7-4 涙雨の中で

原初の龍ビギニングスの追葬儀式後、久方ぶりに黒の国公式夜会となる。今年は賓客が早々に到着しているから、警護はより厳重なものにしなければ。ぬかるなよ」


 一堂に介したアギア達はアステルの言葉に沈黙で応え、静かに退室していく。アステルは自分の装備を確認した後、憂鬱な気持ちを抱えて聖女の部屋へと向かった。

 途中、アイリスの居室前を通りがかり、つい先日撒かれたばかりの種から芽が出ていることに気付いた。


「もう、芽吹いたのか……」




 そっと新芽に触れると、朝露がこぼれ落ちる。朝日に輝く雫は彼の知る〝人魚の涙〟に似ていた。

周囲にポツポツと生えていた雑草は綺麗にむしられている。早朝に水やりをしていたのだろう、地面はまだ濡れていた。

細やかに手入れされて、慌てて芽を出したのだろうか。


 アステルには、これが何か伝えられていない。ゾーイの言っていた通り、アイリスが育てるのならきっと意味があるのだろうと納得しているし、伝えられない何かがあるのだろう。

 新人アギア達も一緒に世話をしているようだし、心配する必要はないと判断していた。

 

(そろそろ〝新人〟を外してやらねばならないか。すでにそうとは言えないほど国の中枢に関与しているのだから)

 

 そう、アステルの手で大切に育ててきたパナシアを、彼らに手渡す可能性があるならば『新人』では困るのだ。

 ある意味、外国から集まってくれた者たちばかりで良かったかもしれない。ならずものの王の元へ残すのは危うい。そうなれば、新しい聖女を立てなければならないか?……いや。


 

 

 ――聖女がいなければ立ち行かないこの世界は、きっと変わっていく。妹はその枷を外して自由に生きていけるかもしれない。

今までどんなに願っても見えなかった『輝かしい未来』が目の前にあるような気がして、アステルは1人頷いた。

 


(なにもかも、アイリスのおかげだ。妹を託した後、彼女に何か恩返しをしなければ……自分がこの世を去る前に)

 

 砂の上で誇らしげに立つ、新しい息吹に微笑みかけ……アステルは静かに立ち去った。


━━━━━━



「パナシア、そろそろ起きてくれ」

「…………む、ぅ」

 

「朝の散歩だけでもするように、ってゾーイに言われただろ?今日は聖女代理殿が出ずっぱりだから、お前は一日中外に出られないんだ。今しかチャンスはないぞ」



 大きなベッドの中で眠る聖女に話しかけ、アステルは返事を待つ。彼女はブランケットの山の中に居るはずだが、ぴくりとも動かない。

 もう、一週間以上この有様である。本物の聖女であるパナシアは仕事をしないまま自室に引きこもり、食事と排泄を繰り返すだけになった。


 庭先にある『聖女が育てる薬草園』は雑草だらけになり、もともと生えていたはずの薬草の姿は見えていない。『何もかもが整えられた畑』を見た後では、放棄地のような物悲しさに胸が疼き、目を逸らした。





「パナシア、起きろ」

「……まだ眠たい……」

「オレはこの後忙しくなる。夜中まで会えないけど、いいのか?」

 

「んん……」

「顔を洗って、水分補給しよう。そうしたら目が覚める」




 幾重にも重なったコットンのブランケットを避け、妹を見つけた。眠そうなパナシアの頬に触れて、頭を撫でる。

 寝ぼけ眼で抱きついてきた人を抱きとめながら、『彼女は間違いなく自分の大切な妹だ』と胸の奥が温かくなるのを感じた。


「兄さん」

「こら、ここはオレ達が住んでいたダウンタウンじゃないんだぞ。呼び方を変えただろう」


「ごめんなさい、おはようございます兄上」

「うん、おはようパナシア」


 起き上がった妹に微笑みかけ、彼は毎朝の日課を始める。髪を櫛で梳かし、黒い絹糸を優しく撫でた。侍女たちには朝の支度を任せず『ゆっくり休め』と言ってあるが、親切ではなくこの儀式をするために言ったことだ。




