第5話②:五墓日
机を隔て、向かい合う石像。眼前に広がる景色を飲み込みながら、九華は全員と目を合わせる。睡方。想汰。そして、タプを腕に抱く由依。彼女は手をかざす。青い閃光が腕から迸っていき、それと同時に周囲が白い光に包まれる。
石像と自分達だけの奇妙な空間が広がる。だが、これももう最後だ。周囲に渦巻く白いオーロラ、歪んだ空気。慣れた手つきで睡方は神聞紙を取り出し、想汰は腰のスイッチを押して、顔を飛び出させる。由依は顔を俯かせ、意識を集中させていた。タプを抱きしめながら、ただ強く、聴力を研ぎすまして。
横並びの四人。オーロラが渦巻き、眼前のスクリーンに記憶が流れ出していく。隣にいる由依は苦い顔をしつつも、自分から何も言い出そうとはしなかった。彼女の顔を見て九華は心配になるが、その瞬間睡方の声が頭によぎった。
「あいつを、信じよう」
九華は、スクリーンに目をやった。そして筆を滑らせる用意をした。自分にしか出来ないことを、精一杯やろうと。
流れ出す。記憶の視点は、先ほど自分達のいた一番奥の部屋から玄関に向かうような形で固定されていた。吹き抜けになっているおかげで襖が全て開いていると、どの部屋の様子も見ることが出来る視点。
奥の部屋には、父親の祐希と幼い頃の由依がいた。既に立って歩いているが、まだ父親の膝ほどの高さまでしかない彼女。そんな小さな体躯が、笑いながら父親の足に飛び付く。祐希は同じく顔に笑顔を浮かべながらそんな彼女の体を、腕で軽く持ち上げては地面に降ろす。
めげずにくっついてくる由依。足を押そうとしてめいいっぱい手に力を込めている彼女を見て、今度は父親がわざと負けたように自分の体を倒した。さながらそれは相撲をしているようだった。愛ゆえの接待試合。そこには企みなどなく、ただ純粋に楽しむ二人がいた。
「もう十分でしょ。ご飯まだ?」
冷たくあしらうような声がした。その主は、真ん中の部屋でテーブルに肘をつきながら座っている美香だった。彼女の声を聞いた途端、彼は顔の笑みを苦笑いに変え、ゆっくりと立ち上がる。そのまま真ん中の部屋を通り過ぎるようにして、台所に向かった。その後ろを、由依がついていって。
「えーパパ、もっと遊びたい〜」
「ごめんね由依、また今度な。美香さんごめん、すぐ作るから」
「全部やるって約束したのあんたなんだから。本当、しっかりしてよね」
彼の目線を見ずに、爪にネイルを塗りながら彼女は返事を返した。しばらくすると彼は料理を始め、その下から顔を見上げるようにしながら由依はうろちょろとしていた。フライパンを振る彼の足元に再び、由依が笑顔で体をくっつかせる。その様子を見ながら、彼も笑顔で彼女と目を合わせる。その後ろで、美香は一人携帯をいじっていた。
フィルムが回転する。次に映った時には、中央の部屋のテーブルに料理が盛られていた。石像通りに祐希と美香が座り、空いていた座布団の位置には由依が座っている。手を合わせて「いただきます」と言うと、祐希が大皿に盛られた料理を、それぞれの分取り分けて。
由依はまだ覚えたてなのか、箸の扱い方に苦戦しながらもなんとか口に運んでいく。そして、食べた途端笑顔になって祐希の方を見る。
「パパ、おいしい!」
「はは、良かった。美香さんは、どう?」
目を細めて笑い、由依と目を見合わせた後。彼は少し上目遣いになりながら、荒っぽくその料理を二、三口運んだ美香に呼びかける。
「うーん、あたしはあんま好みじゃないかな。ちょっとしょっぱすぎるし。こうなるんだったらやっぱりあたしが作った方が良かったかも」
口々に文句を吐くようにしながら、彼女は箸を口へと運んでいく。祐希は食べる手を止めて、俯き加減のまま呟いて。
「はは……、ごめんね。今度はうまくやるから」
「そればっかり」
遂に、祐希は乾いた笑いをすることしか出来なくなっていた。由依はそんな父親の顔をじっと見つめ、先ほどまでの笑顔を曇らせる。親二人に挟まれる立場の中、彼女は体を縮こまらせながら箸で料理を口に運んでゆっくりと噛み締め、静かに嚥下した。
