Midnight Blue Rose
@akihazuki71
第1話 地下の住人に愛の手を
「生徒会長も補習なの?」
夏休みが始まって、一週間が過ぎようとしていた。鍛冶章太郎は毎日、補習に追われていた。教室に入ろうとして、クラスメイトの鏡島春奈を見かけ、声をかけた。
「そんなわけあるか!」
春奈が答えるよりも早く、男の声が聞こえた。章太郎の後ろに、教師の綾錦真継がしかめっ面で立っていた。
「おはようございます、綾錦先生。おはよう、鍛冶君。」
春奈が微笑んでそう言うと、綾錦先生がにこやかに応じた。
「おはよう、鏡島。今日も生徒会の仕事か?」
「おはよう、生徒会長。毎日たいへんだね。」
章太郎が割り込むように言うと、綾錦先生が睨みつけてきた。春奈は二人の顔を見比べて、苦笑した。
「夏休み明けには、すぐ学園祭の準備で忙しくなるから、出来ることは早めにやっておこうと思って・・・」
「お前も見習えよ、鍛冶。そうしたら、補習なんか受けなくて済むんだからな。」
綾錦先生が勝ち誇ったように言うと、
「そうですね・・・」と、章太郎が不服そうに返事をした。
「そういう態度だからだ。まったく、俺の教科だけ赤点取りやがって・・・」
「テストの問題が意地悪だからですよ。」
「なんだと。」
その時、校内にチャイムの音が鳴り響いた。綾錦先生は握った拳を開くと、
「10教えても、1も理解しない奴じゃなくて、1教えれば、10理解する方に授業したいよなぁ・・・」
「いくらオレでも、半分くらいは理解してますよ。」
「だったらなんで補習なんか受けてるんだよ。」
「そりゃ、そうだ。」
章太郎と綾錦先生は笑いながら教室に入っていった。二人を微笑んで見送った春奈は、廊下を歩き出した。
休み時間になると、補習の教室内では「スノー・クィーン」の話題で盛り上がっていた。それは最近、夜の街に現れるという謎の美女だった。頭のてっぺんから足の先まで、全身が純白に包まれているためそう呼ばれていた。
「その姿を見た者には、いい事があるんだって!」
「すごい美人だって言うじゃないか!」
「オレのアニキの先輩が見たことあるって!」
「なぁ鍛冶、お前さ、夜は母親の店でバイトしてるんだろ?会ったことないのか?」
興味なさそうにしていた章太郎に、補習仲間が声をかけてきた。
「ずっとカウンターの中にいるんだから、そんなの知るわけないだろ。」
面倒臭そうに答える章太郎に、また別の生徒が話しかけてきた。
「けど、店から出ることだってあるだろ?帰りに見たことないのか?」
「あーあ、会ってみたいなぁ・・・」
「補習終わったら、探しに行ってみようぜ。」
「それより、オレにいい考えがあるんだけど、お前ら、のらないか?」
「な、なんだよ、そのいい考えって?」
「何?何だよ?」
もはや章太郎のことはそっちのけで、あやしい計画に夢中になっていた。
章太郎はまったく別のことが気になっていた。気付かれないようにそっと席を立つと、教室を出ていった。
生徒会室は同じ校舎の三階にあった。章太郎は階段を上がりながら、昨夜のことを思い出していた。
章太郎の母親は小さなバーを経営していた。父親は長期の海外勤務で、一年に二回ほどしか帰ってこなかった。だから、今はほぼ、母親と二人暮らしだった。
章太郎はその小さなバー「月の唄」でバイトをしていた。普段は一週間に二、三日だったが、夏休みに入ったので、定休日以外はほぼ毎日通っていた。
昨夜も、いつものように仕事を終えると、母親より先に帰路に着いた。
店のある細い路地を抜け、大通りで信号待ちをしていると、反対側の歩道を走っていく何人かの人影が目に入った。
街灯やネオンサインで辺りは明るかった。
体の大きな者や小さな者、その体格はバラバラだったが、全員、同じ警備員の制服を着ていた。そして最後に、髪の長い女が走って来た。
「急いでください、こっちです。」
先を行く警備員の一人にそう言われ、女は息を切らせながら、
「間違いないの・・・、彼に・・・」
その声には聞き覚えがあった。章太郎が毎日聞いていたクラスメイトの声、生徒会長の鏡島春奈だった。
学園内と違って、眼鏡をかけておらず、髪も後ろで結んでいなかったが、間違いなく彼女だった。
警備員たちと走り去る春奈を追って、章太郎は走り出した。
