自分探しのゲーム
神浦七床
第1話 雨宿りの教室
「皆さん、帰ったらご両親に全国模試の結果をちゃんと渡してくださいね。では、気をつけて帰ってください」
言い終わって教室を出ていく算数の先生を追い越すように、指定リュックを背負った男子が駆け出していくのを、俺は自分の席に座ったまま見ていた。
夜の九時まで頑張って勉強したんだから早く帰って漫画を読みたい。いつもなら俺もすぐに教室を出るけど、今日はそうはいかなかった。
窓から入り込む雨で少し濡れてしまったプリントを無駄に丁寧に折りたたんでクリアファイルに入れて、いつもならやらないけど教室の窓を閉めた。
外は土砂降りの雨で、たまに車が通るサーッという音が耳に気持ちいい。でも、雨が降っているからこそ、傘を持っていない俺は帰れない。スマホにはお母さんから「あと三十分で着くから宿題して待ってて!」というメッセージが来ていた。いつもお母さんはお兄ちゃんと夜ご飯を食べてから俺を迎えに来る。お兄ちゃんとの話が盛り上がるとお迎えの時間に少し遅れるのはいつものことだった。
雨が降っていなかったら、近くのコンビニまで行って時間を潰せるけど、今日は難しい。「なんで雨の中出るの!」と怒られてしまう。
座って、机の木目についた水滴をなぞって薄くする。
「今日なんで先生がこっち向いてる時に手紙渡してきたの。バレちゃうじゃん」
「でも見られても手紙だって分かんないからいいじゃん。何も書いてないルーズリーフを貸してあげただけに見えるよ」
「もー! 模試の結果良くないのに授業中に遊んでるってバレたらやばいんだから!」
いつも帰りの支度が遅い女子二人も、ふざけあいながら出ていった。
「いずみくんは結果どうだった?」
「全国五十位。偏差値七十。A判定。いつもと同じだよ」
「うおー、さっすがいずみくん」
全然帰る素振りのない教室前方の三人組の視界に入らないよう、俺は俯いてテキストをぺらぺらめくる。宿題はたくさんあったが、疲れている今、やりたい気持ちにはならなかった。
やるべきことはいつもたくさんだ。何を間違ったのか確認して、どうやったら出来るのかを調べて、それを習得する。
「なあ、みっちーはどうだった?」
三人組のひとり、たかみくんが俺を呼んだ。
「……別に、まあまあだよ」
いずみくん、たかみくん、くれきくんの三人はいつもつるんでいる。共通点は、この特進クラスで成績トップ3であること。
そして、自分より頭が悪い人は馬鹿にしていいと思っていること。
「まあまあってどのくらいだ? 見せてみろ」
いずみくんが僕のクリアファイルを取った。取り返す暇もなく、彼は折りたたんだ紙を広げる。
「おいおい、C判定じゃないか。まずいなこれは。俺と一緒に入学できないじゃないか」
いずみくんの口調は心配を装っていたが、顔には嫌な笑いが浮かんでいた。
「……ああ、そうかもね」
こういう時に無視をするのは良くないと学んだ。相手をイラつかせると余計こちらが嫌な目にあう。適当に調子を合わせて、この場をやり過ごすしかない。お母さんのお説教と同じだ。
『どうしてお兄ちゃんはできるのにあなたはできないの!』
お兄ちゃんと俺は別の人間で、俺はそこまで頭が良くないからだと思う。と言ったことはない。
「ほら、ちゃんと結果を見て復習しないと。特に出来てないのは算数だな。植木算、つるかめ算……」
いずみくんは勝手に俺のシャープペンシルを取って、机に出来なかった単元の名前を書き出す。それを俺は黙って見る。
いずみくんはこの校舎で一番頭が良く、全国模試でも良い成績を収めている。皆の宿題を回収する役目も進んで行うから、先生からの評判もいい。そして、ちょっと長めの黒髪と長いまつ毛で、かっこいい服を着ているから、受付のお姉さんにも可愛がられている。
つまり、俺が歯向かってどうにかなる相手ではなかった。無駄なことはしたくない。
