第13話「魔界の春を夢見て」
それは、ほんの小さな変化だった。
「……芽が、出た……?」
畑の端にしゃがみ込んだ俺は、一瞬目を疑った。
ルキナと一緒に撒いたあの種。
日本から偶然持ち込んだ、故郷の野菜の種。
普通なら、この魔界の土地では発芽すらしないだろうと諦めていた。
それなのに、そこには確かに――
「きゅいっ!」
ハルゥが嬉しそうに駆け寄り、小さな双葉に鼻先を押し当てた。
淡い緑が、魔界特有の赤黒い土の上で不安そうに震えている。
でもその葉は確かに、光を求めて空へ伸びようとしていた。
「……生きようとしてるんだな」
静かに手を伸ばし、その小さな葉に触れた。
土の冷たさ、葉の温もり。
この小さな命が、俺たちの畑の未来を支えてくれる気がしてならなかった。
「芽が出たと?」
夕刻、ルキナが軽い外套姿で畑へ来ると、俺は満面の笑みで彼女を迎えた。
「見てください、ほら。ルキナ様が撒いた種ですよ」
「……本当か」
ルキナはしゃがみ込み、そっと小さな葉を撫でる。
「……柔らかいな」
「怖いですよね。こんなに小さくて、脆くて……ちょっとしたことで枯れちゃうかもしれない。でも――」
「それでも、お前はこれを育てるんだな」
「はい」
俺ははにかんで笑った。
「だって、この葉はもう俺たちの仲間ですから」
ルキナは小さく笑い、それから真剣な眼差しで俺を見つめた。
「……お前は不思議な奴だ。魔族でもなく、人間の兵士でもなく。鍬一本でこの魔界を変えようとしている」
「変えたいです。……この畑を、魔界で一番最初の“春”にしたいんです」
その言葉を聞いたルキナは、小さく目を見開き――やがてゆっくりと微笑んだ。
「……なら、私も変わろう。剣を置ける日が来るまで、お前の畑を手伝う」
その白い指が、そっと俺の手を握る。
「お前の夢が、私の夢だ」
小さな声だったけど、確かにそう言ってくれた。
「なぁルキナ様」
「なんだ?」
「また昼寝しましょう。今度はこの双葉のそばで」
「……ふふ、そうだな。これがもっと大きくなったら、その陰で眠るのもいいかもしれない」
ルキナはほんの少し頬を赤くし、俺の肩に頭を預けてきた。
「……剣がなくても、お前の隣にいられるなら、それでいい」
「はい。俺もです」
ハルゥが小さく鳴き、二人の膝の上に乗ってきた。
その小さな体の温もりが、いつも以上に優しく感じられる。
空を見上げると、魔界特有の赤黒い雲が少しだけ薄れ、その奥に淡い光が滲んでいた。
いつかこの空が、本当の青に変わる日が来るだろうか。
この畑がもっと広がって、魔界中が緑に染まる日が。
「……そのときは」
「ん?」
「一緒に野菜を刈り取りましょうね。俺が鍬で、ルキナ様が鎌で」
「……ふふ、ああ。約束だ」
ルキナはそっと目を閉じて、微笑んだ。
その横顔は、どんな戦場で見たときよりも穏やかで、美しかった。
「きゅいっ!」
ハルゥが立ち上がり、小さな双葉を鼻先でちょんと突いた。
緑の葉がふるふると震え、太陽を探すようにまたわずかに空へと向き直る。
「……大丈夫だよ。俺たちがついてる」
静かにそう囁き、俺はルキナの手をもう一度強く握った。
いつか魔界に本当の春が来る日を夢見て――。
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