道路を挟んだ反対側の歩道だったが、この通りは夜十時以降は車両制限区域のため、見通しは悪くなかった。
しかし、しばらく進むと道を曲がり、奥の細い通りへ入っていった。
辺りに目をやると、近くの横断歩道はまだ信号待ちだった。道路には一台の車も走っていなかった。
章太郎は歩道と道路を隔てるガードに手を掛けると、一気に飛び越えた。辺りに警告音が鳴り響いた。かまわず走って道路を横切ると、反対側のガードも飛び越えた。再び、辺りに警告音が鳴り響いた。
脇目も振らず、春奈たちが消えた通りへ入ったが、すでに人影は無かった。
奥へと伸びる通りには、さらに何本もの通りが左右に続いていた。それらを一本一本、確かめながら、章太郎は小走りに進んだ。
大通りを渡ったこちら側は、夜遅くに営業している所は無く、辺りは暗く静まり返っていた。
すると、どこかで声がした。章太郎は立ち止まって耳を澄ました。
「・・・大丈夫よ、この辺りは、夜は誰もいないから・・・」
章太郎の耳に聞こえて来たのは、春奈の声に間違いなかった。
すぐ先の通りを入った所に、人影を見つけた章太郎は、建物の陰に隠れて様子をうかがった。
角を曲がって数メートル進んだ先、道路の片側に集まっていた。一人が屈み込んだかと思ったら、突然、道路の中に消えたように見えた。
一人、また一人と消えていき、とうとう、誰もいなくなった。
章太郎が急いで駆け寄ると、そこにはマンホールがあった。
持っていたライトを点けると、普段見かける物とは違い、収納式の取っ手がついていた。しかも周りをよく見ると、それは道路ではなく、敷地の中にあった。
章太郎は取っ手をつかむと持ち上げた。思ったより軽かったので、片手で支えながら、もう片方でライトを持つと穴の中を照らした。
金属製のはしごが下へ伸びていたが、穴の底までは確認出来なかった。
章太郎は少し考えると決心して、はしごを下り始めた。ライトを口にくわえると、何とか片手でマンホールの蓋を戻し、さらに下りていった。
どのくらい下りたのか、章太郎の片足に硬い感触が伝わった。両足を着けると、ライトを手に持ち替えた。
人がどうにかすれ違えるくらいの通路が、片方に延びていた。はしごの位置から考えると、章太郎が渡った大通りとは逆の方角だった。
章太郎はライトを片手に掲げ、通路を進んだ。横幅はやや狭かったが、高さは身長182㎝の章太郎でも、普通に歩けるくらいあった。
通路はここまで一本道だった。章太郎は勢いでここまで来てしまったが、前後から誰かがやって来たらどうしようと、今さらながらに思った。
「ここまで来ちゃったんだから、どうしようもないよな・・・」
章太郎の独り言が辺りに反響し、慌てて口を押さえた。立ち止まって耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。
しかし、特に何も起きることなく、通路は広い場所へ出た。教室くらいはありそうな円形の空間に、上へと続く階段があった。
辺りはほんのりと明るく、見上げると、はるか上に小さな窓が見えた。こうなったら、階段を上るしかないなと、章太郎は1段目に足をかけた。
鉄製の頑丈な階段を一段一段上っていくと、音が反響した。章太郎は出来るだけ静かにゆっくりと足を動かした。
上っていくうちに、この階段に見覚えがあるような気がした。建造物によくある外階段というか、非常階段なのだが・・・まあ、どこにでもあるかと思い直した。
どれくらい上ったのか、章太郎は手すりから乗り出して下を見た。鉄骨の柱が下へ伸びていたが、底の方は真っ暗で見えなかった。逆に見上げると、あと少しで終点のようだった。
上りきった踊り場には、扉があった。章太郎はドアノブに手を掛けると、ゆっくりと回した。鍵はかけられていなかった。扉の隙間からそっと覗くと、広い空間と太いコンクリートの柱が見えた。
章太郎は思いきって扉を全開した。どこかの地下駐車場のようだった。そして、扉を閉めた時、そこに書かれた文字が見えた。
「関係者以外立ち入り禁止。ミセス・ローズ記念学園高等部事務局」
どうやらここは、章太郎が通う高校の地下駐車場だった。その扉のすぐ横には、もう一つ扉があり、地上へ出るための階段があった。
階段を上っていくと、いつも見ている学校の校舎があった。ただ、昼間と違い夜の闇の中にあるその風景には、妙な迫力が感じられた。
