第3章 変わっていくことが自然だった ③綺麗に整った私へ-3
3.3.3 街という“鏡”で試してみる
休日の朝。
いつものように、ベッドの中でぼんやりと天井を見上げながら、私はふと、カーテンの隙間から差し込む光を見た。
眩しさではなく、やさしさのほうが強いと思った。
季節はもう春の終わり。
ほんの数ヶ月前まで、外出という言葉には「億劫」がついて回っていたのに、今は違う。
「今日は気温が安定しています。紫外線レベルも低めですので、お出かけには適しています」
ORCAの声が、枕元のパネルから流れる。
その声に背中を押されるように、私は身を起こした。
「行ってみたい場所、いくつか提案しますね。近隣のショッピングモール、駅前のカフェ、あるいは海辺のブックマーケット。どれも比較的混雑が少なく、ゆっくり過ごせそうです」
提示されたサムネイルの中から、私は迷わず、モールを選んだ。
以前なら、人の多さや視線の圧に気後れしていたはずなのに。
今の私は違う。
どこか、確かめてみたい気持ちがあった。
鏡の中の“この姿”が、ほんとうに外の世界でも通用するのかどうか。
それとも――
もうとっくに、「そう見えている」のかを。
モールの入り口をくぐった瞬間、空調の柔らかい風が髪を揺らした。
長く伸びた髪が、肩の動きに合わせて自然に波打つ。
バッグの肩紐が、胸のふくらみにそっと寄り添っているのがわかる。
細身のデニムにインしたブラウスも、今の私の身体には無理なく馴染んでいた。
*
「お一人さまですか?」
カフェの店員がそう声をかけてきたとき、私は一瞬、構えそうになって――
でも、それがまったくの杞憂だったことに気づく。
「お姉さん、窓際のお席、空いてますよ。お好きなお飲み物、お伺いしますね」
……お姉さん。
その響きが、音ではなく、肌に触れるように染みてくる。
「アイスのハーブティーで、お願いします」
そう答えながら、胸の奥に浮かび上がった感情が、自分でもうまく掴めなかった。
嬉しい、というより――
納得。
驚きでも、違和感でもなくて、むしろそれが「当然」であるかのような静けさがあった。
*
雑貨屋では、棚の向こうから女の子二人組の笑い声が聞こえてきた。
「え~、このミラーめっちゃかわいくない? あたしこれ欲しい~」
「買いなよー、そういうの似合うってば、ミナっぽいし」
鏡の前にいた私と、その声とが重なる。
一瞬、私に向けられた言葉かと思って、振り返ってしまうくらいには、自然に身体が反応していた。
*
「お客様、それ新作なんですよ。今月の人気アイテムで」
店員が笑顔で話しかけてきたとき、そのまなざしには、躊躇や探るような色はまったくなかった。
私という存在が、「女性」であるという前提で、接されている。
声も、仕草も、服の選び方も、空間のなかで「正しい配置」として認識されている。
「ありがとうございます」
声が少しだけ高く出たのは、自分でもわかった。
けれど、それをわざとらしいとは感じなかった。
どこにも演技はなかった。
私は今、本当にこの“役”を演じてなどいない。
ただ、この街が私をそう受け取ってくれることに、深く、静かに、安堵している。
***
帰り道。
電車の窓に映った自分の姿を見て、ふと笑みが浮かんだ。
今日は何も特別なことはしていない。
ただ、街を歩いただけ。
買い物をしただけ。
声をかけられただけ。
でも――
それだけのことが、どうしてこんなにも、満たされるんだろう。
「本日の瞬間最高幸福値、97.1。通常より高い傾向が見られます」
ORCAのレポートが、帰宅後のログイン時に表示された。
私は少しの間、それを見つめて、ゆっくりと頷いた。
そうだ。
この数値は、たしかに“裏づけ”なのだ。
誰かに「女性として扱われた」からではなく、「自分が、そうであることを信じられた」から。
街という“鏡”は、私を欺かなかった。
映されたのは、つくられた偽物じゃない。
今ここにいる私そのものだった。
そして、そこに宿った安堵や確信が、私にとっての快楽になっていた。
それは、性的な意味ではなくて、もっと深くて――
自分自身が“正しいかたちで存在している”という感覚そのものが、
喜びとして脳の奥にしみわたっていた。
たぶん、私はもう戻れない。
けれど、それは「終わり」ではなく、むしろ「始まり」に思えた。
新しい自分が、この街と世界のなかで、すこしずつ輪郭を得ていく。
その過程にある今が、たまらなく、愛おしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます