旅館『宵待』

青木十

聞き取り調査報告書

旅館宵待主人 神々廻宵月

 某月某日


 淡深郡葦船町にある旅館『宵待よいまち』の主人、神々廻ししば宵月しょうげつに行った聞き取り調査に関する報告書


 対象者より許可を得ている音声データを添付

 音声データの内容は以下――





(横開き扉の開閉音)


 どうぞどうぞ、こちらへ。狭くてすみません。普段は工務店のおやっさんくらいしか来ないもんで、この狭さで事足りるんですよねえ。ちょっと散らかってますがお気になさらず。

 あ、その座布団使ってくださいね。……あちち、はいどうぞ。熱いんで気をつけて。


(湯呑みを座卓の上に置く音)


 こら、お客様の膝に座らない。


(にゃーと鳴く猫の声)


 ああ、すみませんね、どこへでもお猫さんが出入りできるようになってるんですよ。自由すぎるもんで、ほんと。猫、大丈夫です? ならよかった。飽きるまで膝に置いてやってください。その子も喜びますよ。


 よいしょっと……それで、本日はどのようなご用件で?


 ああなるほど、最近の町の様子が聞きたい……と。

 いやあ、お役所の人も大変ですね。

 あれでしょう、ほら、彌視磨ミシマ神社で人が行方不明になったやつ。近所のじいさんたちは、神隠しじゃあとか言ってるけど、うーん、実際そこんとこどうなんですかね? お役所はどんな風に判断してるんですか?

 え、お役所じゃない? はあ、へえ、……あ、こりゃどうも。名刺頂戴します。……M……機関? はは、なんか洒落てますね。

 でもまあ、から来たんでしょう? それならもうお役所みたいなもんですよ。うちもね、兄貴が東京の方でなんだかややこしい役人をしてるんですが、よくあるんですよ、きっちり分類したって意味がないってやつ。往々にしてあることじゃないですか? 往々にして。まあ、そういうもんですよ。


 それで行方不明の件を追ってるってわけですか? 違う? どんなことでもいいから聞いて回っていると……。

 はあ、そりゃまたたいへんですね。ここら辺は土地ばかり広かったんですがね、分譲住宅や低めとはいえマンションやアパートも建ったでしょう? 随分人も増えたらしいですし、聞き取りも大変でしょう。あー、だから会話を録音したいって話だったんですね。

 それに、うちみたいな山奥の旅館にまで足を運んで、ほんとご苦労さまです。急な山道ってわけじゃないですけど、結構登らないといけないから大変だってよく言われます。事前連絡があれば車をお出しするんですけどね。宿泊のお客様なら荷物もあるわけですし。


 それにしても、変わったこと……かぁ……。

 ああ、はい、もちろん。私でわかることなら、協力できる範囲でしたら協力させていただきますよ。ここは田舎ですからね、お互い様ってやつですよねぇ。うちだって、他人の手だろうがお猫の手だろうが借りれるもんは借りたいですから。持ちつ持たれつやっていきましょうよ。



 ええと、そうしたら……え、まずはあなたのことを教えてください、ですか? 私のことを、聞きたいと。

 名前、家族構成、職業、……なんか面接みたいですね。はは、問題ないですよ。これでも一応は経営者ですからね、旅館のサイトにも名前は載せてますし。


(旅館主人の咳払い)


 ――ししばしょうげつ、三十二歳。男、独身のひと……り暮らしかな、

 え、漢字ですか? あー、まあ、分かりづらいですからね。

 ええと、「神々がめぐる」と書いて「ししば」と読みます。廻るは、口二つで回るの方の廻るですね。

 名の方は「宵の月」と書いて「しょうげつ」です。はは、風情があるでしょう。じいさんがつけてくれたらしいですよ。

 神々廻宵月――そうそう、漢字で書くとそれです。漢字を見ると仰々しいですよね。いやぁ、どうにも名ばかりが勝ち過ぎる。


 次は……家族構成でしたっけ。

 今は、一応一人暮らしですね。たぶん。お猫さんは、居てくれてるって印象なので。


(にゃーんと鳴く猫の声)


