9-4 月光に散る涙

 ことり、ことりと何かが置かれる音が響く。真っ暗闇の部屋の中には月明かりが細く差し込み、その中に佇む部屋の主の気配はほとんど感じられない。

まるで何かに追い立てられるようにチェスのコマを地図の上に置き、時折紙のページがめくられる。


 入り口のドアから中の様子を眺めたゾーイは、徹夜で重くなった瞼を擦ってそうっと部屋に入った。

月明かりの中にいるアイリスの周囲には、すでに真珠が散らばっている。毎晩のように見ていた光景ではあるが、今はただ儚く悲しい光景に見える。

 

 誰よりも戦場で役に立つであろう人魚姫は今、城の中に囚われて苦しみもがいていた。




「――違うわ、ここは伏兵を置いても意味がない……山を背にしても問題はなかったはず。でも、こんなめちゃくちゃな戦争の行方をどうやって予測すればいいの?」


 細い指先につままれたナイトの黒駒は震えて、彼女の不安を表している。

床に広げられた大きな地図は、軍内部で使われていたものだ。

 各国に散らばる駒は、リュイが届ける最新の情報を示している。早々と各国との共闘準備を整えて出立した黒の軍は、戦場を突き進み黒、赤の国の鎮圧を終わらせている。アギアの新人だった王弟らを各国に戻し、仲介として働かせているが鎮圧には時間がかかっていた。

 

 それはなぜか……。目的を持たない蜂起であるからだ。相手方に打ち倒すべき宿敵はおらず、鎮圧に現れた軍隊から逃げ回るばかりの戦争なのだ。

なんとも情けない話ではあるものの、相当数の兵士がばらければ、収束は難しい。

 戦争自体が目的ではなく、誰かの意思によって黒の国を守る軍を動かし、王城を丸裸にするのが目的だろう。

まさか、黒の国の王が全軍を出してしまうなんて誰も予測していなかった。この状況下で一番危険なのは、聖女であるアイリスになった。


 本人は既に他国入りした軍を戻すより自分で身を守ると伝え、リュイは戦況を伝書鳩のように度々運んできては、彼女の安全を確認する役目を担っていた。

 こんなふうに意味のない争いでも、人は複数天に召されている。

黒の国だけでなく、各国の苦労が偲ばれる状況だった。




「どうしてこう、追うのに疲れる場所ばかりに逃げるの?山を燃やせば降りてくるかしら」

「物騒だねぇ、アイリスらしくない」

 

「でも、もう一月も追いかけっこをしてるでしょう。アステル様もきっとお疲れに……あら、ゾーイ!いらしてたの?」

 

「本当にらしくないよ。今一番危険なのはここだよ、聖女様」

「やめてくださいまし。私は、」

 

「アイリスは聖女だよ、間違いなく。さて、戦況はどう?」

「……はい。まず黒の国の暴徒は盗賊が主体でした、その後赤の国の……」




 精彩を欠く言葉を聞きながら、ゾーイは彼女に寄り添う。アステルたちが城を出てからというもの、アイリスは食も細くなり、頬が痩け始めた。

いつもだったら現況だけを伝えてきたはずだが、それが出来ていない。

 

 〝アステルの死の可能性〟という未来を知っていて、アイリスは戦地に送り出すしかなかった。そしてリュイが持ち帰る意図の見えない不自然な戦況は、くだらない戦に翻弄される黒の国の軍隊の疲弊を教えた。

このまま時間を稼がれれば『最悪の結果を迎えるのでは?』と誰でも不安になるだろう。


 最悪の結果とは、アステルは戦場で死に、アイリスも白の国に捧げられる事だ。そのための作戦に完全に嵌ってしまっている。

 黒の国の国防が空になっても白の国が動かないのは、手を取り合った四公国が勝ってしまった場合の『言い訳』が欲しいから。



 直接動かなければ言い逃れのしようもあるのだろう。だからこそ時間を稼ぎ、『アイリスが犠牲になれば、全てが丸く収まる』と言う事を突きつけている。これは非人道的だが有効な手段だった。





「アイリス、そこまでにしよう。次にリュイが来たら一緒に報告を聞くから」

「……すみません、訳のわからない説明になってしまいました」

 

