Page.3 果実の動揺 前篇
白んだ光がカーテンの隙間から差し込み、鳥たちの声が微かに届く。女は目を皿にして黙々とノートパソコンに文字を打ち込んでいた。
「おわっ…たぁ!」
ため息にも似たその言葉と共に、思い切り全身を伸ばしながら、背もたれに体重を預ける。
ちらと壁の時計に目をやると、短針がそろそろ"5"を差そうかという所だった。はぁ…と、心なしかトーンの落ちたため息を吐く。
――ピロンッ。
見計らったかのように、傍のスマホが鳴った。こんな時間に、碌でもない連絡じゃなきゃいいけど…疲れ切った顔で渋々と手に取ると、画面には思いがけない名前が表示されていて、思わず眉を顰めた。
『起こしたらごめん、今日どこかで会えますか?』
あの人に会える…!届いた文字を読んだ瞬間、表情がぱっと晴れやかになる。
しかし、こんな時間に送ってくるなんて初めてだ。どうしたんだろう?
『起きてたから大丈夫だよ!今日はいつでもおっけーです。なんなら今からでも!』
最後の一文には、冗談とちょっぴりの期待が込められていた。間を置かずに返事が来る。
『行きます』
たった四文字にどきっと心臓が跳ねる。
『はーい!待ってるね』
平静を装って返したが、今のこの時間といつも以上に淡白な彼の文字に、心配と戸惑いが交錯していた。すぐに彼に会わないと――何故だかそんなふうに思えた。
ほどなくしてインターホンが鳴る。部屋のモニター見て、女はぎょっとしてしまった。彼であることは間違いないのだが、あまりに影を帯びてまるで幽霊のような佇まいだったのだ。女は慌てて玄関へと駆けた。
チェーンを外しドアを開けると、そこに立つ彼はいつも以上にスーツがくたびれ、髪も心なしかぼさぼさになり、虚ろな目をしてそこにやっと立ち尽くしていた。
「大丈夫…?」
いらっしゃい、よりも先に心配の言葉が出た。彼は、隈を溜めた沈んだ目で女を見ると、表情を変えぬまま大丈夫だよとでも言いたげに、手を腰当たりでひらひらと振ってみせる。
「とにかく入って?」
これは多分大丈夫じゃないな、と一先ず家の中へ招き入れる。
のっそりとした足取りでリビングに向かう彼を横目に、女は玄関の鍵とチェーンを掛け、急いでその暗い後ろ姿を追った。
リビングへ入るや否や、彼はぴたりと足を止めてしまう。心配そうに顔を覗き込むと、依然として虚ろなままだった。
「おーい、起きてるー?」
目の前で手を振っても何も反応が無い。なんとなく目で追っているようにも見えるが、何も声を発さずまるでパソコンがフリーズでもしたかのようだった。
どうしよう…彼のこんな姿は初めてだ。
静かに正面に立ち、労わるように背中に腕を回してぎゅっと抱きしめてみる。
スーツから漂うアルコールや煙草の臭いの奥に、いつもの彼の香りがしっかり感じ取れて、女はふうと心を落ち着かせた。
彼はお酒が弱いし煙草も吸わない。それでも服にこんなに臭いがつくということは――そこまで考えて、女は腕にきゅっと力を込め、彼の疲れ切った身体をしばらくの間包み込んでいた。
ふと、腰にふわりと温かい感触が――なんだろうと、ちらとその感触の元に視線を送ると、それは紛れもない彼の手によるものだった。
力こそ入っていないものの、彼女の身体を抱きしめ返そうという意思が確かにそこにあった。女の表情がぱあっと華やぐが、彼の顔は変わらぬまま。
どうしたものかと女は悩むが、やがてある妙案を思いつく。
彼の両手を引き、ゆっくりと洗面所へ誘うと、女は唐突に彼のスーツのボタンに手をかけた。
「ごめんね、ちょっと手を上げてー?」
声をかけると、なんとなしにその言葉を認識しているのか、ぼんやりと言われた通りに動く。それに応じて女もてきぱきと服を脱がしていった。
「はい、ばんざーい」
上半身を脱がし終わると、続いてズボンのベルトにも手を伸ばす。
女の妙案――それは、シャワーで温めてあげれば回復してくれるかもしれない、というものだった。抱きしめた温もりで反応してくれたし、少なくとも声も聞こえているのだから。
とはいえ、このままの彼を浴室に一人ほっぽり投げる訳にもいかない。当然自分も一緒に入る訳で――服のまま洗ってあげればよいのかもしれないけど、彼になら見せても構わないか…という信頼のような思いもあり、何より恥ずかしさよりも、どうにかしてあげたいという気持ちが彼女を突き動かしていた。
ふんふん、と鼻を鳴らしながら、彼を包む最後の一枚の下着を下ろす。そこに力無く垂れているものは、普段見慣れているのだけれども、なんとなくいつもより元気が無さそうに見えた。そんなことを考えて顔を赤らめ、ふっと口元を綻ばせた。
「先に入って、シャワー浴びててね?」
そう言って、産まれたままの姿の彼を浴室に導いてシャワーを出す。湯温を確かめ、男の手に少し掛かるようにシャワーを向けると、女は一先ずその場を離れた。
浴室に一人残された男は相変わらず空虚に立ち尽くしていた。
ざあざあという音の中、視界はほんのり靄がかかったよう。右手には熱い感触があり、なんとなく空気が温かい。何より、仄かに落ち着く匂いがする。
一体ここはどこだ――?