階段は、さらに校舎の屋上へと続いていた。章太郎は興味をそそられ、再び階段を上り始めた。
屋上に到達すると、素晴らしい眺めが待っていた。色とりどりの光の波がいくつも重なり合って、闇の中に浮かんでいるようだった。
「きれいな夜景」と言ってしまえば一言だが、今夜の章太郎は、それだけでは物足りない想いが湧き上がってきた。
「ミッドナイト・ブルー・ローズ」は、真夜中に出会うありえないものを現す言葉だった。この都市では、様々な事にバラの花が引用されて使われていた。
「ミッドナイト・ブルー・ローズ」もその一つだった。
章太郎にとって、この夜景も含めた今夜の出来事は、まさに、ミッドナイト・ブルー・ローズだった。
この都市は、今から112年前、一人の男によって創設された。
男が相続した莫大な遺産によって都市の礎が造られ、そこへ様々な企業や起業家、投資家がやって来た。都市は見る見るうちに大きく発展していった。
都市にはその男の名がつけられていたが、今では、その名で呼ばれることはほとんどなかった。
「ミセス・ローズ・シティ」それがこの都市の通称だった。
ミセス・ローズは創設者の妻で、その名もまた通称だった。彼女は夫とバラと宝石をこよなく愛したといわれる。
彼女が始めたバラ園は、今も都市の南側に残っていた。芝生の広場やカフェ・レストランなどが併設され、市民の憩いの公園として親しまれていた。多くの市民が訪れて、思い思いの時間を過ごしていた。
男の成功と共に、妻の金遣いも派手になっていった。だが、その情報が拡散される度に、さらに多くの人がこの都市へとやって来るきっかけとなった。
男はその後、破滅した。しかし、都市はさらなる発展を遂げた。
ミセス・ローズがその後どうなったのかは、誰も知らなかった。けれど、その名がつけられた施設や建築物は、今もたくさん残っていた。
鍛冶章太郎が通う「ミセス・ローズ記念学園」もその一つである。
章太郎は三階の廊下を歩き出した。廊下の突き当たりに、生徒会室があった。
引き戸の上部には、バラをデザインしたステンドグラスがはめ込まれ、生徒会室と書かれたプレートがついていた。
章太郎は立ち止まると、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。そして、ノックすると、聞き覚えのある声が返ってきた。
「はい、どうぞ。」
ゆっくりと引き戸を動かすと、正面の一番奥にある机に向かっている春奈と目が合った。春奈は誰が入って来たのかわかると、微笑みを浮かべた。
「鍛冶君、どうかしたの?」
章太郎は部屋の中に入ると、後ろ手で戸を閉めた。左右に視線を走らせて、春奈が一人きりだと確かめると、近づいて行った。
「ちょっと、聞きたいことがあって・・・」
「ちょうどいいわ。休憩しようと思っていたから。」
春奈は立ち上がると、後ろのガラス戸を開け、章太郎を手招きした。
生徒会室の奥は、ガラス張りの温室になっていた。ぐるりと周りを囲うように、植物の鉢植えが並んでいた。今の季節は窓の一部が開けられ、温室の内部を心地良い風が吹き抜けていた。
中央には円形の東屋が設けられ、小さなテーブルが置かれていた。春奈は章太郎を東屋に導くと、お茶を持ってくると言ってその場を離れた。
章太郎は東屋の中に入ると、周りを囲うように配されたベンチに座った。
「涼しい・・・」
東屋の中にだけ空調設備があるようだった。
「お待たせ。」
すぐに春奈が戻ってきた。両手にお茶を入れたグラスを持っていた。
「ペットボトルの麦茶だけど・・・」
春奈は少しだけ笑いながらテーブルにグラスを置くと、ベンチに腰を下ろした。春奈が片方のグラスを取って口を付けたので、章太郎も同じようにした。
喉を潤すと、春奈が改めて聞いた。
「聞きたいことがあると言ったわね、どんなことかしら?」
視線を送ってきた春奈に、章太郎はわずかに目をそらせると、
「昨日の夜、生徒会長を見かけたんだけど・・・」
「昨日の夜?」
「そう。オレ、母親の店でバイトしてるんだけど、その帰りに。」
春奈は指をあごに当てながら、思い出しているようだった。
「昨日は、夕方に友達と別れてから、家に帰って来て・・・その後は、どこにも出かけてないと思うけど。」