「みっちーはこんな変な消しゴ厶ばっか持ってるから集中して勉強できないんだよ」
たかみくんも勝手に俺の筆箱を漁り、車の形の消しゴムを見つけて呆れたように肩をすくめる。好きなものを持ってきて何が悪い。消し味も意外と良いのに。マジックペンの文字は消せなかったけど。別に誰にも迷惑をかけていないんだからいいじゃないか。いつもいずみくんがいなきゃ何も言えないくせに。
「君たち、ちょっとうるさい。集中できないよ」
後ろから声がして、俺は思わず肩を震わせた。昨日まで、ここに座る人はいなかった。横に三列、縦に四列並んだ机のうち、俺は窓際の前から三列目に座っていて、その後ろは空席だった。そこが、今日からの入塾生の席になったんだった。
「なんだよ、新人。どんな環境でも集中しないと受験落ちるぞ」
たかみくんがイライラを隠さずに言った。振り向くと、新入生の彼は宿題を進めていた。今日初めて習った内容と今までの授業で得た知識がないと簡単には解けないはずなのに、算数についてはもうほぼ終わっている。
よく見かけるブランドロゴ付きのシャツを着ていて、アイドルみたいにサラサラした髪をした子だ。テレビの中の子役みたい。
俺を助けてくれたのか。
新入生の彼と目があった。にこりと微笑まれる……わけでなく、彼は冷たい無表情のままつまらなそうにふいと目をそらした。
「このクラスは、頭が良ければなんでもありって感じなの?」
「ああ。ここは頭が良い人のための場所だから」
いずみくんの答えに、新入生はふーんと気だるげに言った後、こう続けた。
「じゃあここは僕のための場所だね。きっと僕の方が賢い」
ふざけた様子は1ミリも見られなかった。彼は本気で言っていた。
いずみくんはぽかんとした顔をし、ゆっくりと真顔になった。
「じゃあ、いずみくんとお前で勝負してみてよ」
坊ちゃん刈りのくれきくんが無邪気な声で提案した。
「勝負ってなんだよ」
「記憶力勝負」
「別に僕はやってもいいよ」
新入生はこともなげに言った。それが気に食わなかったのか、いずみくんも間髪入れずに言い返す。
「俺もやらないとは言っていない」
三人組のうち、一番力を持つのはいずみくんだが、自由奔放なくれきくんのペースに巻き込まれることも多い。今回もそのパターンのようだった。
「みっちー、たかみくん、この教室にある全ての机を隣の空き教室に運んで」
「え、まあいいけど」
この時間、先生達は受付で保護者の対応をしたり会議をしたりしているので、教室の様子を見に来ることは滅多にない。だから、バレて怒られることはないはずだ。
別に俺が協力する必要はないけれど、いずみくんと新入生の勝負には興味があった。このクラスの王様のいずみくんを、この子は負かすことができるかもしれない。それは歴史的な瞬間だ。
それに、どのみち迎えはまだ来ない。お母さんの「あと三十分」は、大体その二倍だ。
空き教室に元あった机を寄せて、十二個の机を運び終わると、いつもの教室のツルッとした灰色の床が広くなったように感じた。椅子を引く時に出来た擦り傷があちらこちらにある。
「教室の外に全ての机を出した。二人には、交代でその机を元あった場所に戻してほしいんだ。題して、机当てゲーム」
ゲーム。その言葉を声には出さず口の中で転がした。携帯ゲーム機は随分前に没収されたきり。どうやってクリアするのか考えるのも、理想の場所を作るために時間をかけるのも楽しかったっけ。お母さんには「ゲームも勉強も、考えたら前に進めるし、ゴールにたどり着く過程は自由だよ」って言われたけど、ゲームの方がずっと楽しいと思う。
四かける三の配列で置かれていた机は、基本的にはずっと同じ場所にあって、同じ生徒が使っている。でも、テキストを含む私物を置いていってはいけない。だから、小学校の机みたいに置き勉の仲間や横にかかっている巾着から誰の机か判断するなんてことはできない。