「兄上、お腹が空きましたわ」

「まだ朝食の時間じゃないし、夜中にクッキーを食べたって聞いたぞ。しかも、一缶まるごとだったって」

 

「私の侍女は、なんでも兄上に告げ口するのね」

「オレはアギアの長だ。その怖い人が尋問してるから、仕方なく言ってしまうんだよ。そもそもお前が不摂生しなければいいだけだろ」


「はいはい、仰る通りですわ」

「ふん。……よし、髪はこれでいい。今日の服は?」

「着替えなければなりませんか?」

 

「さっきも言ったが、原初の龍ビギニングスの追葬式と賓客を招いた夜会がある。城の者が早朝から忙しく動き回ってるんだ、パジャマで散歩する聖女目撃は免れないぞ」

「どうせ分かりませんわよ、こんな姿では」


「…………」


 


 アステルはすっかり変わってしまった妹の姿にため息をつき、かぶりを振る。どんな姿になっても、彼女は彼女だ。

 

「お前の代わりをしてくれている、アイリスに見られたらどうする」 

「きっと許してくださるわ。今でも私に優しいのは、あの人だけだもの」

 

「『あの人』って言い方はあまりいい感じがしないな。それに『優しい兄ちゃん』が抜けてるぞ」


「兄上は口うるさくなりました。前よりずっと」

「お前のためを思ってるからだ。……服は適当でいいか、持ってくる」

 

「はい」


  


 彼はクローゼットを開き、たくさんのドレスを目にする。

自分の膝よりも小さかった彼女は大きく育った。毎日着のみ着のままでいた、懐かしい日々は遠い昔となっている。


 いつまでも手を引く存在でありたかったが、『兄』という肩書きを外すべき時はきっと……もう直ぐやってくる。

 寂寥感を噛み締め、彼はクローゼットから数着を出してはしまうのを繰り返した。

 


「困ったな……んだ?」


 彼は悩みながらクローゼットの中を物色し、残り少ない兄としての時間を大切にしなければ……と様々な感情を心の奥底に閉じ込めた。


 ━━━━━━


 ――原初の龍ビギニングス慰霊祭の、最後の儀式がはじまる。


 青い、青い天空。城前広場に集まった人々が仰ぎ見る、隅々まで染めあげられた優しい天色の空。それは深海を宿したアイリスの瞳に映る。

 雲ひとつない快晴だ。空と海が一つになったその色に、儀式に参加した人々は感嘆の嘆息を落とした。


 

 白一色のシンプルなドレスと輝く髪は、空の色に雲を形取るように熱い風にたなびく。


 黒曜の庭の中心に作られた漆黒の塔。そこに立ったアイリスは、塔から伸びる一本の道を辿る。それは儀式を司る聖女が空の中に身を置き、天上に登った龍の魂に触れられる場所。

地上にいる人たちは塔の周りを囲んで彼女を見上げ、胸の前で手を組んで祈りを捧げる。

 

 この世を創りたもうた原初の龍ビギニングスを偲び、感謝を捧げ、自らを世界のために費やした尊さに思いを馳せながら。




 原初の龍ビギニングスは、人とは違う古い種族。それは人智を超えた神聖力を持つとされている。

 だが、人と人とが戦に明け暮れている間、龍はただそれを眺めていた。どちらに味方するでもなく、助けを求められても応えることはなかったのだ。


 彼が静観していたのは人族の争い自体がくだらない出来事であり、戦争の原因もまた理解できない理由だったから。

自分の欲のために他人を害し、同じ種族の中で殺し合う……ちっぽけな存在など意に介する必要など感じなかった。




 ある日、原初の龍ビギニングスは一人の少女の声を聞く。優しく悲しい歌声と共に、清らかな泉に滴る雫の音を。……それは、涙が溢れ落ちる音だった。


 あまりにも美しいその音に引き寄せられ、龍は人族の城に辿り着く。そして涙を流した少女と出会い、清廉な願いを聞き、人と人との争いに加わった。

 

