★二〇一一年七月二十八日(木曜日)
前日とはうって替わって抜けるような青空だった。渉が立つ路地では、昨日までの雨で濡れた路面のアスファルトがじりじりと太陽の光にあぶられ、静かに熱を放出しながら輝いていた。路地の先はけやき通りと交わり、左に曲がれば佐希の働く花屋だった。
その手前で、佐希は両手に鉛色のバケツを持ったまま左を向いて立っていた。渉は歩みを速めた。歩く度に靴の先からはわずか数粒の水滴が正面に飛び散る。
佐希は彼女が立つ正面にバケツを置いた。前かがみになって目の前の花々を触り、その並びを整えた。渉は歩き続けた。声を出して呼び止めようとしたが、口を開けたところでやめた。佐希のことを何と呼んだらいいか決められなかった。道を挟む建物の影が移り、アスファルトのわずかな窪みにたまった雨水が太陽の光を渉に向けて返した。
渉は目を細めながら佐希に近づいた。まるで、まぶしいのは佐希であるかのように。
「元気にしてる?」
まぶしさのせいで、佐希が振り向いたことに渉は気づかなかった。佐希の声でやっと気づいた。
「うん。仕事忙しい?」
佐希の前で並んでいた花の一本が地蔵の頭に寄りかかった。佐希は立てかけて元の位置に戻すと渉の方に向き合った。
「忙しいよー。こないだ、来てくれたんだよね。あのサボテンは元気にしてる?」
あの時、佐希が渉に気づいていたことは渉にとって予想外だった。
「うん。家の中でも特に日当たりのいい場所に置いてあるよ」
「あの時、すごい忙しくて、あいさつもしなくてごめんねー」
渉が気づかない間に、佐希の中に渉が映っていた。渉は、佐希の中の渉を想像した。
「ううん、全然。こうやってすぐ来れるし。全然大丈夫。……お地蔵さんに花をお供えしてるの?」
ふと、佐希が渉の手を取った。佐希に引かれて二人は道の端に寄った。渉の背後から車が通り過ぎた。
「そう。このお地蔵さんにはちゃんとお花をお供えしてあげなきゃなんないの」
「お供えの花にしてはいろんな種類があるし、派手だね」
「その方がいいのー。なんでかっていうと……」
佐希は、地蔵に花を供えることになったいきさつを話し始めた。
「あたしが働いてるお店、田中生花店って、昭和の始め頃からお店が出来て、それからずーっと続いてるの。それでね、何十年か前の話らしいんだけど、とある男の人がうちで花束を買ったの。その人にはとても好きな女の人がいたから、ここに呼んで告白したの。花束を渡して。だけどー、その女の人には婚約者がいたから、男の人は振られちゃったのね。女の人は花束を受け取ってくれたらしいんだけど、その次の日? 男の人はここを通ったの。そしたら花束があったの。お地蔵さんに供えられていたお花はみんな、男の人が買った花だったの。それがよほどのショックだったのか頭に来たのか、それから男の人は女の人にしつこくつきまとうようになっちゃって、あんまりひどいもんだから警察に捕まったの」
「え? 逮捕? ストーカー?」
「逮捕までされたのかどうかはわかんないけど、警察沙汰になったのは本当だよ。ずっと昔、交番の人がうちの店に来て教えてくれたの。そういえば、おたくの店で花を買った男が……みたいな。それでね、もうそういう気の毒な出来事は起きないようにってことで、最初からお地蔵さんの周りに花をいっぱい飾っとけばいいんじゃないかってことになったの」
渉は地蔵を見た。これだけたくさんいろんな花が供えられていたら、もらった花をさらにこの中に加えてもわからないだろう。
「そっか、それが何年も続いてるんだ……」
地蔵の周りを埋め尽くす花々を眺めながらつぶやいた。
「そうなの。そういう言い伝えがね、ここ最近はちょっと違うの。ここで告白して成功したカップルは結婚できるってゆーことになっちゃってるの」
「てゆーこと?」
「なんだって! こないだお店に新婚さんの夫婦が来てね、ここで告白してつき合い始めて、先月ついに結婚しましたって言うの。ありがとうございますとか言われちゃったよ」
「すごいね。言い伝えはかなり広まってるかもしれないよ」
昨日同じ場所で傘をさして向かい合っていた男女を渉は思い出した。
佐希は腕時計を見ると、置いてあった二つのバケツを両手で持ち上げた。
「あ、そろそろお店戻らないと」
両方のバケツの中にはまだ水が半分残っていた。
「ね、お店の中もよかったら見てって?」
渉は佐希の背後に目をやった。通りの角から田中がちらっと顔を覗かせ、一瞬微笑んだのが見えた。
「あ、ああ。ごめんね。僕もそろそろ行かなきゃなんないから、またにするよ。また来るからさ」
「そう。じゃ、またね」
「うん」
「サボテン、何かわかんないこととかあったら言ってね!」
「ありがとう」
佐希は店に戻って行った。渉は来た道を引き返そうとしたが、佐希が通りの角を曲がったのを確かめると、地蔵に歩み寄った。しゃがみ込み、地蔵と同じ目線で同じ方を向いた。昨日ここにいた男女の姿を思い浮かべると、男の言葉が口をついて出た。
「俺、もっと人に優しくなれるんじゃないかって思えて……」
それを自分の言葉にすることができるだろうか。渉はそのまましばらく考えていた。
ピーッ!
路地の奥から黒いワンボックスカーがクラクションを鳴らしながら迫ってきた。渉はあわてて立ち上がり、道の隅に体を寄せた。
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