突然背後からがたりと音がした。そちらに目を向けると、なにやらぼやけた人影のようなものがなんとか見て取れる。白や赤が混じって見えたその影は、やがて全身が薄橙色へと変化していった。
答えがわからぬままじっとそれを見続けていると、突然扉が開いて、ぼやけていたものがいくらかくっきりとした姿で現れた。
「あれ、治った…?いや、まだかな」
視線が合ったからか、その人物は男の目の前に手をひらひらさせていた。この安心感のある声には聞き覚えがある――。
「はい、シャワー当てるよー」
はっきりとした答えが出そうで出ないまま、それは男の肌を熱く刺激するものを当ててきた。全身隈なく当てられて、身体がじわじわと火照ってくる。
「頭からかけるよー?」
心地よい声色でそんなことを言われたかと思った瞬間、突然目の前が滝のようになり、あまりの息苦しさに思わず頭をぶんぶんと振ってしまった。
「きゃっ!もう、犬じゃないんだから」
飛び散る水飛沫を手で庇いながら、その人物は呆れたように笑っていた。
何が起ったがわからないまま茫然としていたが、やがてその姿に徐々に焦点が合ってくる――そして突然、頭の中で何かが弾けた。
そうだ、今目の前にいるのは紛れもなくあの人じゃないか!そう思った瞬間に視界がぶわっと開け、ようやく我に返った。
しかも、よく見たら彼女は何も纏っていない――いや、待てよ。見れば自分も同じ格好だ。
どうしてこうなった?確かスマホで連絡した所までは記憶があるが…見慣れた浴室だけれども、ここは自分の部屋か?それとも彼女の部屋?思考がはっきりしたにも関わらず、男の脳内はさらなる混乱を極めていた。
「はい、じゃあ座ってくださーい」
とりあえず言われたとおりに椅子に座ってみる。女は脇のシャンプーを手に取ると、泡立てて男の髪を優しく洗い始めた。
「下向いて目瞑っててね?」
素直に従い視界を閉じると、頭皮の心地よい刺激と、わしゃわしゃという泡を掻き分ける音だけが響き渡った。シャンプーの香りに混じる彼女の匂いに、混乱していた思考がゆっくり解れていく。
「お痒いところありませんかー?」
まるで美容師のようだ。
「…ないです」
男が静かに答えると、彼女はぱっと顔を輝かせて、彼の耳元まで身を乗り出す。
「あれ、もしかして気がついた?」
「…う、うん、ごめん。俺、なんかおかしくなってたみたい」
「すごかったよ、声かけてもぎゅーしても、全然反応しないんだもん」
「ぎゅーしてくれたんだ?」
「うん、そしたらほんのちょっとだけ君もぎゅって返してくれたよ。覚えてないの?」
「ごめん…全然覚えてない」
「そっかそっか」
話すうちに、彼女の声は心なしか嬉しそうに弾んでいた。
「はい、じゃあ今度は身体ね」
泡を洗い流し、彼を促す。しかし、どこか不服そうな顔で振り返ったので、女はどうしたの?と首を傾げた。
「今度は俺が髪洗ってあげる」
「え、大丈夫だよ。君を洗った後自分で洗うつもりだったし」
「さすがにしてもらうばかりじゃ申し訳ないっていうか…」
「たくさん疲れてるんだから気にしなくていいのに」
「疲れてるのはお互い様でしょう?」
その言葉に、女は胸がきゅんと鳴った。そして突然、男の真っ直ぐな視線がこそばゆくなって、ふいと目を逸らしてしまう。
「じゃ、じゃあ…お願いしよっかな」
「もちろん」
頬が熱くなるのを感じながら、彼の願いを聞き入れるのだった。
「お痒い所はありますかー?」
「ないでーす」
先程とは立場が逆になりながら同じようなやり取りをする。最初はぎこちない手つきだったが、やがて指先で軽快に彼女の髪の毛を優しく揉み込んでいた。
「くせっ毛だから洗いにくいでしょう」
「大丈夫だよ。それにこのふんわりした髪、好きだよ」
先程からの彼の言葉は不意打ちの連続で、女は心の中で手足をばたつかせるのが止まらなくなっていた。
「あ、ありがとうございましゅ…」
とにかくお礼を伝えようとするが、その言葉には動揺が滲んでいた。男はふふっと笑みを溢した。
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