「元の場所に戻したか、どうやって判断できる?」
俺が問うと、くれきくんが自分のスマホを差し出した。
「机の裏にシールが貼ってあるのを知ってる?」
画面には、机の物を入れる部分を下から撮ったようなアングルの写真が映っていた。机の裏には、クマのシールが貼られている。
「ずっと前におふざけで皆の机に貼ったんだよね。全員違う柄のシール。これを見れば俺は誰の机か判断ができる。みんな気づいてなかったと思うけど」
「いつの間にそんなことしてたんだよ……」
いずみくんは呆れ顔だ。この反応は嘘ではないだろう。つまり、いずみくんを勝たせるために適当なゲームをでっち上げたわけではないということ。
「自分のターンは一分間ってことで。一回のターンあたり運んでいい机の数は、四つにしようか。すぐ終わっちゃったら興ざめだもん。じゃあ、先攻と後攻を決めてね」
くれきくんの仕切りに二人は従い、じゃんけんをした。いずみくんはチョキで、新入生はパー。いずみくんが先攻になった。
これ、大丈夫なんだろうか。新入生がこの教室に入ったのは今日が初めて。特進クラスに入れる優等生でも、なんの特徴もない机を数時間で覚えられるわけがない。数ヶ月いる俺でさえ、自分の机がかろうじて分かるくらいだ。どう考えたって、いずみくんが有利。それなのに、どうしてこの勝負を受けてしまったんだ。俺みたいに流されたわけでもあるまいし。
「おい、これとこれとこれとこれを中に入れてくれ」
廊下のいずみくんが、たかみくんとくれきくんに指示を出す。続けて持ち上げられた机の脚が床と擦れる音がした。俺は手伝う気はさらさらないので、教室の隅にいた。見張った方がいいかなとも思ったけど、彼らは性格が悪いものの、ズルはしないと思うのでやめた。
新入生は残った教卓に座って、表情を変えずに理科のテキストを進めている。光の単元で、可視光と紫外線や赤外線の特徴に関する問題なんかが載っている。
四つの机が教室に運び込まれた。そのひとつひとつを、もとあった場所にいずみくんが動かす。その位置は、いずみくんの席、たかみくんの席、くれきくんの席、そして俺の席。
「まあ、友達の机くらいは覚えている」
いずみくんは得意気に言った。どうせ、子分の机の落書きを覚えていただけだ。俺の机も、落書きをされていたから分かるのは当然だ。シールを確認するまでもない。これで、壁側の一番前、前から三番目と、真ん中の一番前、そして窓側の前から三番目は埋まった。
「次、お前の番だ」
ぱたんとテキストを閉じ、新入生は廊下に出た。あの三人と同じ空間にいるのは嫌だし、机を運ぶ手伝いがいるかもと思ったので、俺も廊下に出た。
新入生は空き教室の隅に置かれた机の脇をいったり来たりしている。
「きみ、みっちーくんだっけ。手伝ってくれる?」
「……いいけど。机の位置、分かるのか?」
「うん」
机の位置が分かる理由を説明してくれるわけではないらしい。新入生が指指した机を、ただ運ぶ。
「みっちー、新入生に教えてズルしてないよな?」
「あはは、ズルしようとしたって、みっちーには分からないでしょ」
いずみくんとくれきくんの言葉に俺は首を横に振る。
「みっちーくん、これも運んで」
廊下から聞こえた声に、いずみくんは真顔になった。
新入生が教室に入れた机は三個。全て窓側の席に置かれた。成績が四番目の気の強い女子の机、電車が好きでいつも外を眺めている男子の机。そして新入生本人の机だった。
「……どうして分かった」
いずみくんは静かに問う。
「雨が降っていて、窓が開いていたから」
新入生は、こともなげに答えた。
確かに、今日は授業中雨が降っていたけど窓は開けっ放しで、机に水滴がついた。窓際の俺のプリントもそれで濡れてしまったんだった。
