第6話 逃亡と孤立の果てに
12年前の夏、男子更衣室で発生した窃盗事件は、静かな病院の日常に深い亀裂を残した。
職員たちが信頼を寄せていた空間が突如として壊され、不安と疑心が院内に静かに広がっていった。
疑いの矛先が向けられたのは、介護助手・山下健吾。
あの日、事件の騒ぎが院内に広がるその前に、彼は忽然と姿を消していた。
後に判明した履歴書の住所と電話番号はすべて虚偽。病院側は警察に被害届を提出したが、決定的な手がかりは得られず、捜査はやがて立ち消えとなった。
時が経ち、事件は徐々に記憶の奥に沈んでいった。
職員たちは表向きの平穏を取り戻したが、あの日に生じた見えない『ひび』は、いまなお組織の底に静かに残されていた。
坂口が看護部長に昇進した頃には、新たなスタッフが加わり、組織は再編され、穏やかな日々が続いていた。
だが、その平穏は一本の電話によって唐突に破られる。
秋の風が窓をかすかに叩く午後。デスクの電話が鳴った。
「〇〇県警です。河川敷で発見された車の中から、そちらの病院名と『山下健吾』という名前が記された名札が見つかりました。ご確認いただけますか?」
その名が耳に届いた瞬間、坂口の胸に封じられていた記憶が、にわかに蘇った。
……山下健吾
まるで封印された記憶が音を立てて開いたかのようだった。まさか今になって、あの未解決の事件と向き合うことになるとは——
動揺を押し殺しながら、坂口は警察署へと向かう支度を始めた。心には、長年くすぶっていた疑念と、そして、わずかな希望が混ざり合っていた。
******
翌朝。坂口は捜査官の案内で、一台の古びた青いワゴンの前に立っていた。
風雨にさらされたその車は、ボディにサビをまとい、窓は曇り、サイドミラーは外れかけていた。
中を覗くと、散乱した衣類、使い込まれた折りたたみ式のガスコンロ、レトルト食品。そして、病院名と「山下健吾」の名前が記された名札が、ダッシュボードの隅に落ちていた。
「……これが、本当に彼の生活だったのか」
思わず声が漏れた。
車内に漂う空気は、貧しさと孤独の匂いに満ちていた。
捜査官が口を開く。
「遺体は車内で発見されました。死後、ある程度の時間が経っているようです。現場の状況から見て、ここが死亡現場と見られます」
坂口の胸に、言葉では言い表せない重い感情が広がる。
しかし、その後の一言が、さらなる衝撃をもたらした。
「ただ……この車の車検証、名前が違うんです。『村上健二』と記載されています」
「山下健吾」という名札。
「村上健二」という車検証。
一致しない名前……
——もしかすると、山下健吾という人物は、最初から存在しなかったのではないか。
警察は車検証の名義をもとに捜査を進めたが、登録されていた住所はすでに建て替えられており、所有者の記録も追跡不能だったという。
名札、履歴書、連絡先、車検証。
そのどれ一つとして、彼の「本当の姿」にたどり着く手がかりにはならなかった。
坂口はふと、かつての看護部長・井上が粘り強く追いかけた調査の記録を思い出した。思えばあのときから、彼の存在は“虚構”で覆われていたのかもしれない。
「……彼は最初から、誰でもなかったのかもしれない。だが、たしかに——ここに『いた』」
その後、警察では事件性を示す手がかりは発見されず、身元不明遺体としての扱いで捜査は幕を下ろした。
事件は、事実上の迷宮入りとなった。
山下健吾の正体も、動機も、結局、明らかにされることはなかった。
ただ一つ、確かにわかっていることがある。
彼は、生きる術を失いながら、あの病院に辿り着き、誰にも知られず、誰にも名を告げず、独りでこの世を去った——という事実だけだ。
坂口はその日の夕方、病院の一室で古い記録に目を通していた。
指先がめくる書類の中に、かつての名簿、ヒアリング記録、井上の走り書きが挟まれている。
静かな時間のなか、彼はぽつりと呟いた。
——もし、あのとき彼が、助けを求めていたとしたら……
窓の外には、初秋の夕陽が沈みかけていた。
その光は穏やかでありながら、どこか冷たかった。
坂口の目には、あの日消えた一個の高菜弁当が浮かんでいた。
——もしかしたらそれが、彼にとって人生最後の『救い』だったのかもしれない。
※ここまでお読みいただき有難うございます。
物語を書き終えた後、どうしても心に残る想いがありました。
そのため短いエピローグ「あなたは誰ですか?」を加えました。
最後まで読んでいただけたら幸いです。
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