この果てしなき瓶詰めの世界
季都英司
世界に閉じ込められている
――ああ、世界に閉じ込められているよう。
地下鉄の改札を抜け、狭い地下通路を通り、さらに狭い階段を亡者のように登りながら私はそんなことを思った。
実際どこに自由が、そして解放があるだろう。
1DKの狭い部屋で目覚め、行動の選択の自由も無く会社に向かい、一日中牢獄のようなビルの中で、ろくに空を拝むこともせずに仕事に明け暮れ、そして終業後には朝と逆のルートをたどりただ帰宅する。それだけの毎日。
私の人生は、空間的にも精神的にも逃げ場の無い、閉ざされた世界で繰り広げられるつまらないショーみたいだった。
地下鉄の階段を上がり駅前に出る。ここから自宅に向かうには、アーケードの商店街と住宅街を抜けてしばらく歩くことになる。
今日も店の灯りが消えた商店街をとぼとぼと歩く。暗いアーケードにも慣れたものだ。いつもと変わらない道、いつもと変わらない夜。
そんなときふと、目の端にいつもと違う景色を捉えたような気がして、通り過ぎかけた左側に目を向ける。
「……こんなのあったっけ」
そこには小さな店があった。こんな時間なのに、まだ灯りがついているようだ。
古そうな木造の建物で、重そうな木の扉には真鍮製の取っ手があり、ランタンのような灯りが扉の上方左右についていた。今どきLEDではなく本当の火が燃えているようだ。暗い炎の灯りが揺れ、どことなくアンティークショップのような風情が漂う。
数え切れないくらいこの道を通ったが、こんな店があった記憶は無い。
近づいてガラス窓から店の中をのぞく。
全ての壁に店の高さいっぱいの棚が並んでいて、その棚の中には色とりどりのガラス瓶が所狭しと並んでいた。それがなんなのか灯りが暗くてよくわからない。だけどこの光景がなぜかとても魅力的に映った。
……少しだけ迷った。
残業終わりの深夜近く。できれば早く帰って休みたい。そのはずなのに、どうしても私はこの店に入りたくなっていた。
この閉じた世界の抜け道がそこにあるような、そんな気がした。
私はなにかに誘われるように取っ手をつかみ扉を開けた。
カラン、ガラン。そんな大きな音がして、私はびくりと身を縮める。扉についたベルだと気づく。おそるおそる中に入りきしむ扉を閉めた。
「綺麗……」
私はその景色に呆然となった。棚に置かれたガラス瓶の中には様々な景色が閉じ込められていた。ある瓶には海のような色の液体に浸かった魚や貝が、またある瓶には森のような木々とかわいらしい動物たちがいた。中身も大きさも様々。それが狭い店とは言え棚中に並べられていた。
まるで万華鏡の中に飛び込んだように私は感じられた。どれも素敵なものばかりだったが、手に取るのがなんとなく怖くて、少し離れてあれこれ眺める。
私はどれくらい店の中を見ていたのだろう。
「いらっしゃい、客かい?」
そんな声がするまで、私は人がいたことにも気づけなかった。店なのだから店員がいるのは当然のことなのに。
その店員はおそらく女性だろう風体だ。けれどまるでおとぎ話の魔女が着るローブのような長い丈の服を身にまとっている。目深にフードをかぶっていて、年齢不詳な雰囲気を醸し出していた。
「……あ、すみません。この作品たちがすごく気になって。あの、ここ、お店ですよね?」
「ああ、そうだよ。あたしは一応ここの店長さ」
「ここって、なんのお店なんですか? どれも素敵で感動しちゃいました」
「ここは世界の瓶詰めを売る店さ」
「世界の、瓶詰め……?」
聞いたことの無い言葉だった。
「そう。そこの瓶にはすべて世界が詰め込まれているんだよ」
「は、はあ、世界ですか……」
店主の言葉がまったく理解できていなかった。
「まあ、一つ手に取ってごらん。どれでもいい」
「は、はい、えっと……」