 ふふ、お猫さんたちのお陰で、さみしくないよ。うんうん。


(小さいゴロゴロと喉の鳴る音)


 ああいや、両親は呆れるくらい元気ですよ。ここは立地が不便ですから、もうちょっと都心に住んでます。共に会社勤めですね。

 祖父母もその近くに越しました。元々はここの経営をしてたんですが、さすがに寄る年波には勝てなくて。ええ、ここは父方の実家なんですよ。母方は祖母が健在で、大叔母と一緒に遠方で住んでいます。

 ええそうなんです。


 そういうあなたは?


 いやぁ、あなたはどうなのかなって。

 ご家族はご健勝で? ああそれは何より。関係は良好ですか。いいことです。

 家族の縁は、良かろうが悪かろうが切ろうと思って切れるものでもないですからね。ならば良好なのが何よりも良いということです。


 はは、たしかに。仕事がお忙しいと帰郷というのも難しいでしょう。いやいや心配はしなくてもいいでしょうとも。来たるべき時がくれば親元に向かうこともあるでしょうし、ご両親とてあなたが気に病みすぎることを望んではいらっしゃらないでしょう。

 なぁに、家族間の感情が絆となって縛るというのは、なんとも本末転倒だと思いませんか。とくに両親だと、相手の意思が他のものよりも強いことは、ままありますからね。

 少々会えなくても疎かにしなければ、あなたの縁はちゃんと残りますよ。できる時にやる、そうでないとやっていけないことも多い。何かしなければならない――なんてのは、あなたの負担になるばかりですよ。


 ああ、すみませんね、話が逸れました。


 私の家族の話でしたね。

 兄弟は、兄が一人、弟が一人。どちらも離れて一人暮らしです。連絡は取ってますけど、もう何年も顔は合わせてないですねぇ。兄は先ほど言った通り、都心で公務員をしています。弟は……今何してるんだろう、どこかでうまくやっていると思いますよ。不定期ですが連絡は入るので。前回はたしか、どこかの漁港で船に乗ってましたね。

 ふたりとも、大人ですからね。心配しなくても元気にしてると思いますね。


 ご兄弟は?

 お姉さんがお一人? 女兄弟いいですね。そうでもない? はは、たしかに姉妹のほうが兄弟よりも容赦がないって、結構聞きますもんね。

 でも、仲は良好なのでしょう?

 あなたの顔を見れば分かりますよ。よいことです。


 次は職業でしたっけ?


 職業は、ここ――旅館『宵待』の経営者兼支配人です。もうかれこれ四年とかですかね。

 祖父母から引き継ぎました。元々は伯父が継ぐ予定だったのですが、なんか俺が子供の頃いろいろあったみたいで……。

 いや、悪い話とかじゃなくて、詳しくは知らないってだけですよ。伯父本人は地方で家族と暮らしています。

 私にとっての旅館は、祖父母のものって認識だったんですよね。なので、伯父が継ぐ継がないって話は他人事だったというか、そうだったのかって感じでした。でもまあ、きっと悲喜交交あったんでしょうよ。伯父がここに訪れたのを年取ってからは見てないですからね。

 そんでもって、父はもともと継ぐつもりがなかったので、四年前に周りを説得して私が継ぎました。

 え、説得が必要だった理由? いや大したことじゃないですよ。父が「お前なんかに経営ができるか!」って反対して大変だっただけです。

 親父は旅館に興味ないって思ってたんですけどね。やはり大事だったってことなんでしょう。……でも自分は継ぐ気がないんだから、いらん世話だと思いましたけど。


 普段は接客から清掃までやらせてもらってます。なにぶんスタッフは、私と料理人が一人だけなんで。

 そうですねぇ。忙しいっちゃ忙しいですけど、月並みに言えば、やりがいはあるので楽しくやらせてもらっていますよ。

 お客様が帰られたら、布団干して掃除してと、やることは決まってますからね。客室もそんなにあるわけじゃないですから、忙殺されるってこともないですし。そもそも、お客様が少ないってところが一番の問題ですしね。……ちょっとここ笑うところですからね?

