第2話 境界線の向こう側

 あの日以来、式守伊織は再び日常という名の殻に閉じこもっていた。

 ニュースで見た「穢れ」の痕跡は、気のせいだったと思い込もうとした。古文書の読みすぎで、ただの染みがそう見えただけだ、と。平凡な学生である自分に、神話の残滓など関わりがあるはずがない。


 その日も、伊織はアルバイトを終え、いつものように雑踏を抜けてアパートへの道を歩んでいた。思考を停止させ、イヤホンで耳を塞ぎ、世界から自らを切り離す。だが、無意識だったのか、それとも何かに引かれたのか――気づけば彼は、普段は決して通らない、裏寂れた路地へと足を踏み入れていた。


「…………」


 古びたブロック塀が続く、薄暗い道。その先に、朱色の鳥居が見えた。手入れもされず、打ち捨てられた小さな稲荷神社。ここだけが、昭和の風景から切り取られたように、時が止まっていた。

 伊織が鳥居の前を通り過ぎようとした、その瞬間だった。


 ぐにゃり、と。

 目の前の空間が、陽炎のように歪んだ。鳥居の朱色が、水に落とした絵の具のように滲んでいく。


「なっ……!?」


 伊織は息を呑んだ。これは見間違いなどではない。一族の書物で読んだ、禁忌の現象。

 異界への扉、「黄泉平坂(よもつひらさか)」の顕現――。


 恐怖で、足がアスファルトに縫い付けられたように動かない。

 歪みの中心が漆黒に染まり、そこから何かが這い出てくる。それは、巨大な蝙蝠のようでもあり、怪鳥のようでもあった。不気味な皮膜の翼と、爛々と光る複数の赤い目を持つ、異形の禍津神。


「ああ……」


 終わった、と伊織は思った。逃げ続けてきた宿命が、ついに自分を捕らえに来たのだと。


 だが、その絶望を切り裂くように、二条の光が天から舞い降りた。


 一人は、太陽を宿したかのような黄金の光。もう一人は、月光を纏ったかのような静謐な蒼い光。光が収まると、そこには神楽衣装を身に纏った二人の少女が立っていた。

 先日、スマートフォンの画面越しに見た、天宮ひかり。そして、彼女の隣には、黒髪を風になびかせ、瑠璃色の瞳で禍津神を睨み据える、剣崎凛。


「大丈夫ですか!? ここは危険です! 早く、ここから離れてください!」


 ひかりが、緊迫した状況にもかかわらず、伊織を気遣って叫ぶ。

 その隣で、凛はすでに腰の長巻――草薙剣の写し――に手をかけていた。


「……天宮、しゃべるな。集中しろ」

「ご、ごめん、凛ちゃん!」


 問答の間もなく、戦闘の火蓋が切られた。

 先に動いたのは凛だった。彼女の姿が掻き消えたかと思うと、次の瞬間には禍津神の背後に回り込んでいる。その剣舞は、一切の無駄がなく、洗練された刃そのものだった。

 蒼い霊力を帯びた剣閃が、夜闇を切り裂く。シャープな斬撃が禍津神の翼を襲うが、敵は俊敏に空を舞い、それを紙一重でかわした。凛は即座に体勢を反転させ、地を蹴る。追撃、連撃、回避。彼女の動きの一つ一つが、鋭利な一文となって、戦いの詩を紡いでいく。


 対して、ひかりのそれは「舞」であり「歌」だった。


 ――天(あめ)なる社(やしろ)に 日輪(ひかり)は満ちて

 ――常世(とこよ)の闇をば 悉(ことごと)く照らしたまへ


 その唇から紡がれるのは、古式の祝詞。しかし、それは単なる歌ではない。一音一音が霊力を帯び、黄金の粒子となって世界に満ちていく。彼女が掲げる八咫鏡がその歌声に共鳴し、神聖な光を放つ。それは穢れを祓い、味方を守護する、荘厳で美しい結界そのものだった。


 しかし、今回の禍津神は、これまでの敵とは明らかに違っていた。

 古文書にもほとんど記述のない、未知のタイプ。空を自在に飛び回る敵に対し、凛の剣は届かず、ひかりの結界も広範囲をカバーしきれない。


「ちぃっ……!」


 焦りからか、凛が深追いを見せた一瞬。禍津神が空中で反転し、鋭い爪を彼女に向けて放った。

 凛は剣で受け止めようとするが、間に合わない。


「くっ……!」


 鈍い音と共に、凛の体勢が崩れる。左腕から、鮮血が飛んだ。


「凛ちゃん!」


 ひかりの悲鳴が響く。彼女は凛を守ろうと歌の力を強めるが、禍津神が放つ不協和音のような鳴き声が、祝詞の神聖さを掻き消していく。ひかりの顔にも、みるみる消耗の色が浮かび始めた。

 まずい。このままでは、二人ともやられる。


 物陰で、伊織はただ震えていた。怖い。死にたくない。関わりたくない。

 なのに――なぜだ。目の前で傷つき、それでも戦おうとする少女たちの姿から、目が離せない。

 脳裏に、数日前に読んだばかりの、地方の小さな神社にのみ伝わる、忘れ去られた逸話の一文が雷のように閃いた。


 あれは、音を喰らう妖(あやかし)。

 光を放てば、影が濃くなるように、音を立てれば、その力を増す。

 弱点は、光でもなければ、力でもない。その存在を否定する、絶対的な――。


「違う……!」


 伊織は、我を忘れて叫んでいた。


「そいつは音を喰らう! 光じゃない……! 沈黙が、静寂こそが奴を縛るんだ!」


 忌み嫌っていたはずの、一族の知識。

 逃げ続けてきたはずの、過去の言葉。

 それが今、自らの口からほとばしったことに、伊織は叫んだ後で愕然とした。


 その声に、絶望的な戦いを続けていた二人が、はっと顔を上げる。

 傷ついた凛が、驚愕に目を見開く。

 そして、ひかりの琥珀色の瞳が、信じられないものを見るように、まっすぐに伊織を捉えた。その瞳に、微かな希望の光が灯るのを、伊織は確かに見た。

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