そう言いながら私は手近の棚から一つの瓶を手に取った。手のひらサイズの瓶からはひんやりとした感触が伝わってくる。中には白いふわりとした雪が一面積もっている。その雪の光景の中に小さな小屋、そしてその小屋の入り口の前には雪だるまが置かれている。一見してスノードームのよう。
「素敵ですね。でも、これが何か?」
「よく中を見ていてごらん」
店主の言葉に、私は瓶の中を眺める。優しい景色だ。雪に囲まれた小屋と降り注ぐ雪が、どこか暖かくて……。
「あれ? 雪が降ってる?」
瓶の中の景色には、まるで本物の雪のように粉雪が降り注いでいた。いや、しかしこれくらいならよくできたスノードームにもあることか。
「もう少し見ててごらん、そろそろだ」
その言葉にまた瓶に視線を戻す。小屋の辺りで何か動いたような気がして、瓶の中に目をこらす。そして違和感の正体に私は気づく。小屋の扉が開いているのだ。さっきまでは確かに閉まっていたのに。そして、
「だれかでてきた!」
つい大きな声を出してしまう。扉から出てきたのは小さな男の子だった。寒さに耐えるためか厚着をして毛糸の帽子をかぶり、手にはスコップのようなものを持っている。しばらく見ていると、小屋にかけられたはしごをつたい男の子は屋根に登った。どうやら雪かきをしているようだ。
「すごい、動いてますね! これ、どんな仕掛けですか!?」
「仕掛けなんてありゃしないよ。さっきいったろ。この瓶詰めには世界が詰まってるって」
「世界が……? どういうことですか?」
「どうもこうもそのままだよ。その瓶の中には別の世界があるんだ。そりゃ生きものだっているし世界の法則に従って動きもする。それを瓶に閉じ込めて楽しむのがこの世界の瓶詰めなのさ」
「この中に、別の世界が……」
私ははっとして、さっき見ていた棚を振り返る。森の景色の瓶を手に取り中をのぞき込むと木々が風に揺れていた。それに樹の上には小鳥が枝に止まりさえずっていて、少し見ていると羽ばたき飛び去っていった。木々の隙間には狐らしき獣もいる。
もう一つの瓶を手に取る。海の景色の瓶に思った通り魚が泳いでいた。それに通りすがったのは人魚だろうか。どうなっているのだろうか? 頭の中を疑問たちがラッシュ時間の駅のように通り過ぎていく。
「どうだい、世界の瓶詰めは?」
店主が面白がっているような口調で訊ねてくる。
「はい、とても面白いですが、これ一体どうやって……?」
「まあ、企業秘密だがね。そんな仕組みなんてどうだっていいだろう。自分に関係ない世界を外側から眺め、ただ無責任に楽しむ。それが醍醐味さ」
目の前の不思議な現象に頭が追いつかなかったが、それでもわかったことがあった。
「映画やゲームじゃない、つくりものじゃなくて本当の世界をただ外から眺めることがこんなに面白いなんて……」
私は棚に並べられた無数の瓶を見回す。この中にそれぞれの世界があると言うのか? それを眺めることができるっていうこと? それはまるで……。
「神様みたいだろう」
「はい……」
心を読まれたかのようだった。この世界の瓶詰めはまさに神の視点だ。被造物を眺める超常の存在の楽しみ方だ。
「で、どうする? どれか買っていくかい?」
「これ、買えるんですか?」
驚いて訊ねる。だって、この中には世界があって、どれもとても素敵で、自分の手の中になんて納めて良い物ではないように思えた。
「当たり前だろう。ここは店だよ。気に入ったのがあったら買っていきな」
店主はそれきり説明が面倒になったようで、椅子に座って本を読み始めた。
私は、店の中の瓶詰めたちを見る。どうするかだって? そんなのは決まっていた。
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