共鳴圏外
亜是瑠
第1章『裂け目の呼び声』
第1話『命名士』
名は、言葉ではない。
胸の奥でざわめく。だが、声に出す前に押し込められた名前は、沈むように深く構造の底へと潜っていく。
言葉は浮かぶ。空に、網に、誰かの意識に。
けれど、名は沈む。
それでも、消えはしない。
──その違いを、ルカ=イルマは最初に〈語核〉へ触れたときに知った。
──《命名儀式ライブ・第412断層区》──
ここは言語定義によって構成された世界だ。
重層的に絡み合う構文層は都市全域を覆い、絶えず書き換わりながらも、都市の“かたち”を保っている。
巡律車の一室。命名接続域へ向かう車両内で、二人の姿が向かい合っていた。
「緊張してる?」
軽口のモード全開、白石が挑発するように声をかける。白い補佐服の上着は着崩し気味で、掌のデバイスにルカの識印波形を映し出している。
ルカは少しだけ口角を動かした。
短めの黒髪が首の動きに合わせて揺れ、耳元の銀色の識印イヤリングが光を反射する。灰色がかった瞳は冷静を装うが、わずかな緊張が表面を揺らす。背は高くないが、どこか芯の通った立ち姿だ。
「してない。たぶん」
窓の外を見つめながら答える。胸のあたりに小さなざわめきが走る。
「ほら見ろ、波形も安定してる。君は動じないタイプって分かってるよ」
「じゃあ、余計な確認はやめて」
「おいおい、俺は“監察補佐官”だぞ? 警戒と口出しが仕事」
「なら応援も仕事に入れて」
「それ、マニュアルのどこに書いてある?」
「心のページに」
白石は吹き出した。
その笑い声は、律波の震えと絡み合い、どこか心地よい。
だがルカの指先は冷たくなっていく。命名接続の瞬間が近づくにつれ、深い闇に潜る予感が血の温度を下げた。
車窓の外では都市の構文が絶えず書き換わっていく。律波に合わせて車体が微かに震え、通過のたびに都市の定義が微細に変化する。
壁も標識も、服の裾にまで定義の痕跡が滲んでいる。だが──都市の全てが語で覆われているわけではない。
どこかに、まだ“名のない裂け目”がある。
観測律層──都市中枢に近い、密度の高い制御空間。
巡律車はそこで静かに停車し、一つの構文区画に接続された。
降り立った瞬間、空気が変わる。
乾いた金属臭と、焦げた構文接続の匂いが鼻を刺す。
視界は階層型識域フィルターに覆われ、意味の“ブロックノイズ”がぼやかされていく。
「やっぱこの匂い、苦手だな」
軽口モードの白石が鼻をしかめて言う。
「焦げた配線みたいっていうか、焼きすぎたトーストっていうか」
「どっちにしても食べたくない匂いね」
ルカは淡々と返したが、その声にわずかな硬さが混じる。
「ちなみにこれ、配信されてるから。#識域LIVE412」
「……やめてよ」
「コメント欄、八割は冷やかし。あとは観測勢」
《視聴者コメントログ:#識域LIVE412》
💬 [sig_trace]:「お、映った。波形ちょい揺れてない?」
💬 [core_eye]:「開始直前、緊張パターン入りそう」
💬 [lex_null]:「ルカ初動、やっぱ静かだな」
空間中央には巨大な律面ホログラムが展開されている。
中継映像──断層区412。構文層が崩れかけ、未定義語が現れた地点だ。
波形は言葉ではない。意味より前の、骨格のようなゆらぎと位相の連なり。
そこに、不安定な語核が眠っていた。
「……起きかけてるな」
白石の声が急に低くなる。
軽口モードは消え、監察補佐官としての真剣な口調に切り替わった。
ルカは頷いた。胸の奥が締め付けられるようにざわつく。
「今日、名を与える。逃げられない」
《視聴者コメントログ:#識域LIVE412》
💬 [ftl_rnd]:「ゼロルカ、行け!」
💬 [root_drift]:「律面安定してる、集中モード入ったな」
💬 [trn_sic28]:「呼吸も波形も、完璧に見える」
💬 [mya_emot]:「正直、鳥肌が止まらん…」
💬 [echo_soul]:「全員、集中しろ!」
《命名接続域・内部》