「机の真横に窓があるわけではないから、後は濡れた場所の位置関係で、窓側の机の順番を確定したんだ。法則を見抜く観察力ってやつだね。授業を聞いていない人は受験に落ちるんじゃないの?」
「法則を見抜く」は、今日の授業で先生が言っていたフレーズだった。たかみくんの顔が歪む。
「ふうん。なかなかやるじゃないか。じゃ、次だ」
くれきくんのチェックが終わるとすぐに、いずみくんは動揺を隠すように廊下に出て行った。慌てて二人もそれに着いていく。
「きみ、すごいんだな。急に勝てない勝負を吹っかけられても冷静で、周りを観察してやり返すなんて」
俺はたまらず新入生に声をかけた。テキストを解く手はそのままに、新入生は首を傾げる。
「教わったことを活かしただけだよ。こんなこと、誰だってできる」
「少なくとも、俺にはできない」
「じゃあ、そうしようという気持ちが足りないのかもね。僕なら、自分より劣った人間が偉ぶってる状況なんていち早く改善したいから」
棘のある物言いにびくりとする。優等生らしい見た目と丁寧な言葉使いなのに、内容はきつい。お母さんみたいだ。
「なろうと思えば、そうなれるのか?」
「さあ。思わないよりはなれるんじゃない」
何かになりたいと思ったことがなかった。ああなれ、こうなれと言われた指示に従うだけ。従ったから何か良くなったかと言われると、よく分からないけど。
机が二つ運ばれた。いずみくんの後ろの席、つまり廊下側の前から二番目と、その斜め左後ろに置かれた。ここに座っていたのは大人しい女子と、他のクラスにいる兄弟とつるんでいる男子だったか。いずみくんとは特に仲良くないはずだ。
「俺だって、本気を出せば、木目からこのくらい当てられる」
いずみくんは自慢げに言った。新入生が驚くのを期待しているようだった。実際これはすごいことだ。机の木目なんて、誰も意識しない。こんなの覚えるなら、公式のひとつを覚えるべきだ。それなのに、いずみくんは木目を思い出した!
彼は性格に難があるけれど、頭が良いのは本当だ。全員の宿題を集めて提出するようなリーダーシップだって持っている。そして、その性格の歪さを俺は責められない。
これ以上、新入生に何ができるだろう。彼を上回る瞬間記憶能力があるなら、雨なんかに頼らずに最初から大量正解できたはずだ。
「さっすがいずみくん」
「いずみくん、やるねー」
いずみくんが当てたのは六個。新入生が当てたのは三個。残りの机は三つ。まぐれでも当たる可能性はゼロではない。でも、そんなの無理だ。良くて引き分け、負ける方が確率が高い。
それなのに。
「残り三つか。ありがとう」
新入生は顔色ひとつ変えずにこう言った。
いや、ひとつだけ変わっていた。
その口元に、不敵な笑みが浮かんでいた。
彼は、そのまま廊下に出た。
「何か、策があるのか?」
「ああ。これには、きみの助けがいりそうだ」
先程まで皮肉っぽく無愛想だった彼が、俺に頼み事?
俺は要件を問う。
それは、とても簡単なことだった。
新入生と俺は三つの机を教室に運んだ。それを見るや否や、いずみくんの表情が曇った。ひとつずつ、新入生が机を並べていく。最後のひとつに手をかけたタイミングで、
「お前に分かるわけがない!」
いずみくんが叫んだ。自慢げな仮面は剥がれていた。俺に向ける馬鹿にしたような笑みもなかった。先程正解したばかりなのに、苦しみ懇願するような顔。
「今なら、降参してもいい。許す」
感情の乱れを隠すように、ゆっくりと言い聞かすも、もう遅い。たかみくんは不安そうにいずみくんを見ていた。くれきくんは楽しそうに笑っている。ボスの揺れが子分に伝わる。
俺にはいずみくんの気持ちが分かる。俺たちには勉強しかない。いつも記憶力が全ての戦いをしている。自己を承認できる唯一の手段である記憶力が、初めて会った奴に負けたら?
『お兄ちゃんより全然出来ないんだね』
負けたら?