「謝ることはないよぉ。ワシも赤の泉をどうにかできる方法が見つからないままだからねぇ。困ったなぁ」


 

 ナイトの駒を置いたアイリスは、弱々しい声色を聞いてようやく振り返る。「やっと目を合わせてくれた」と呟いたゾーイは頬を撫でられて目を閉じた。

いつも暖かかった彼女の指は、とても、とても冷たくなっていた。


 

「目の下にクマがこんなにあるわ、寝ていないのね?」

「うん。アイリスもそうでしょ」

「はい……眠れないんです」

 

「ワシも同じだよ。でも、アイリスはここまで追い詰められる必要はない。リュイが最前線からワープしまくって報告して来るのは、君の心労を和らげるためだよぉ?」

 

「わかって、ますわ。でも、無理なんです。こうして何か考えていたら役に立てるのではと思って、つい……」

「そっかぁ……」



 

「黒の国の軍はとても優秀です。元帥様をはじめとして、惨憺たる有様を面倒がらずにきっちりお掃除されています」

「そうだね、一度納めた火を起こさないようにとても慎重に動いてるなぁ」


「こんなに長い時間がかかるなんて、思ってませんでしたわ。眠る時も夜襲を警戒し続けて、ずっと野営されているのに」

「一応パナシアがいるから、疲労も回復できるはずだけどねぇ。どうやってひ弱な神聖力を使ってるのかわからないけど、これでも快進撃だと思うよ」


「そうですわね……ですが、」

「何年も続く戦はこれまでもあった。史実の上でもそういった記録は残されてる。でも、こんな風に逃げ回る愚か者が相手で、意味のわからない戦争ははじめてだろうねぇ」




 こくり、と頷いたアイリスはゾーイを抱き寄せてため息を落とした。体の芯まで冷えた彼女こそ、疲れ切っている。自分自身に治癒を施せばいいだけのなのに、すっかり忘れてしまっているのだから。


「アイリス、ワシも疲れちゃったなぁ。申し訳ないけど回復をお願いしてもいい?」

「――あっ!そ、そうでしたわ。私が神聖力を使えばよかったのに!」

「ふふ、忘れてたんだねやっぱり」


「……ごめんなさい、私が一番動揺してますわね。しっかりしなきゃ!ゾーイ、気付かせてくださってありがとう」

「うん」




 アイリスが触れた部分から神聖力の光が発せられ、ゾーイの体に染み込む。優しいそのぬくもりは心の奥底まで届き、体の緊張もこんがらがった頭の中も整えていった。

 もう、人魚の歌を歌わなくてもアイリスはパナシアと同じく人を癒せるようになっている。毎日必死に捧げた祈り――アステル生還のためのそれは、確実に彼女の力となったのだ。

これが白の国の思惑通りだとしたら……嫌な予感を振りかぶり、彼は笑顔を作った。 


 

「ねぇ、アイリス。ワシは……原初の聖女の正体が分かったんだ」

「まぁ、そうなんですか?正体って何ですの?」

「…………」


 瞼が重くなり、夢現になった彼は乾燥した唇を開き、そして閉じる。瞬間的に脳の働きをシャットダウンし、そして覚醒した。これは、長年の研究で得た彼の特技だった。

 特別な時に使われるもので、神聖力を消費するから普段はあまり使わない。だが、今がその時なのだ。




「これはきっと、ある種族の秘密に触れるから応えてはいけないよ。原初の聖女は、おそらく不老不死の一族なんだと思う」

「…………」

 

「ワシは、ずっとずっと調べていたんだ。あるお伽話を見つけたのはつい最近だよ。

 人魚の姫が、陸の王子に恋するお話だ」


 

 ――人魚姫は、難破した船から一人の王子を救い出す。そして、彼に一目惚れをした。

 美しい鰭と海底の穏やかな生活を捨てて、魔女に人の足を作らせた。対価として美しい声を渡して、男の元へ向かう。


 だがしかし、彼女が彼に出会ったときにはもう妻がいた。子供がいて、不治の病だった。

人魚がその子に血肉を与えると、子供は病が治った。



 王子たちが幸せに暮らす様を、人魚はその一族の行く末を見守り続けた。

 そして……思い人が死を迎えるその時に決断を迫られる。一度足を手に入れた人魚は、人と結ばれなければ泡になってしまう。

人魚の姉妹たちは、人魚を愛さなかった王子を殺せば海に戻れると伝えたが……人魚は泡になることを選んだ――


 