球体状の語核盤が宙に浮かんでいた。
「準備完了。いつでもどうぞ、命名士さま」
白石の声はさらに厳しく、支えとなる決意を含んでいる。
「監視はきっちりね」
「お前が壊れないように口を出すのが俺の役目だ」
「名付けるのは私、邪魔は白石」
「補佐、って言ってくれると助かる」
「意味は同じだ」
ふたりの間に敬称や命令はなく、役割がすべてを語るこの世界で自然な距離感だった。
ルカはゆっくり語核盤に歩み寄り、掌を静かに伸ばす。
触れた瞬間、空間に構文波が広がり、律網が振動した。
語核盤は触れた者の識印波形を吸収し、言語操作を〈語律環〉の空間投影へと展開する。
手の動きに連動して〈語素流〉が糸のように細く光の粒となって漂い、律網の多層構文が立体的に絡み合っていく。
操作者は空間内〈語織域〉にて多次元的な言語構造を紡ぎ、未定義〈語核〉を織り上げていく。
──ルカ。
命名士としては異例の若さで現役に就いた少女。
識域との同期率は歴代トップクラス。
彼女の識印は都市構造の制御環層に深く結びついている。
***
《白石視点ログ|命名士監察補佐官より》
補佐席に座る白石は識印モニタを凝視していた。
ルカの波形は“常域”ではない挙動を示していた。
識域同期が異常に滑らかで、まるで底層を覗き込んでいるようだった。
額に汗をにじませる。
都市構文の裏側──“未定義層”への接続が発生しかけていることを認識した。
理論上は可能だが、禁則に近い行為だ。
《視聴者コメントログ:#識域LIVE412》
💬 [lzn_delta]:「第3位相、突入確認」
💬 [core_watch]:「未定義語核の収束パターン出てる」
💬 [sig_trace]:「残同調率、あと4%……間に合うか」
***
「構文安定域へ移行。命名階梯第二相、発動」
白石の声は完全にマジモードだ。
「語律圏、同期。命名詞、構成可能です」
浮遊幕に語素群が展開され、ルカは構文的に応答する要素を選び、編み込んでいく。
語が編まれ、核へ沈んでゆく。
その手つきに迷いはない。
まるで語が彼女に名乗っているかのようだった。
「ここは……“裂動”か」
語素群の中に動きを感じ取る。
裂けて動く、破壊と再生の象徴のような語根。
「“捕食”……断層因子を伴う複合構文」
識印に都市を揺るがす痕跡が浮かぶが、彼女は手慣れた作業のようにそれを扱った。
空気が張り詰める。
***
時間はゆっくりと流れる。
言葉一つ一つを選び、語核盤空間に織り込んでいく。
白石が低く、しかし明瞭に口を開く。
「ルカ、この構文は過去例なし。倫理委通報が必要かも」
ルカはわずかに視線を上げ、短く答えた。
「わかってる。だがこれは逃げられない。構文は乱れているが、必ず名が必要」
緊張が空間を満たす。
命名士と補佐官、律網管制官が一体となり、都市の秩序を守ろうとしていた。
語核盤が震え、識印波形と同期が強化される。
「名を刻む。識印接続確定……!」
ルカの声が律網全体に響く。
「──《
構文が固定され、語核が沈む。
律網に新たな構造定義が刻まれた。
《視聴者コメントログ:#識域LIVE412》
💬 [sub_orb]:「おお…固定入った」
💬 [trn_sic28]:「逆順波、今回は残留なし」
💬 [ftl_rnd]:「やっぱゼロルカだわ」
***
《都市構文層・低層律網モニタリングログ》
[識域波応答ログ #412.8802-B]
稼働:基層語律環「壱相」「参相」間にて歪曲信号
検出:語律照応率 Δ-0.0047(偏差大)
層間補正処理:失敗(律圏固定域に“命名未登録語”混入)
注記:「語核が語源でない可能性あり」
*要・倫理委通報:構文倫理判定B-7
***
『非公開記録抄:ルカ=イルマ|識印覚書』
名が届かぬ場所がある。
けれどそれでも、名は浮かぶ。
誰も知らぬ名前が誰かの奥底で鳴っている気がする。
──それはまだ、彼女しか知らない名だった。
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