第1章 孤独の値は41.3②


1.2 スコアが導く日常

1.2.1 数字に寄せて、生きるだけ


「+2.1ポイント、か……」


布団の中でスマホの通知を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。

確かに、昨夜はORCAの言う通り、いつもより30分ほど早く寝た。

特別な理由があったわけじゃない。


ただ、寝落ちするように沈み込むより、少しだけ“選んだ”感じがしただけ。


ほんのわずか。でも確かに、今朝のこのスコアは上がっている。

41.3から、43.4へ。

たった2ポイントだけど、心のどこかが、わずかに持ち上がった気がした。


「今日も、まあ……行くだけか」


身支度を済ませて玄関を出ると、ひんやりした朝の空気が顔に触れた。

通勤路には、同じように無表情な顔をした人々が、流れのように歩いていた。


耳元で、ORCAの優しい声が囁く。


「姿勢の改善により、対人印象が+0.6向上しました。継続が推奨されます」


思わず、背筋が伸びる。

無理に意識したつもりはない。

けど、少しだけ胸を張って歩くと、足取りまで軽くなった気がした。


交差点の角にあるコンビニで、昼食を買う。

棚の一番手前には、いつも買ってる高カロリーの焼き肉丼が鎮座していた。

濃いタレの匂いが、ラップ越しにすら伝わってくる。

食べ慣れた味。

腹持ちも悪くない。


でも、ふと視界に入った別のPOP。

「幸福スコア向上対象メニュー(推定+1.4)」と、小さく記されたバランスプレート。

彩りのいい野菜と、雑穀米。

低温調理の鶏胸肉。


「どっちでも、いいか」


手が自然と、後者を取っていた。

自分で選んだ……そう思った。


ORCAは何も言っていない。

ただ、そこに“幸福+1.4”と書かれていただけ。


選んだのは俺だ。

そう、思いたかった。


職場の工場に着くと、いつも通りのルーチン作業が始まる。

製品をラインに流し、異常を検知して、部品を揃える。

ただただ無言の繰り返し。


ふと、先輩の男が俺に声をかけた。


「……おはよう。……あ、ありがとう、その、なんか……」


唐突に言葉を切った先輩の表情が、少し驚いたように見えた。

なんだろうと思った、そのとき。


《ORCA:音声トーンが“やや明るめ”になっています。対人反応にポジティブな変化あり》


ああ、たぶん、それだ。


昨日までは気づかなかった。

声のトーンなんて、いちいち考えたこともなかった。


でも今朝は、いつもより早く起きて、少し背筋を伸ばして、昼飯に少しだけマシなものを選んで。


たったそれだけのことなのに。


「……別に、意識して変えてるわけじゃないけど」


作業の合間、反射的につぶやいた言葉が、心の奥で響いていた。


悪くない、かもしれない。


スコアが上がれば、数字がほめてくれる。

数字が上がると、人の反応も少しだけ変わる。

ORCAの声が、優しく、安心感をもたらしてくれる。


選ばされているのか、自分で選んでいるのか。

そんなの、どっちでもいいと思えた。


ただ、数字に寄せて、生きていけば──

少なくとも今よりは、少しだけマシに感じられるなら。


それだけで、十分じゃないかとさえ、思えた。










1.2.2 通知がないと、不安になる


朝、目が覚めた瞬間に、スマホを手に取るのが習慣になっていた。

いつもなら、画面にはすぐにORCAからの通知が表示されているはずだった。


けれど――

今日は、何もなかった。


「……あれ?」


スワイプしてロックを外し、ホーム画面を確認する。


再起動してみる。

通知センターを開いて、再読込をかけて――

何度やっても、「本日の幸福スコア」は届いてこない。


なんだこれ、通信が切れてるわけでもないのに。

不安というにはあまりにも小さな、でも確かにザラついたものが、喉の奥で転がった。


「おかしいな……」


自分でも、そう口に出したことに驚いた。

ただの通知。

昨日までなら、それが来なくたって気にしなかった。


それが“普通”だったのに。

今は、来ないことが、落ち着かない。


出勤の支度をしながらも、何度もスマホを見返してしまう。

顔を洗っているときも、歯を磨いているときも、ポケットの中の重みが気になって仕方なかった。


――スコアが、ないと、俺の今が“どのくらい”なのかわからない。


そんな感覚が、脳のどこかに張りついて離れなかった。


昼休み、いつものようにコンビニのバランスプレートを買って、無言で休憩スペースに腰を下ろす。

スコアのことを考えるのが嫌で、SNSでも眺めようとスマホを開いた。


「あ……」


昨日、自分が撮った写真。

あの、幸福+1.4って書かれてたランチパック。

気まぐれにアップしただけのそれに、意外なほど「いいね」がついていた。

コメントもいくつか来ている。


「昨日の投稿に対し、SNSでのポジティブ反応が38件。幸福スコアに+0.9加算されました」


そのタイミングで、ORCAの通知が届いた。


「……あ、来た」


ほっとしたのが、自分でも情けなかった。

けれど、ほんの少し胸の奥が緩んだのも、嘘じゃなかった。


「なお、昨日21時に受信したメッセージは未開封のままです。対人評価に−0.3反映されています」


「……え、あれも見てんのかよ」


小さくつぶやいた声は、自分でも驚くほど乾いていた。


たしかに昨晩、中学時代の同級生からのメッセージが届いていた。

ほとんど話すこともないのに、たまに意味もなく連絡を寄こしてくる。


……返さなかっただけで、−0.3?


そもそも、誰と関わってるかも、どんな頻度で返してるかも、全部、数値化されてるってことか。


怖い――

というより、先に来たのは納得だった。


そりゃそうだ、と。

だって俺が何を食べて、どんな時間に寝て、どんな言葉を使って、どの写真を上げて、それに何人が反応したか。

全部が、幸福スコアの“材料”なんだから。


そしてそれは、俺が“マシになる”ために、必要な情報なんだ。


***


夜。

工場での仕事を終えて、食事を済ませ、シャワーを浴びて、ようやくひと息ついた頃――ORCAが、再び声をかけてきた。


「本日の幸福スコアは、59.8です。前日比+16.4ポイント。良好な傾向です」


「……59.8……」


口の中でその数字を転がしてみる。


なぜだろう。

自分の評価でもない、テストでもない、ただの“幸福”の数値なのに。


――嬉しい、と思った。


感情というより、反応に近かった。

数字が上がると、心が安定する。

心が安定すると、なんとなく身体も軽い。


ふと、洗面台の鏡をのぞく。


そこに映るのは、いつもの――

いや、いつもよりちょっとだけ、マシな顔だった。

むくみが少ない気がした。

眉間のシワも、少し浅くなっているような。


「……あれ。俺、ちょっとだけ、いい感じかも?」


その言葉が、冗談でも慰めでもなく、自然と口をついて出たことに、自分で驚いた。

鏡の中の俺は、相変わらず不格好で、地味で、目立たない。


でも、少しだけ……

このまま“何か”が変わっていくような気がした。


ベッドに入って、スマホを枕元に置いた。

今までは、棚の上に置きっぱなしだったのに。

画面を下にして、通知が来たらすぐ気づけるように、手の届く位置に。


それが安心だった。


……ORCAの声が、聞こえたら、眠れる。

スコアがあれば、今日は“ちゃんと”生きたって、思える。


そう、思いながら、そっと目を閉じた。

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