10. 「しあわせの音」
目覚ましのベルよりも早く、彼の寝息が耳に届く。
私はそっと目を開けて、隣に眠る彼の横顔を見る。
寝癖がふわっと跳ねている。
眉間にはほんのり皺が寄っていて、いつも通りの、無防備で愛しい寝顔だった。
陽が差し込む前の、静かな時間。
この瞬間が、私は一番好きだ。
結婚して半年。
恋人だった頃とは違う、穏やかで、でも確かな幸福が、ここにはある。
***
彼とは会社の同僚だった。
最初に話しかけてきたのは彼の方だった。
「そのマグカップ、好きなんですか?」
「えっ?」
「いつもそれ使ってるから。僕も、同じシリーズ持ってて」
そんな取るに足らない会話がきっかけで、少しずつ言葉を交わすようになった。
ランチを一緒に取るようになり、休日に美術館へ行き、雨の日には一つの傘を差して帰った。
恋が始まった瞬間は思い出せない。
けれど、気づけば彼が隣にいることが自然になっていた。
プロポーズは、ふたりで作ったカレーを食べていた夜だった。
「来年も、再来年も、十年後も、このカレーを一緒に食べたいと思ったんだ。……結婚しよう」
カレーのにおいと、彼の声と、笑いながら泣いた自分。
幸せって、こういうことなんだと思った。
***
「おはよう、もう起きてたの?」
彼の声で、私は現実に戻る。
「うん。あなたの寝顔見てた。相変わらず眉間にしわ寄せて寝てるなぁって」
「マジか……恥ずかしい」
そう言いながらも、彼は照れたように笑う。
その笑顔を見るたびに、私は自分の選択が間違っていなかったと思える。
朝ごはんは、トーストと卵、昨日の夜に煮ておいたスープ。
彼がコーヒーを淹れてくれるのが、毎朝のルーティン。
「今日のパン、ちょっと焼きすぎたかも」
「ほんと? カリカリ好きだからちょうどいいよ」
そんな何気ない会話の一つ一つが、心をあたたかくしていく。
玄関で靴を履きながら、彼が言う。
「今日は帰り、少し遅くなるかも。打ち合わせ長引きそうで」
「了解。晩ごはん、温め直せばすぐ食べられるやつにするね」
「ありがとう。……行ってきます」
「いってらっしゃい」
ドアが閉まる音と、ほのかに残る彼の香り。
私はその余韻に包まれながら、静かに笑う。
こんな朝が、これから何百回も訪れたらいい。
***
土曜日の午後、ふたりで買い物帰りの道を歩いていた。
晴れた空。
スーパーの袋を提げた彼が、途中で急に立ち止まる。
「ねえ」
「なに?」
「今、すっごく幸せだなって思った」
私は笑った。
「唐突だね」
「だって、ただ一緒に歩いてるだけで、こんなに心が満たされるって、不思議じゃない?」
私は袋を持ち直しながら、言った。
「ううん、不思議じゃないよ。あなたといる時間って、全部、好きだもん」
彼は私の頭を軽くなでて、優しく笑った。
「来週の結婚記念日、ちょっと早いけど、ケーキ予約してあるから。帰ったら冷蔵庫に隠してあるやつ見ないでね」
「もう言っちゃってる時点で隠してる意味ないよ」
ふたりで笑いながら歩く帰り道。
何も劇的なことは起きないけれど、それがたまらなく幸せだった。
***
夜、ベッドに並んで、眠りにつく前。
「……ねえ、あなたは将来のこと、考えたりする?」
「うん、もちろん。何年後かに家を買って、いつか子どもができたら……とか」
「ふふ。私は、あなたと一緒に白髪になって、手をつないで散歩する老夫婦になってるの、想像してる」
「いいな、それ。俺もそうなりたい」
「途中で飽きたら、許さないからね」
「大丈夫、飽きるどころか、もっと好きになる自信あるよ」
私は笑って、彼の胸に顔を埋めた。
鼓動が、優しい音を立てている。
「しあわせの音」って、きっとこれだ。
ずっと、この音を聞いていたい。
この場所で、この人と、一緒に時を重ねていきたい。
***
愛は、劇的である必要はない。
何気ない朝。
並んで歩く帰り道。
夜にかわす他愛もない会話。
そのすべてが、幸せを積み重ねていく。
今日も、ありがとう。
明日も、よろしくね。
——しあわせは、いま、ここにある。
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