九華はそこで、とあることに気づいた。先ほどの料理を作っている際のシーンと、今食卓を囲んでいるシーンで三人の服装が異なっている。彼女はてっきり地続きの記憶かと勘違いしていたが、どうやら先ほどのフィルムの回転で別日のシーンに切り替わっていたようだ。
つまりそれは、美香のあの態度が日常的なものだと表していた。九華は自分の家の食卓と目の前の光景を比べてしまう。幼き由依の顔は一度陰りを見せると、そこから元へと戻ることは無かった。祐希は恐る恐ると言った感じで呟く。
「最近……、仕事がちょっと忙しくなってきちゃってさ。保育園に入るまでの間でいいから、何回か由依の面倒を見てやって欲しいんだ。もちろん、僕が家にいる時はやるけど……、どうしても週に数回はオフィス、行かないとダメだから」
美香はいかにも不機嫌、といった感じで眉を顰めた。祐希の作った料理を箸で掴んでは口に入れていく、その作業みたいな動き。目は常に彼を睨んでいて、咀嚼が終わると一つ大きなため息を吐いた。
「あんたが全部やるって言ったから結婚してやったのに……。ねえ? 由依?」
彼女が由依に笑顔を向ける。由依は戸惑った様子で、美香の顔をほんの少し見たら、逃げるようにすぐさま俯いて料理を頬張った。
「由依も結局あたしが育てた方が偉い子に育つのよ。言っとくけど、あたし大体のことは出来るの。それをあんたにわざわざ任せてあげてるってだけ」
「……それは、やってくれるってこと?」
「そう言ってんじゃん。ほんと察し悪い。だから大した給料も貰えないんじゃないの?」
「はは……、そうかもね。ごめん、ありがとう」
美香に箸で指された彼の顔は、張り付けたような笑顔を見せていた。無言で箸を進める三人。九華はその光景を見ているだけでどこか息苦しくなってくる。空気に耐えられなくて、ただフィルムが早く回転してくれることを願うようにその記憶から半分目を逸らしてしまう。映る景色を、この手で記録しなければならないのに。
次に移り変わった記憶には、奥の部屋の机付近で座る祐希と、寝転びながら床の畳を指でなぞっている由依がいた。祐希は机の上にある安価なメーカーのノートパソコンと睨めっこしながら、時折キーボードを叩いている。畳をなぞるのに飽きた由依はそんな父の背中に笑顔で抱きつく。
「わっ! どうした、由依?」
「パパは何してるの〜?」
「パパはね、今家でお仕事をしてるんだ。由依こそ何してたんだ?」
「由依は〜、床の線の数かぞえてた! でも、もう飽きちゃった〜」
由依に抱きつかれながらも、彼はキーボードを叩く手を止めなかった。どちらかというと、止められないといった様子。必死に画面を追いながら常に次の作業に追われていて。そんな状態でも彼女との会話の中では、常に顔に笑顔を浮かべていた。由依は小さな両拳で、祐希の背中を叩く。
「ねえ〜〜〜、パパ! 遊ぼ!」
「う〜ん……。パパも由依と遊びたいんだけどな……。目の前の仕事を終わらせないといけないんだよ、それも中々大変でさ」
「お仕事、忙しいの?」
「まあ……、忙しいっちゃ忙しいかな」
「大変?」
「それは……、すっごい大変だよ。でも、どんなに辛かったり苦しかったりしても家に帰ってきて、由依の笑顔が見られるならそれで良いかなって」
彼の言葉を聞いて、由依はより一層背中に抱きつく。
「……パパ、ずっと家にいてほしい!」
「はは。僕もいれるならいたいんだけどね。ママはその……、仕事の役割を僕に任せてくれてるから。だからやっぱり、由依とママを支えるために頑張ってお金稼がないといけないからさ!」
快活な声が部屋に響く。だがその瞬間、由依の表情には陰りが見えたような気がした。少しの沈黙。幾らかが過ぎてから、彼女は彼の肩に顎を乗せて小さく呟いて。
「パパは……、ママ好き?」
「えっ?」
突然の質問に思わず祐希が指を止める。振り向き、由依の少し曇った顔を確認すると、その心配をかき消すかのように彼は笑顔で返す。
「好きだよ」
「……ほんと?」
「……うん。美香さんは、まあ、時々ちょっと言い方がきつかったりするけど。でも外に出すのが恥ずかしいだけで、実際内心では他人のことを想ってくれてるはず……、だと思うから。由依のこともしっかり面倒見てくれるってこの前言ってくれたし」