「物語はそこで終わらない。泡になった人魚姫は、泡から風の精霊になる。人が死んだ後天に送る仕事を続けていれば、いつか魂を取り戻せるんだって。

 人魚はおそらく精霊に近いか、もしくは神に近いか……どちらかなんだろう。もしその体液や肉をあげたとしたら、寿命を分けることになるのかもしれない。きっと、長命なんだろう」

 

「…………」

 

「アイリスはそれを準えに来たんだって、ワシにはわかってしまったよ」


 


 沈黙したままのアイリスを見て、ゾーイは首を振る。アギアの掟で、沈黙は肯定の意なのだ。

人魚の最大の秘密を漏らせばそれ相応の罰があるはず。その昔、聖堂の秘密を知った日に思い知っていたから『応えるな』と言ったのだ。


 人魚の小さな物語は、ほとんどが焼失していた。内容も忌々しい呪いの物語として描かれている。

そして、その本には未知の防水加工技術が使われていた。


 おそらくは、青の国で……人魚が犯してはならない罪としてこれが教えられてきたのだろう。それを、末の王女である彼女が知らぬはずもない。

 ゾーイは俯いたアイリスの頬に手を差し伸べ、ゆっくりと撫でる。痩せこけて骨の感触を感じる肌は、いつものように潤ってはいなかった。



 

  

「アイリスは、人魚だ。人と関わらないでいれば良かったのにどうして陸に上がってしまったの?」

「アステル様がいたからです」

 

「そんなにアステルが好きなの?」 

「……はい」 


「でも、最初から彼を手に入れようとしてなかったね。パナシアと結ばれるように働きかけて、周りに群がる男たちをアステルよりも上手に退けていた」

「そうでしょうか」


「うん。誰も傷つけず、誰も失わず、ただアステルの幸せだけを願っていた。

 そんな君が、アステルの気持ちに気づかないわけがない」

「…………」


「アイリスが応えてしまえば、最終手段が使えないからでしょう。バカだね、そんな事アステルは望んでないよ」

「……っ、う……」


「アイリス……アイリス。優しいアイリス。君は、本当にまっすぐで、おバカさんだねぇ」




 両手で顔を覆ってしまった彼女を抱きしめて、ゾーイの震える声がアイリスの名を呼ぶ。最初から自分を捧げようとしていた純粋な愛は、彼の命を震わせていた。

 熱い涙が頬をつたい、こぼれ落ちる。その音を聞いた人魚姫は眉を下げて顔を上げた。それは、ゾーイが泣いていることに気づいたから。指先で拭われた雫は次々にこぼれ落ち、とめどなく流れる。


 どこまでも優しいその姿は、涙に滲んでよく見えない。


 けれど、月光を弾くその光は鮮明に刻まれる。ゾーイは、その色をきっと一生忘れないだろうと思った。

死ぬまで誰かを愛することなどないと思っていたのに、今目の前にいる誰よりも愛おしい人を見ていたくて、何度も瞬く。





「全部が終わったらワシがちゃんと教えてあげる。

 愛され方を知らない君は、本当に可愛い人だ。ワシが若かったら攫ってしまいたいくらいに」

「……ふ、ふふ。ゾーイとなら、楽しい人生が送れそうですわね」


「そうでしょ?でも、アステルが許してくれなさそうだからやめとく。ずっと一緒にいようね、アイリスが変な気を起こさないように見張らなきゃ」

「……はい」


「泡になりたいと願った人魚姫の物語は、ワシが壊してあげる。

 リュイが来るまで、眠っておくれ。今は休息が必要だよ、ゆっくりおやすみ。また、戦えるように」


 

 アイリスは疲労した体で力を使い、瞼が閉じるのを我慢しきれなくなった。

愛しい人の無事を祈り続け、待つことが苦手な……勇ましい彼女は――小さな小さな友人に抱えられ、瞼を閉じた。 

  


 




 

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