★二〇一一年九月十一日(日曜日)

 その日の仕事が終わり、渉は佐希の店を再び訪れた。しかし、この日は今までとは違った。通りの反対側からこっそり店の中の様子を見張り、佐希が配達のために出かけていなくなるタイミングを伺った。

 店の横の路地から佐希が運転するバンが出ていくのを確認すると、渉は店の入り口に立った。

 店の中で田中が花の水を交換していた。店内の照明で浮かび上がり近づく渉の影に気づき、振り返る。

「いらっしゃいませ……あら」

「あの、すみません」

「ああっ。彼女でしたら、配達に出かけましたよ」

 田中は顔を合わせずに少しあわてた口調で告げた。やはり佐希は、渉が訪ねてくることを警戒していたのだろう。やっぱり無理だ。渉はそのままうずくまりたくなるような絶望を予感した。いや、わからない。ここはわからないことにしなければ。どうせだめでも言うことを言ってからにしよう。自らを奮い立たせた。

「はい。それでいいんです」

「えっ?」

 ゆっくりと立ち上がり、やや硬い表情で渉を見た。

「すみません。どうしても田中さんにお願いしたいことがあって伺いました。お話を聞いていただけませんか?」

「私ですか……じゃ、立って話すのもなんですから、こちらにどうぞ」

 田中に促され、店の奥の応接スペースに腰をかけた。客はまばらだった。

「佐希さんと話し合うチャンスが、たった一度だけでもいいからどうしても欲しいって言う人がいるんです。その人は中学校では佐希さんの同級生だったんです。ずっと仲がよかったんですが……」

 続けるべきか一瞬迷った。qtbの話は確かに嘘ではないだろう。しかし、渉は「彼女」にはまだ一度も直接会ったことがない。

「あるきっかけでその人は佐希さんからいじめを受けてしまいました。最近、ラジオで佐希さんのことを知って、どうしても再会したくなったんです。佐希さんのブログに何度も書き込みをして佐希さんの返事を待っていたんですが、佐希さんはブログを閉じてしまいました。偶然、僕はその人と知り合い、何とかしてその人の助けになりたいと思ったんです。その人は確かにいじめを受けましたが、佐希さんを恨んではいません。何とか仲直りできるように、僕とその人と佐希さんの三人で話し合いができるよう、取りはからって頂けないでしょうか。どうかお願いします」

 そこまで言って渉は深々と頭を下げた。田中はゆっくりうなずきながら聞いていた。

「でも……なぜその二人のことにあなたが?」

「ハッ!」

 勢いよく言葉をつなげた割には、自分の事情を全く口にしていなかったことに渉は改めて気づいた。

「それは……」

 言い澱みながらも渉自身と佐希とのできごとを話そうとしたところで、渉には田中が笑いをこらえているように見えた。田中の渉への視線からは、渉がこれから話そうとすることを既に大方理解しているようにも見えた。

 わずか一、二秒の沈黙さりげなく埋めるように田中が口を開いた。

「ええ、おっしゃりたいことはよく分かります。だけどね、もちろん彼女なりの考えもあるから、私がこうしてって言えば必ずしもその通りというわけにはいかないと思いますよ……」

「彼女は仕事が毎日楽しいって言っていました。僕も、ここに来て本当によく分かったんです。休みだって取るのは大変だし、早起きして重たいものだって運ばなきゃならない。冬は寒いし夏は暑い。それでも彼女、辛いって思ったことなんて全然ないって僕に言ったんです」

「あらあら、この仕事だって大変なのは確かだけど、そんなに言うほど酷くないですからね、これでも」

 田中の表情から笑みがこぼれた。渉は胸をなで下ろしたが顔には出さなかった。

「彼女、負けず嫌いな所があるから、時々私と言い争いになっちゃうこともあるんですよ。だけど、そんな風に言ってたんだ。よかった。安心したわ」

「彼女が仕事を楽しく頑張っていられるのは田中さんのおかげだと思います。別に彼女が直接そう言ったわけじゃないんです。だけど、少なくとも僕にはそう感じます」

「まあ、そんな」

 大げさではないが喜びを隠さず、謙遜もし過ぎない。さらっと短い受け答えに、褒められ慣れている田中の姿を渉は感じ取った。

「だから、田中さんからお願いして頂ければ、彼女もきっと、僕たちの話を聞いてくれるんじゃないかと思うんです。どうか……お願いします」

「まあ……そんなに言うなら……」

 田中がわざともったいぶっていることに気づかないまま、渉は畳みかけた。

「本当にいいんですか?」

「うーん……うん。わかりました。大丈夫、心配しないで。まだ若いんだから、悔いのないようにちゃんと話し合って下さいね」

「ありがとうございます!」

 渉は立ち上がって深々とおじぎをした。頭を下げた時、目の前にはニスで磨かれた床の木目が、赤茶色の控えめなツヤを放っていた。その意外な鮮やかさが思いがけず渉の脳裏に焼き付いていた。

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