「全てあってる。引き分けだね」
くれきくんが小さく告げた。いずみくんが拳を握りしめ、俯いた。そして、何かに気づいたように新入生に近寄った。
「わ、なんだよ」
新入生の右手をいずみくんは両手で掴んだ。新入生の手に握られていたのは、キャップが妙に大きい小さなペンだった。
「これ、ブラックライトペンか」
いずみくんは勝手にペンを奪い、キャップについたボタンを押した状態で、並べた机の上にかざした。
「めぐみ」という文字が浮かんだ。それは、この机の持ち主の名前だった。もう一つの机には「さき」、三つ目の机には「しょうこ」と書かれていた。
「あいつら、ブラックライトペンで書いた手紙を授業中に回していたもんな」
納得したように、落ち着いた声音でいずみくんは言った。新入生が記憶力ではない方法で回答したことに安堵しているようだった。
「こんな玩具を持っているとは思わなかった」
「みっちーくんに借りたんだ。面白消しゴムを持っているなら、こういうのも持っているんじゃないかと。木目だけじゃ自信がなかったから助かった」
顔が引きつったいずみくんからブラックライトペンを奪い返し、筆箱にしまった。
「それに、これは引き分けではない」
「は?」
全員が訝しげな顔をした。机は十二個あって、六個ずつ当てたのだ。これが引き分けじゃないなんてことあるのか。
「くれきくん。きみは最初のいずみくんのターンに、机の裏に貼られたシールを確認しなかったな」
「あ……」
明確な落書きがあったから、確認のステップはなんとなくスキップされていた。くれきくんも意図してそうしたわけではなかったらしい。すぐに、確認を始めた。
「みっちーの机に、シールがない」
「……みっちーが剥がしたのか?」
いずみくんが戸惑いを含んだ声で問う。俺は首を横に振る。
剥がしていない。でも、シールがないことに心当たりはあった。
いずみくんは俺が嘘をついていると思ったようで、青白い顔をしてゆらゆらと近づいてきた。俺は後ずさる。そして、窓に背中が当たる。
ズボンのポケットに両手を突っ込まれ、ハンカチとティッシュを引っ張り出された。
「……ない」
手を掴まれ、爪の当たりをじろじろと見られる。シールを剥がしたなら粘着質なカスが残っていると思ったのだろう。
「……違うのか」
「これが証拠だよ」
いつの間にか教室の外に出ていた新入生が、新たな机を運び入れていた。
ああ。そんなことまできみは分かるのか。
「なんだこれ!?」
いずみくんは目を丸くして机の上を見た。見なくても分かる。そこには、油性ペンで「バカ」や「アホ」と書かれている。くれきくんが机の下を覗き込み、言った。
「これは、みっちーの机だ」
そうだ。一週間前に俺の机に油性ペンで落書きがされていた。俺は消しゴムでそれを消そうとしたが、できなかった。だから、空き教室の机と自分の机を交換したのだ。
先生に言えばよかったのか。
親に言えばよかったのか。
自分の出来が悪いのは事実なのに?