「でも、あれは確かに生徒会長だったと思う。いつもと違って、髪を下ろして、眼鏡を外していたけど。」
章太郎は春奈をじっと見てそう言った。すると、
「見間違いじゃない?夜だから、暗かったでしょう・・・」
春奈は視線をそらせて、そう言った。
「いや、明るかったよ。街灯もあったし、ネオンがたくさんあるところだから。」
章太郎がそう言うと、春奈は視線をゆっくりと戻した。
「そう、でも、それはわたしじゃないわ。」
春奈は章太郎をまっすぐに見ると、微笑んでそう言った。
「その時、きみは、何人かの警備員と一緒だった。」
章太郎は春奈をまっすぐに見据えると、さらに続けた。
「誰かを追いかけているみたいだった。彼に間違いないのか?とか、夜は誰もいないから、大丈夫。って言ってたよね。」
引き下がらない章太郎に、春奈は微笑みを消した。
「困ったわね。」
「でも、驚いたな。うちの学校の地下駐車場に、あんな抜け道があるなんて・・・」
その瞬間、章太郎の首筋に冷たく固い感触が走った。そして、東屋の周りに数人の黒い影が現れた。
「さっさと始末しておくべきだったな。」
章太郎の耳元で低いくぐもった声が響いた。首筋の固い感触がわずかに動いた。
「やめて、彼はそんな人じゃないって言ったでしょ。」
春奈は片手を額に当て、ため息をもらした。
「それに、あなたには生徒に手を出すなんて出来ないでしょう。」
「そりゃ、そうだ。」
聞き覚えのある声がした途端、首筋に当たっていた固い感触がフッと消えた。
章太郎は自分の首に手を回すと、振り返った。
「よお、鍛冶。」
そこには、毎日のように見ている皮肉な笑顔があった。教師の綾錦が、東屋の格子越しに章太郎を見下ろしていた。
綾錦は章太郎の隣りに、強引に滑り込んで来た。章太郎は体を奥へずらした。
「驚かせてしまって、ごめんなさい。」と、春奈が言うと、
「この程度で驚くような奴じゃないさ。」と、綾錦が吐き捨てた。
「・・・・・。」章太郎は横目で綾錦を睨み付けると、
「・・・じゃあ、昨夜のことは、学校に関係しているの?」
春奈の方を向いて、話し掛けた。
「ええ、代々の生徒会が任されてきた事なの。」
春奈はいつものように、穏やかな微笑みを浮かべていた。
今から10年程前。当時、深夜の校舎に現れては、窃盗を繰り返す集団がいた。
警備員が巡回していたにもかかわらず、犯人の逮捕には至らなかった。彼らは、追い詰めたかと思うと、その場から忽然と姿を消していた。
いつまで経っても解決しない現状に、生徒会が乗り出した。生徒会は犯人の行動を分析し、犯人確保のための綿密な計画を立てた。
結果から言えば、生徒会は犯人の確保に成功した。それと同時に、彼らの置かれた現状と学園の秘密を知ることとなった。
初めて彼らと対面した生徒会の面々は、驚きを隠せなかった。
或る者は獣のような耳や尻尾、体毛に全身が覆われていた。また或る者は、青白い皮膚に尖った耳を持ち、さらに、体中が傷だらけの者や薄汚れた包帯を全身に巻いている者もいた。
それは、人々がモンスターと呼称する存在だった。彼らは学園の地下に広がる広大な空間に、ひっそりと隠れ暮らしていた。
元々この場所には、ある研究所があった。そこでは、怪しげな研究が行われていた。人ならざる者の能力を取り出し、人体への移植を試みていたのである。
彼らはその過程で、犠牲となった実験体やその子孫だった。
研究所は閉鎖され、解体された。しかし、地下空間とそれらを繋ぐ地下道はそのまま残され、この学園が創られたのである。
彼らは長い時間をかけて、地下道と学園の様々な場所を秘密の通路で繋いだ。そして、必要な物資の調達していたのである。
当時の生徒会長は彼らを気の毒に思い、理事長に直談判した。そして、学園の警備員として雇ってもらうことになったのである。
「それで今は、わたしたちが彼らの相談に乗っているのよ。」
春奈はそう話を締めくくった。
「話してもらって、なんだけど、オレなんかに話してよかったの?」
章太郎は、春奈と綾錦の顔を交互に見ながら言った。
「そうね、でも、これは鍛冶君、あなたにも関係のあることだと思うから。」
春奈はそう言って、少し表情を曇らせた。
「オレに関係あること?それって、どういうこと?」
「トボケても無駄だからな。お前の家系については調べがついてる。」