 予約で全部埋まるってことはないですけど、本館はそれなりに大きな日本家屋ですし、小ぶりとは言え、離れが数棟ありますからね。風情があると好評なんですよ? 静かでのんびりできると。宿を維持できる程度には、やれてるんですって。飛び込みのお客様も結構いらっしゃいますからね。


(茶を注ぐ音)


 見どころ? この町に? そんなもんあるんですかね……???


 いやいや、そもそもこんな何もないところに来るお客様は、静かに過ごすために来てらっしゃるんです。

 現代社会を生きるお客様に必要なのは、静謐なんですよ。


 その点、うちは、辺鄙で人もいませんから。旅館のスタッフですら最低限。実質私としか会わないようなものですし。

 この、都心から少し離れた穏やかな土地ならではの雰囲気を、十二分に堪能できるというわけです。


 ここは山も海もありますからね。海を眺めたり、釣りをしたり、ひとり山に登ったり。ソロキャンプもできますよ。キャンプ道具はうちで貸し出してますし、宿泊客ならただで一式。これが結構好評なんです。山中で、ランタンの灯りを受けながら星を見上げるっていうのがいいんだと聞いたことがあります。前日に言ってもらえれば、食事にバーベキューってのも可能ですね。

 それに、町自体もそれなりに栄えているから、町に下りる方も多いです。店も多いし、食事処も困らない。田舎や郊外なんて言葉で一括りにできるわけでもありませんし、利点はそれなりにあるんですよ。


 何かがなくて困るということもないでしょう。

 何かがあるわけではないけれど、何もないというわけでもない。

 ただただ平穏に過ごすと考えれば、最適な場所だと思いますよ。


 うちの旅館は、コンパクトな離れで静寂とともに自分を見つめ直す、そういうのが売りなんです。ふふ、それっぽいでしょう?

 のんびりできるし、寝るだけに来てもいい。懐いてくれれば、お猫さんが添い寝してくれますよ。ぼーっとスマホやテレビを見て過ごしてもいいし、お猫さんたちを眺めててもいいし、旅館を出て山道を散歩してもいい、町をうろうろしてもいい。何をしたっていい。目的なんて必要ない。

 何かをしなくちゃなんてないんです。なんなら何もしなくてもいい。ただ無為に時を過ごすだけ。お猫さんのように自由に過ごしていいんです。

 人間にはね、しがらみってやつを捨てる時間が必要なんですよ。


 何も考えない。

 何もしない。

 自分以外は何もない。


 そういう時間を、うちはご提供いたしますよ。

 それに、食事も結構好評ですから。ゴロゴロと怠惰に過ごし、ご飯も勝手に出てくる、片付けだって掃除だって洗濯だって必要ありません。

 食べて寝る、何もしない。


 最高だと思いませんか?


 今どちらにお泊まりかは存じませんが、この件が片付いてお帰りになる前に、一度くらいは宿泊にいらしてください。

 仕事を忘れて、でも何かをするわけでもない。ただ時を過ごすだけというのも、なかなか乙なもんですよ?


 美味しい料理とふかふかの布団をご用意してお待ちしております。


 え? 料理人、ですか?

