第3章 変わっていくことが自然だった ③綺麗に整った私へ-3


3.3.3 街という“鏡”で試してみる


休日の朝。

いつものように、ベッドの中でぼんやりと天井を見上げながら、私はふと、カーテンの隙間から差し込む光を見た。


眩しさではなく、やさしさのほうが強いと思った。

季節はもう春の終わり。

ほんの数ヶ月前まで、外出という言葉には「億劫」がついて回っていたのに、今は違う。


「今日は気温が安定しています。紫外線レベルも低めですので、お出かけには適しています」


ORCAの声が、枕元のパネルから流れる。

その声に背中を押されるように、私は身を起こした。


「行ってみたい場所、いくつか提案しますね。近隣のショッピングモール、駅前のカフェ、あるいは海辺のブックマーケット。どれも比較的混雑が少なく、ゆっくり過ごせそうです」


提示されたサムネイルの中から、私は迷わず、モールを選んだ。

以前なら、人の多さや視線の圧に気後れしていたはずなのに。


今の私は違う。

どこか、確かめてみたい気持ちがあった。


鏡の中の“この姿”が、ほんとうに外の世界でも通用するのかどうか。


それとも――

もうとっくに、「そう見えている」のかを。


モールの入り口をくぐった瞬間、空調の柔らかい風が髪を揺らした。

長く伸びた髪が、肩の動きに合わせて自然に波打つ。


バッグの肩紐が、胸のふくらみにそっと寄り添っているのがわかる。

細身のデニムにインしたブラウスも、今の私の身体には無理なく馴染んでいた。



「お一人さまですか?」


カフェの店員がそう声をかけてきたとき、私は一瞬、構えそうになって――

でも、それがまったくの杞憂だったことに気づく。


「お姉さん、窓際のお席、空いてますよ。お好きなお飲み物、お伺いしますね」


……お姉さん。

その響きが、音ではなく、肌に触れるように染みてくる。


「アイスのハーブティーで、お願いします」


そう答えながら、胸の奥に浮かび上がった感情が、自分でもうまく掴めなかった。


嬉しい、というより――

納得。


驚きでも、違和感でもなくて、むしろそれが「当然」であるかのような静けさがあった。



雑貨屋では、棚の向こうから女の子二人組の笑い声が聞こえてきた。


「え~、このミラーめっちゃかわいくない? あたしこれ欲しい~」

「買いなよー、そういうの似合うってば、ミナっぽいし」


鏡の前にいた私と、その声とが重なる。

一瞬、私に向けられた言葉かと思って、振り返ってしまうくらいには、自然に身体が反応していた。



「お客様、それ新作なんですよ。今月の人気アイテムで」


店員が笑顔で話しかけてきたとき、そのまなざしには、躊躇や探るような色はまったくなかった。


私という存在が、「女性」であるという前提で、接されている。

声も、仕草も、服の選び方も、空間のなかで「正しい配置」として認識されている。


「ありがとうございます」


声が少しだけ高く出たのは、自分でもわかった。

けれど、それをわざとらしいとは感じなかった。


どこにも演技はなかった。

私は今、本当にこの“役”を演じてなどいない。

ただ、この街が私をそう受け取ってくれることに、深く、静かに、安堵している。


***


帰り道。

電車の窓に映った自分の姿を見て、ふと笑みが浮かんだ。


今日は何も特別なことはしていない。


ただ、街を歩いただけ。

買い物をしただけ。

声をかけられただけ。


でも――

それだけのことが、どうしてこんなにも、満たされるんだろう。


「本日の瞬間最高幸福値、97.1。通常より高い傾向が見られます」


ORCAのレポートが、帰宅後のログイン時に表示された。


私は少しの間、それを見つめて、ゆっくりと頷いた。


そうだ。

この数値は、たしかに“裏づけ”なのだ。


誰かに「女性として扱われた」からではなく、「自分が、そうであることを信じられた」から。


街という“鏡”は、私を欺かなかった。

映されたのは、つくられた偽物じゃない。

今ここにいる私そのものだった。


そして、そこに宿った安堵や確信が、私にとっての快楽になっていた。


それは、性的な意味ではなくて、もっと深くて――

自分自身が“正しいかたちで存在している”という感覚そのものが、

喜びとして脳の奥にしみわたっていた。


たぶん、私はもう戻れない。

けれど、それは「終わり」ではなく、むしろ「始まり」に思えた。


新しい自分が、この街と世界のなかで、すこしずつ輪郭を得ていく。

その過程にある今が、たまらなく、愛おしい。

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