春奈に代わって綾錦が釘を刺すと、章太郎は眉間にしわを寄せた。
「チェッ、全てわかった上で、泳がされてたってわけだ。」
「ごめんなさい。でも、どうか、最後まで話を聞いてもらえない?」
春奈は心配そうな面持ちで、上目づかいに章太郎を見つめていた。章太郎はその眼差しに、一瞬、ドキッとしてしまった。
「いいけど・・・」
章太郎は顔が火照るのを感じ、春奈から視線をそらせた。その様子を黙って見ていた綾錦は、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
学園の警備員となった地下の住人たちの生活は、目に見えて良くなった。
地下空間は、住居や事務所としてリノベーションされ、生活の水準も大きく変化した。外見の違いから、仕事の内容やシフトの調整は必要だったが、概ね順調だった。
ところが最近になって、彼らの間にあるドラッグが広がるようになった。
それは彼らに、「先祖返り」を引き起こすものだった。
彼らの中には異形の血が流れているが、普段は人と変わらず生活していた。人と同じ物を食べ、仕事をし、趣味や娯楽に興じ、そして眠りにつく。
ただ一つ違うのは、月に一度、満月の夜に、その血が強く呼び覚まされることがあった。その夜だけは、人の血を求めるのである。
とはいえ、今の彼らは本物の血を求めることはない。言わば、疑似血液で十分なのである。ひらたく言えば、トマトジュースである。
「トマトジュース!」
話を聞いていた章太郎は、思わず叫んだ。
「彼らが言うには、それに鉄の粉を入れるのがいいらしいわ。」
春奈は少し首をかしげて言った。
「お前も飲んでるんだろ?」と綾錦が聞いてくると、
「オレはそんなの飲んでないよ。飲むわけないだろ!」
「そうなの?」
「そうか、由緒正しい人狼の家柄だからなあ、何か特別なものがあるんだろう。」
綾錦がもったい付けたように言うと、春奈が興味を示した。
「特別なもの?」
「いや、別に特別ってわけじゃ・・・」
そこまで言って、章太郎は口ごもった。春奈は興味津々な目を向けていた。
「母さん・・・母親が、自分の血を少し分けてくれるだけだよ。」
章太郎は恥ずかしそうに言うと、少しだけうつむいた。
幼い頃、月に一度訪れるその夜を、「赤い夜」と呼んでいた。その頃はまだ父親も家にいて、章太郎と二人で、母親から少量の血液を分けてもらっていた。
章太郎はその夜が好きだった。それが何のためであるかわかった後も、その気持ちに変わりはなかった。
その少量の赤い液体を口にすると、全身に温かなものが広がり、安心感と幸福感に包まれるのである。
毎月、血液を分けてくれる母親に対して、申し訳ないという罪悪感はあったが。
「ごめんなさい。悪い事を聞いてしまったわね・・・」
春奈が心配そうに見ているのに気付いて、章太郎は我に返った。
「いや、ごめん・・・何でもないから、本当に、何でもないから。」
身振り手振りで必死に言う章太郎に、春奈はそっと微笑んだ。
「実際に見てもらった方がいいわね。この後、時間あるかしら?」
春奈の言葉に従い、章太郎は地下駐車場を訪れていた。もちろん、綾錦先生も一緒である。
昨夜、章太郎がたどり着いたその扉から、中に入った。オートロックになっているため、駐車場側からは専用のカードキーがないと開けられなかった。
今度は階段を下り、通路をしばらく進むと、先頭の春奈が立ち止まった。
春奈が壁に右手を二度、押し付けると、一部の壁が扉のように開いた。中には、小さなモニターやテンキーが並んでいた。
春奈は駐車場で使ったカードキーを差し入れると、暗証番号を入力した。すると、壁の一部が内部へスライドするように開いた。
章太郎は驚きながらも、春奈に続いて中へ入った。
奥へと続く通路を進むと、突き当たりに三つの扉が並んでいた。春奈は真ん中の扉を開けると、中に入った。
「会長さん、いらっしゃい。」
部屋の中は、無機質なコンクリートの通路と異なり、内装が施されていた。椅子やテーブルなどの家具が配置され、居心地が良さそうだった。
十数人ほどが、思い思いにくつろいでおり、その内の数人が近づいて来た。
「昨夜は助かりました。ありがとうございました。」
「お久し振りです、若様。」
「若様?」章太郎は絶句した。どうやら、綾錦のことらしい。