 住み込みでいてもらってます。山ん中ですし、さっきお話した通り、たまに飛び込みのお客様もいらっしゃるので。

 そうなんです、だから、一人暮らしに一応やらたぶんやらがつくわけです。かと言って二人暮らしかというとそうでもないんで。


 彼が来る前は、麓の料理屋の中堅さんに来てもらってたんですよ。二年ほどでしたかね。そうそう、そうなんですよ。お客さんの予約が入った時にだけ、事前相談で都合のつく人に来てもらって。

 こんな寂れた旅館ですけど、その日の料理に関しては、ある意味自分の独壇場になりますからね。結構評判良かったんですよ。まるっとお任せにしてたもんで、好きにできるからやる気も出るって。料理屋の板長も、じいさんの付き合いがある人だったんで融通も利かせてくれたし、料理人の皆さんにとってもよい修行になるって協力的でしたよ。


 あー、じいさんの頃ですか? その頃は、食事も夫婦二人で用意してたみたいですけど。私ですか? いやぁ……お代をいただくようなものは作れませんて。調理師免許もないですし。

 あなただってそうでしょう? 平凡に過ごしていて、急にお客様に食事を出せなんて、できるもんじゃないですよ。あ、もしかしてすごい腕前だったりしますか? いや自分のものを作られるだけ偉いですよ。私なんか、作るもの片付けるもの苦手で。


 それでもですよ、うちとしては、お客様には美味しい食事を提供したいと考えているんです。

 こんな辺鄙なところにですけど、せっかく旅行に来てるんです、お客様にはうまいもん食べて英気を養ってもらいたい。食事がうまいと元気が出ますし、いろんなものがどうでも良くなったりしちゃいませんか? ええ、ええ、そうでしょう? はは、わかります、そういうもんですよね。


 あ、そうだ。お世話になってる料理屋、お教えしますね。和食処なんですけど、とにかくうまい。うちのお客様にも好評でした。ぜひ足を運んでみてくださいよ。うちの紹介だって言ってもらえば、一品つけてくれると思いますよ。


 あ、少々お待ちを。


(横開き扉が開かれる音)


 たんぼくー、おーい、たんぼーく。

 お、すまんね、お茶のおかわり頼んでもいい? うん、よろしく。


(横開き扉が閉められる音)


 すみません、すぐに持ってきてくれると思うので。


 しかし、そちらも大変ですね。

 いやね、私も職業柄、初めて会う方が殆どですから。まあ常連の方もいらっしゃることにはいらっしゃるのですが、まさに一期一会というところですかね。

 初対面の人間と二人っきりで話すのは、仕事とは言え気苦労が絶えないでしょう? 特にあなたは用件が用件ですから。


 なるほど、そういうものなんですね。

 忙しいがいいなんて、あなたも変わってらっしゃいますね。まあたしかに。することがあるってのは、安心しますから。ああ、それは分かるような気がします。手をこまぬいていないってのは大事な認識ですよね。

 それならよかった。私が何か有用なことを申せるとは思っていませんけどね、それでも何かの足しになればと思うばかりですよ。


(扉がノックされる音と開かれる音)


 お、ありがとう。茶請けもあるし。助かる。

 もしかして今忙しかったか? そうでもない? あー、それならさ、今夜は飛び込み客がいそうな気がするから、何か仕込みはしておいたほうがいいかも。さっき昼寝してて、夢で桜の花と蓮の花が一緒に咲いてたかな。

 そういうわけで、悪いけど頼むよ。買い出しの金が足りなそうなら、俺の部屋から財布持っていって。

 んじゃまた後で。


(扉が閉められる音)


 どうぞ、お茶請けは水羊羹ですって。餡が沈んで二層になっててきれいですね。

 え? ああ、そうです、今のが住み込みの料理人で。はは、無口なやつでして、基本的に私が話してばかりですね。んー真面目というか、マイペースなやつなんです。趣味は修行なんじゃってレベルで、黙々と何かやってますよ。この水羊羹も昨日作ってくれてました。

