平凡な僕と貞操観念が逆転した世界(第一部完結)

七紙弦

第一章

第01話:悠月冥の入学前夜

 明日から高校だ。

風呂から上がって部屋に戻ると、空気の中にはまだシャンプーの香りと湯気が残っていた。


 天井はいつもと同じように退屈なままだったけれど、どうしても眠れなかった。

緊張しているわけじゃない。緊張にはもう慣れている。

小さい頃から、私の人生は「普通の男の子」っぽくはなかった。

というか、この世界で「普通の男の子」なんて、そもそもあまり存在しない。

もっと正確に言えば――この世界は、私の記憶にある世界とは少し違っている。


私の覚えている世界では、男女比はほぼ半々で、社会もここまで極端ではなかった。

電車があって、コンビニがあって、アイドルがいて、アニメもあった。

そして、私たいに――特に人生の目標もなく、ただ静かに部屋にこもってアニメを見たり、ゲームをしたり、現実から逃げて生きている人間もいた。


 けれど、ある事故がすべてを終わらせた。

再び目を開けたとき、私はこの世界の「男性」として生きていた。

その感覚はあまりにも現実的で、夢とは思えないほどだった。


 寝返りを打つと、ベッドで丸まって寝ている羽鈴――私の妹が、安心した顔で眠っていた。

彼女はいつも枕を抱いて寝る。まるでそれが宝物かのように。

 もう少しで目を閉じかけたとき、部屋のドアがそっと開き、聞き慣れた足音が近づいてきた。


「……まだ起きてたの?」

それは緒奈――姉の声だった。


手にはホットミルク。だぼっとしたTシャツに短パン姿で、どうやらパソコンから離れてきたばかりのようだ。


「また夜更かし?」

私が訊ねると、


「ちょっと資料を整理してただけだよ」

そう言ってミルクを差し出しながら、ふっと笑う。


「明日から学校でしょ……もう私の出番じゃないかもしれないけど、なんとなくね。ふふ」

緒奈はいつもこんな感じだ。ちょっと天然で、少し抜けてるけど、大事な時にはやた

らと頼りになる。


私はミルクを受け取り、軽くお礼を言うと、彼女は自然な流れでベッドの端に腰を下ろした。


「私の高校初日なんて、校門の前で転んだんだから」

そう言いながら、私の頭を撫でる。

「でも、冥は違う。ずっと落ち着いてたし……きっとうまくやれるよ」


こういう言葉に、私はどう返せばいいのかわからない。

ただ黙ってミルクを飲むだけだった。


すると、羽鈴が目を覚ましたのか、眠そうに目を開けた。

緒奈が私の頭を撫でているのを見て、すぐに眉をひそめる。

「お姉ちゃん、またこっそり来てる……」


小さな声でぶつぶつ言いながら、布団をめくって私の方にぐいっと寄ってくる。 まるで小動物のように、私の腕にぎゅっと抱きついた。


「お兄ちゃん、明日から学校だよね……ちゃんと毎日帰ってきてね。他の女の子を好きになっちゃダメだよ」


「……ただの通学だって。遠出するわけじゃないし」


「そんなの関係ないもん」

さらに腕にしがみついてきて、

「お兄ちゃんが一番かっこいいんだから、私だけが知っていればいいの」


私は苦笑した。何も言わなかった。

彼女は昔からこうで、そして私も……たぶん、それをそこまで拒んでいない。


「羽鈴、冥に寝かせてあげなって――初日だよ」

緒奈が笑いながら言う。でもその声に、怒りはなかった。


「やだ。ここで寝るの。明日の朝も、もっとたくさん抱きつけるし」

緒奈が私の片側に、羽鈴がもう片側に。

ただの入学前夜なのに、まるで遠征前の夜みたいな雰囲気だった。

 

私はこの世界を変えるつもりなんてない。

というか、ある意味では、この世界の恩恵を受けている側でもある。

それでも、ときどきどこかが「違う」と思う瞬間がある。

 

明日から、私の高校生活が始まる。

 ……友達ができれば、いいな。



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