「あれ、こちらは新人さんですか?」
そう言って、章太郎に手を差し出してきた者がいた。章太郎はそれに応じて、
「どうも、鍛冶です。鍛冶章太郎・・・」
すると、手を握っていた長髪の男が、目を見開いた。
「鍛冶さんって、もしかして、あの鍛冶さんですか、鍛冶章一郎さんと関係が?」
かなり興奮したように、早口で尋ねてきた。
「あっ、あの、鍛冶章一郎は、祖父ですけど・・・」
勢いに押されて、章太郎が答えると、周りから歓声が上がった。
「鍛冶章一郎さんのお孫さんですか!」
「鍛冶さんは、わたし達の命の恩人なんです!」
「あの方のお孫さんに会えるなんて!」
章太郎は人々に取り囲まれ、口々にお礼を言われ続けた。春奈も綾錦も、驚いた様子で眺めていた。
改めて、落ち着いた所で話を聞くと、章太郎の祖父、鍛冶章一郎は、彼らを研究所から助け出してくれた人物だった。
研究所はある日、突然、閉鎖され、職員は夜逃げ同然にいなくなった。しかし、実験体の彼らは、そのまま放置された。
暗く狭い地下室に閉じ込められ、何日も、水も食料も与えられずにいた。そこへ、鍛冶章一郎と仲間たちが現れ、助け出してくれたのである。
それは、行政の手が入る直前だった。
「驚いたわ。まさか、そんなつながりがあるなんて・・・」
春奈はそう言って、微笑んだ。しかし、すぐに向き直ると、
「せっかくの雰囲気を壊すようだけど、ここへ来たのは、彼らの様子を確かめるためなの。あれから、どうですか?」
春奈は少しだけ厳しい口調で言った。
その場にいた全員の表情が暗くなった。そして、章太郎に握手を求めてきた長髪の男に、視線が集中した。彼がリーダー的な存在のようである。
「変わりありません。ずっと、あのままです。」
彼がそう言うと、部屋の中はさらに重たい空気に包まれた。
「そう・・・」
春奈はため息のような声をもらしたが、すぐに、思い直して言った。
「とにかく、様子を見に行きましょう。そのために来たのだから。」
長髪の男の案内で、部屋の奥にある扉から出ると、さらに階段を下りた。
そこは、分厚い鉄の扉によって隔離された部屋だった。鉄格子で区切られた小さな個室が、通路の奥まで並んでいた。
かつて、彼らが閉じ込められていた場所だった。
その個室に、三人が、一つ置きに入れられていた。
一人は、頬のこけた青白い顔を両手で押さえて、うずくまっていた。一人は、血走った両目を大きく見開いて、個室の中を歩き回っていた。
そして、もう一人は、鉄格子を両手でつかんで、激しく揺り動かしていた。一行が近づいていくと、その動きがさらに激しくなり、うなり声を上げた。
それぞれの個室には、簡易ベッドが置かれていた。しかし、マットレスは引きちぎられて、床に散乱し、金属製の本体は変形して、鉄格子から飛び出していた。
三人は、ドラッグを摂取してからの経過日数が異なり、症状の経過が見て取れた。
それは、日に日に、悪化しているように見えた。
「監視を続けていますが、昼と夜とでは症状が違うんです。」
長髪の男がそう言って、天井に付けられたカメラを見た。その時、
「痛っ!何するんだっ、放せっ、放せよっ!」
章太郎の叫び声がして、全員の視線が集中した。
すると、鉄格子の中から伸びた腕が、章太郎の襟元をつかんでいた。ものすごい力で引っ張られ、章太郎の体は鉄格子へと引きずられていった。
全員が駆け寄ったその時、鉄格子に触れていた章太郎の腕に激痛が走った。
「いってぇぇーーーーー!」
章太郎の叫び声が響いた。
鉄格子の中にいた男の牙が、章太郎の腕に食い込んでいた。その場にいた者と、騒ぎに気付いて駆けつけた者とで、男の口を開かせて、章太郎から引き離した。
章太郎の腕には、牙の跡が痛々しく残り、血が滴り落ちていた。
「急いで手当てを!」
章太郎は数人に取り囲まれて、その場から連れ出された。その後を、春奈が心配そうに追った。
その場に残った者は、章太郎に噛み付いた男の異変に気付いた。
男はまだ、興奮状態だった。口の両端から血を滴らせて、歩き回っていたと思ったら、突然、喉を押さえて苦しみ出した。
そして、その場に膝をつくと、そのまま倒れてしまった。
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