 あ、うまい。お茶も少し渋めに入れてくれてますね。ちょうどいい塩梅だ。


 お口にあいましたか? ならよかった。

 そうしたら、続きですかね。そろそろ本題に入らないと。


 変わったこと……変わったことですか。

 そうですねぇ。

 人が行方不明になるなんて、こんな平和な町では変わったことなのでは? という気がしますね。


 しかも、島の洋館の管理人さんも行方不明なんでしょう? 余所から来た人なら、行先告げずに旅立ったとか帰路についたとか分かりますけど、あの人、あそこに住み込みでしたよねぇ。

 言われてみれば、あの人もちょっと変わった人でしたもんね。ええ、そうなんですよ。わざわざ都会からここの管理人になるために来たんでしょう? 館に何か歴史があって、きちんと管理してるみたいですけどね。不思議な話だ。

 館について、ですか? うーん、庭がきれいだってのは聞いたことがあります。たしか管理人と家政婦さんと、あとは使用人とか庭師とかが住み込みで滞在してるんでしたっけ? 前はそう聞いたけど今はどうなんでしょうね。オーナーは滅多に訪れないみたいだし。

 はは、なんかこう、推理小説みたいですね。絶海の孤島と言うには、近い島ですけど。橋もありますし。曰く付きの館を有する孤島、突如姿を消した館の管理人。もしかすると、実は私たちが思いつかないような難解な事件が起きていたりして? あなたは、さながら事件を追ってる刑事みたいだ。かっこいいですね。


 あ、神社で行方不明になった人はどういう人なんです?

 へえ、ネット配信者。気まぐれに来て立ち去ったなんてことは? 監視カメラで奥に向かう姿が残されていた? しかも配信が途中で終わってる? それでネットで話題になって行方不明が発覚したんですか。なんだかイマドキって感じですね。

 こう言っちゃなんですが、興味深いシチュエーションですね。はは、不謹慎かな。


 うーん……行方不明の来訪者、かぁ。


 いやぁ、うちもねぇ――


 ふらっとお客様が来たりするんですよ。

 予約のないお客様が。いやね、さっきも言った気がしますけど。

 そういう人はね、大体がここに旅館があるなんて思わないで来るんです。いきなり山の方から朝霧を割って出て来たり、真っ昼間の庭先に倒れていたり、夕立とともに駆け込んで来たりと、本当に様々です。月のない夜に気がついたら玄関の前にいる、とかもね。

 もちろん、分かってて来る方もいらっしゃるんですよ。ただ予約はない。けれど来ようと思ってふらっと来たのだと、ここに来れたのだと、我々の尺度からしたら変わったことを仰るのです。

 どちらにせよ、どうやって此処へいらっしゃるのかは分かりませんが、どこからともなくいらっしゃるんです。うちに来るまで、葦船の誰も見ていないにも拘らず。


 そう。

 誰も知らない、誰も気が付かないのに。


 突然現れる。


 うちの一番古い離れはですね、どんだけ予約が埋まっても、必ず空けておけって代々言われているんですよ。絶対に予約を入れるな、すぐに使えるようにしておくようにって。


 いつ何時なんどき誰が来てもいいように。


 ですから、そんな風に急にいらしたお客様は、その離れを優先的にご案内することになっているんです。

 たしかにいつも急すぎて大変ですけど、お客様を歓待するのは、すべからく私の役目ですからね。意外となんで、私にとってはですね。当たり前のようにあるので、常日頃からきれいにしてあります。あの離れは特に。


 その離れに泊まられるお客様方も、他の予約客の方々と同じように静かな時を自由に過ごされます。部屋でのんびりしたり、町を散策したり、海やあの孤島を見に行ったり、山でひとりキャンプをしたり。うちの料理に舌鼓を打って、少し大きな風呂にゆったり浸かって、それからふかふかの布団でぐっすり眠る。どの方も同じです。


 どのお客様も、ただ穏やかな時を過ごしてもらう、それが我が旅館の在り方なんでしょうね。


 ただ他の方と違うのは、来た時と同じように何処かへ帰っていくのです。旅館から出て、それからどうなさるのかは私にも分かりません。ただ、町で過ごす姿を見たことはあっても、そのお客様が帰る様を誰も目撃しないのです。私ども以外は。

