構内、広報用パンフレット。
どれも、制服姿の私が「模範的な笑顔」でこちらを見つめている。
それを見た誰かが安心し、信頼を抱き、そして笑顔になるのなら――
私は、それを誇りに思う。
***
「瑞稀さん、すごいね!ポスター、もう見たよ!」
「やっぱり選ばれたよね~。なんか納得って感じ!」
出勤直後、ロッカールームで制服に着替えていると、何人かの同僚が明るい声をかけてくる。
「広報部、ほんとセンスあると思う。瑞稀さんしかいないでしょ、あれは」
笑い声が飛び交い、誰一人として嫌味や皮肉は口にしない。
そこには、清々しいほどの賞賛しかなかった。
……ありがたいな、と思う。
本当に。
私の幸福度は、会話の間だけで +1.1。
ORCAの通知が、静かに脳裏に浮かぶ。
「社会的承認レベル:現在値96.7。継続的な維持を推奨します」
(了解、ORCA)
まるで心の中にもうひとりの自分がいるみたいに、自然に返答する。
もう、違和感はまったくない。
その日の昼休み、個人端末に新しい通知が届いていた。
【重要】新入社員研修・特別スピーチ依頼
登壇者:斎藤瑞稀様(第一ターミナル受付)
内容:幸福感と接客応対について
形式:15分間スピーチ+質疑応答
あ、と小さく声が漏れた。
私はしばらく画面を眺めてから、すぐに「承諾する」を選んだ。
断る理由なんて、ひとつもなかった。
ほどなくして、ORCAがスピーチ内容の草案を生成してくれる。
それはもう、私の話し方や言葉の癖をすべて学習した、完璧な原稿。
でも私は、それを少しだけ削ったり、言い換えたりする。
完全な機械の文章ではなく、「私が話す」言葉として。
それが、“自然さ”の演出であることを、私はもう知っている。
「スピーチ導入部分、語尾の抑揚を +0.2 トーンで調整すると、共感指数が5%以上向上します」
「ありがとう、ORCA。試してみる」
「どういたしまして、瑞稀さん」
画面に、優しいアイコンの微笑みが浮かぶ。
私とORCAは、もう長い付き合いだ。
まるで、心の中のもうひとりの私みたいに、すべてを知ってくれている。
その日の夕方、上司に声をかけられた。
「瑞稀さん。ちょっといいかな」
事務所に通され、穏やかな笑みを向けられる。
「今期の接客評価、あなたが全体でトップでした。……実は、次のトレーナー候補として推薦したいと思っているんだ」
一瞬だけ、心拍数が上がる。
「私……で、よろしいんでしょうか?」
「もちろんだよ。あなたの対応は、まさに“模範”だからね。後輩たちも、皆そう言ってる。任せられると思ってるよ」
――模範。
私は、模範解答として、生きている。
嬉しい。
嬉しいけれど……
どこかで、静かに脈打つ違和感を、感知できないふりをする。
ORCAが幸福度スコアを更新する。
現在値:98.6
私は、今日も正しく、美しく、最適に笑っている。
ポスターの中の私も、画面の中の私も、街中で見かける「幸福の顔」も。
みんな、まぎれもなく、私だ。
けれど――
その笑顔のどこまでが、自分の“意思”だったのか。
ふと、そんな問いが、胸の奥に沈んでいく。
でもすぐに、ORCAがささやく。
「瑞稀さん。今日の平均スコアは上昇傾向にあります。とても良い一日ですね」
「……うん。ありがとう、ORCA」
私は微笑む。
幸福を、かたちに。
その言葉は、どこまでも私にふさわしい。
たとえ、その“かたち”が、自分の奥から静かに離れていったとしても――
幸福度スコアが、満点に近づいている限り、私は、正しく、生きていられる。
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