 少女は『殺しあう世界を憎み、愛し合う世界をつくりたい』と言った。そのために……原初の龍ビギニングスは戦った。


 


 人と人との争いが終わったその日、龍は深い森の中で、たった独りで自らの魂を手放した。いつの間にか愛していた少女の願いのためだけに戦った彼は、いつかの再会を誓って瞳を閉じる。

 

 原初の龍ビギニングスを亡くした少女は遺骸となった彼に再会し、涙を十月十日流し続けた。その血涙は森の中に赤い泉をつくる。


 少女はこの世界で初めての聖女となった。彼女は世界に平和をもたらしたが、原初の龍ビギニングスを犠牲にした。

 それ故に赤い泉へと身を捧げ、願いを叶えてくれた原初の龍ビギニングスの元へ旅立った。




 ――天に手を伸ばし、アイリスが歌い始める。それは、初代の聖女が死の直前に歌った鎮魂歌だ。

 うら悲しげなその音は、アステルの神聖力によって民衆の元へと届けられた。


 原初の龍ビギニングスを愛し、原初の龍ビギニングスに愛された聖女は、世界の平和を叶えるためにその愛を犠牲にしなければならなかった。

 

 彼女が歌った『うた』は、愛する人を想う『恋心』と言っても過言ではない。




 アイリスが繰り返し歌う声に合わせ、空が翳り始める。青空に黒い雲が生まれ、雨粒が降り注ぐ。


原初の龍ビギニングスの涙雨だわ……」

「こんなの初めてだ……」

「黒の国の聖女様に、原初の龍ビギニングスが応えた……」



 思わずこぼされた言葉に、民衆の誰もが同意した。毎年行われる原初の龍ビギニングス慰霊祭で聖女が歌うことはなかった。黒の国に聖女がもたらされるのが百年ぶりなのだから。


 古来から伝わる記録にも、聖女の歌で雨が降るなど記されていない。

城下町から集まった人々は黒曜の庭で戸惑いを見せる。暦書をすべて読み尽くしたゾーイでさえ、その瞳を大きく見開いていた。

 


 雨はやさしく降り注ぎ、その雫を人々に纏わせる。柔らかく落ちるその粒は次第に激しさを増し、白く幕を閉じるようにしてアイリスを隠していく。


 雨に打たれながら呆然と佇んでいた聴衆は、彼女の囁きを聞いた。



 

「まぁ……こんな姿をなさっていたのですね、あなたは。他のお国でもこのようにお見えになるのですか?」


「あら、ご機嫌だからいらしたの?とても幸運で珍しいのですね!

 いえ、私は水に慣れていますから問題ありませんわ。ご心配なさらないで、お優しい方」


「あなたの伝説については……正直よくわかりませんわ。暦書に記された言葉自体が少ないですし、聖女様との馴れ初めがイマイチよくわからないんですもの」

 




 人々に伝わるのは、誰かと話すアイリスの声だ。アステルが慌てて神聖力の使用を中断しようとしたが、出来ない。

何かに操られるようにして、自らの力がとめどなく吸い取られていく。

 


「まぁ!それは一目惚れというやつです!!わかりますよ、私もそうですから」


「初代聖女様のお気持ちはわかりませんが、あなたのお気持ちはわかります」


「愛する人のために、その人がゆく未来に光あれと自身を捧げる。それだけが、自分にできる事だから」


「独りで亡くなられた時の気持ちは……哀しく、寂しく、愛おしい人を恋しく思われた事でしょう」


「どうか、泣かないで。安らかにお眠りください。

 愛し合う人が引き裂かれない未来を、私がつくってみせますわ。涙の泉は二度と創られません。

 ……ええ、お約束いたします――」




 アイリスの声が切れた瞬間、雨がぴたりと止む。

 

 空の雲が一斉に割れて陽光を広げ、天使の梯子を描く。そこに登っていくほの白い一つの影は、確かに龍の形をしていた。 

  

 


 


 


 

 



 

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