 ――そう、来た時と同じように。


『宵待』ではね、そういうお客様を「稀人マレビト様」って呼んでいるんですよ。


 この町に訪れた稀人様が、何処から来て、何処へ旅立つのか、何処へと立ち去るのか、私どもは存ぜぬのです。分かっているのは、此処でどのように過ごされたかだけ。

 何処へと流れたかは誰にも分からない、彼らが何処に至るのか、私どもには計り知れない。

 町の名のごとく、まさに葦船というわけです。


 ……そういう意味では、その行方不明の方は、うちの稀人様ではなかったんだと思います。そもそも、うちにいらっしゃりませんでしたしね。

 おそらく宿を取る予定もなかったのではないでしょうか。思い付きでやって来て、撮影を終えたらその足で帰る――そういう予定を立てていたのかもしれませんね。ある意味、明確な目的があったということなのでしょう。

 しかしながら、その方が来訪者であるということは、紛れもない事実とも言えます。


 そして、来訪者が歓待を受けるのは、あって然るべきこと。


 旅人が歓迎されて村の家に厄介になるなんてのは、日本各地だけでなく全世界によくある話でしょう? もしかしたら、うちではない何処かで、彼らは歓待を受けているのかもしれません。それが……ね。


 ははは、話が逸れましたね。


 こういう話をすると雰囲気があっていいと、喜ぶお客様もいらっしゃるのですよ。

 あなたもね、宿泊なさるならあの離れにご案内したんですけど、残念ですね。宿泊の心積もりはないのでしょう? ならば離れも部屋もご用意は不要となりますね。

 それに今日は、何となくですけれど、ふらっとお客様がいらっしゃるような気がするので。その方々のために空けておかないといけません。そういう夢見だったのですよ。


 毎日ではないにせよ、飛び込みのお客様はそれなりにいらっしゃるので、ある意味、これも日常なのかもしれませんね。余所から見れば変わったことも、慣れてしまえば普通のことなんですよね。よくあること、起こり得ることなのかなと。

 そう考えると、変わったことってのは何かの始まりかもしれませんね。


 そう。

 あなたがこの町に来たことは、始まりの一つかもしれません。


 そういう意味でも、私はあなたを歓迎しています。もちろん事件が解決してほしいという意味でも。


 ですから、協力は惜しみませんよ。私としては、至極平和に、穏やかな時をお客様に過ごしてもらわなくてはならないので。




(しばらくの間、取り留めのない話が続く)




(扉が開かれる音、そしてにゃーと鳴く猫の声)


 たくさん撫でてくださってありがとうございます。随分とご機嫌だ。


(廊下の僅かに軋む音、扉が閉められる音)


 あまり有益な話がなくてすみませんね。

 何かあればまたいらしてください。私もお客様に尋ねてみたりしておきますから。ええ、ご協力できることならお気軽に。


 どうぞお気をつけてお帰りください。

 一応山道ですからね、足元に気をつけて。犬が鳴いても振り返らないよう。


 ああ、そうだ。


(硝子戸の開閉音)


 これどうぞ。かわいいでしょ、お猫さんの箸置き。うちの料理人が食器作りの合間に作ったやつです。

 大事にしてやってくださいよ。うちの料理人も喜びますし、大事にすればお猫さんもきっと何かの恩を返してくれますから。


 ほら、言うじゃないですか。



 迷い家マヨイガの土産にはご利益があるって。





 ――以上。

 最後は、主人の軽い笑い声で音声データは終わっている。


 職員の受け取った箸置きは、特別なものでもなくありふれたものであったため、職員当人に返却済み。葦船から出るまで持ち歩くようにと念を押されたため持ち歩いているとのこと。


 その後の他者への聞き取りで、旅館内の居住区画にて、主人と料理人、そして数匹の猫がともに暮らしていると分かっている。料理人は淡墨というらしい。

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