「これはやりすぎだろう! 一体誰がこんなことを!」
いずみくんは目の前の悪意に恐れおののいているように見えた。それは意外に思えたが、考えてみれば、いずみくんはいつも鉛筆で俺の苦手な単元をメモするくらいしかしなかった。こんな、不可逆的なことを、彼はしなかった。
「お前か。たかみ」
たかみくんは顔を真っ赤にしてうつむいていた。
「……そうだよ。だって、いつもいずみくんはみっちーをバカにしてたじゃないか」
「……でも、これはダメだろう」
いずみくんの中では明確なラインがあったのだ。俺が嫌がっているかどうかで決まるものではないだろうが、完全に善悪が分かっていないわけではなかった。彼は、プレッシャーでぐちゃぐちゃになっていて、それを俺で解消していただけなのだ。別に、俺に悪意を持っているわけではないと分かっていた。俺と同じ苦しみを抱えているだろう彼に、俺は嫌だと言えなかった。
「なんで喜ばないんだよ。いずみくん」
でも、こいつにそれは分かっていなかったらしい。たかみくんは呆然とした様子でいずみくんを見た。拒絶の色を感じたのか、今度はくれきくんを見るも、くれきくんは首を横に振った。たかみくんは、最後まで俺のことは見なかった。
「他人がバカにしているから自分もバカにしていい、なんてことはない」
新入生はきっぱりと言い切った。
まるで、正義の味方のようだった。
「これで終わりだ。シールが貼ってある机を見つけたのは、いずみくんが五個で僕が七個。やっぱり僕の方が賢かったね。受験も思ったより楽そうだな。いい予習になったよ」
そして、新入生は何事もなかったかのようにテキストを片付け始めた。いずみくんは何も言い返せず黙りこくり、たかみくんは荷物を持って教室を走り去った。くれきくんは、いつも通り「ばいばい」と言っていなくなった。
外は雨が止んでいた。
「ありがとう」
油性ペンで落書きされた机を空き教室に戻してから自分の教室に戻ると、ちょうど出ていこうとした新入生と鉢合わせた。俺の口からは、自然とお礼の言葉がこぼれた。
「こっちこそ、ありがとう。雨宿りの良い暇つぶしだったよ」
どうして俺を助けた側がお礼を言うんだろう。首を傾げるも、彼はもう俺を見ておらず、カバンを持って教室の外に出るところだった。そして、これが彼をこの教室で見た最後になった。
あれから彼は、グループ指導から個別指導に切り替えたようだ。あまりにこのクラスのレベルが低いと思ったのかもしれない。観察力と吸収力に優れた彼は、自分のペースで勉強できる環境の方が相応しい。たまに自習室で見かけたり、塾内テストのランキング一位に名前を見つけたりすることがあったけれど、会話をする機会はなかった。今から思えば、彼の攻略法は偶然に頼りきっていて、頭脳戦とは程遠いものだった。それは当然だ。僕らはギャンブル漫画とか頭脳戦の登場人物ではなく、普通の子供なんだから。それでも、運を味方につけて、怯えを見せずに最後まで戦い抜いたのは事実で、憧れを抱くにはそれで十分だった。
いずみくん達三人組は、あの日から行動を共にしなくなった。いずみくんは一位のままだったけれど、たかみくんはいつの間にか下のクラスに落ちて、くれきくんは家庭教師を雇うと言って塾をやめてしまった。一方の俺は、クラスで真ん中より上の成績を安定して取れるようになっていた。いずみくんに指摘された弱点を克服するとともに、問題を観察するコツが分かってきたのだ。たまに、いずみくんとすれ違うことがあったけれど、彼は一度だけ「ごめん」と言って以来、気まずそうに目を逸らすだけだった。
三月になった。受験は終わり、俺はいつも第一志望と書いていたものとは違う私立の中学校に合格した。お父さんの転勤が決まったから、志望校を関西の学校に変える必要があったのだ。お母さんは当然という顔をしながらも、関西で一番の名門と呼ばれる中学校に俺が合格したことを喜んでいた。
お菓子の箱を持たされ、塾の先生にお礼を言いに久しぶりに校舎を訪れた。受付には桜を象ったピンクの紙がたくさん貼られていた。そこには、名前と合格した中学校が書かれている。見慣れた名前も、個別指導に通っていたらしい知らない名前もある。名門中高一貫校の合格者として、彼の名前が掲示されているのを見つけた。彼にとって、中学受験はきっと簡単だったのだろう。
小学校のどんな友達とも違う、毅然とした言動と優れた観察力。言われるがままに過ごすだけの俺には到底なれっこない、正義の味方。
初めて見つけた、なりたい目標。
俺も、いつかあんな風になれる日が来るだろうか。誰かと戦っても自分らしく勝てる、彼のように。そのためには、まず自分らしさを見つけないといけないんだけど。結局、俺はテストの点数だけで判断されるままだ。
小学校の友達と違う中学校に進学する寂しさとは違う、どこかに穴が空いたような寒々しさを感じた。
俺はもうレールの上に乗ってしまっていて、彼と人生が交わることがない。電車の窓を流れる景色を惜しむようなこの気持ちを、何と言うのだろう。受験勉強では教わった記憶がなかった。
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