由依は、何も返さなかった。またしばらく沈黙が続いて、祐希は彼女が喋り出すかどうか時間をかけてゆっくり見ていたが、それをしないと分かった時、彼は目を細めながら彼女の頭をその
彼は再びしばらくキーボードを叩く。由依はそれを背中越しにじっと見ていた。依然として何が起こっているかは分からなそうだったが、彼女の顔は彼の仕事姿を見ることで、不思議と笑顔を取り戻していった。
決して短くは無い時間が経った頃。指の動きが唐突に止まると、彼は勢い良くパソコンが閉じて、一発パチンと柏手を打った。
「よし、一旦終了! そしたらお待ちかねの……」
祐希は由依を腕で抱き上げ、勢いよく立ち上がると彼女の体を宙に浮かせた。彼女がキャッキャッと喜びを隠しきれない笑いを漏らすのを見ながら、彼はしゃがんで、立つという一連の動作を何回か繰り返す。毎回新鮮に喜ぶ彼女を見て、彼が一番嬉しそうにしていた。抱っこをしたまま、彼と彼女は目を合わせて。
「パパ、いつものあれやりたい!」
「お〜? よし、やるか! パパ負けないぞ〜」
二人が立って、部屋の中心で向かい合う。お互い固めた両拳を床につけ、腰を落とす。由依は力を込めているのに対し、祐希は体裁だけの姿勢から感じられる脱力感を醸し出し。彼が掛け声を上げる。
「見合って見合って〜。はっけよーい……、のこった!」
合図と共に由依は全力で祐希の膝に飛びかかる。いくらテクニックがあったとしても覆すことのない体格差。だが、彼はそんな彼女の突進を正直に受け、そのままゆっくり床へと倒れた。もちろんそれは故意的なものではあったが、幼い結衣は純粋に両手を上げて喜んでいた。倒れた父の上に乗る彼女の頭を撫でながら、目を見合わせて言う。
「ごめんな。おもちゃとか買ってあげられなくて、こんなことしか出来なくて」
由依は横に首を振る。
「由依は、パパがいるだけで十分幸せだよ!」
その無垢な眼差しを見て、彼は再び彼女を強く抱きしめる。そのまま体を起こすと、嘘偽りの無い笑顔のまま、今度はより強い視線で彼女と目を合わせて。
「由依は偉い子だ。だから、一つ伝えておくぞ。これから先、由依の人生で辛いこと、苦しいこと、もしかしたらあるかもしれない。そんな時は、いっぱい笑うんだ。ずっと笑顔でいること。そうしたら自然と周りに笑顔が集まってくるんだ。ほら、やってみて、笑顔!」
彼は彼女の口角を指で上げる。上げる前から笑顔だった表情は、更に笑みを増した。彼女も返すように膝に登って、彼の顔の口角を上げる。二人は笑って、見合っていた。幸せな時間はやがて渦に巻き込まれていって、フィルムは次の映像を映し出した。
次は、奥の部屋に由依と美香が二人きりになっていた。美香は夫がパソコンを置いていた机の対角線上にあるメイク台の引き出しから大きな白い布を取り出すと、壁の一部を隠すように画鋲でそれを貼り付けた。ラインストーンでデコレーションされたスマホを由依に向ける。画面はフィルターが過剰なほどかかったカメラアプリ。美香はレンズ越しに由依を見ながら、指で指示を出す。
「そう、そこにうつ伏せで寝っ転がる感じで、顔は上げたまま。目線は下、カメラ見ない! で、床を見て右手の人差し指を床につける。両足は直角に上げて、違う、そうじゃないのよ」
美香が由依の足を無理やり触ってポーズをつけさせ、彼女もそれに口答えすることなく受け入れる。罵声が飛び交う中、ようやくポーズが定まったのか、美香はやっとシャッターボタンに指をかけた。
「はい、笑って〜」
「……」
「ほら、笑ってって。いつも馬鹿みたいにあいつが笑ってるでしょ、その真似しなさい」
口調から怒気を感じたのか、彼女はすぐさま形だけの笑顔を作って見せようとする。だが、その口の端は震えていた。それを笑顔と呼ぶには程遠く。
「こ、これで良い……?」
「ちょっと! 場所がズレてる! これじゃせっかく隠したのにボロっちい家だってバレちゃうじゃない! もうちょっと右に移動、そんで足下げないよ!」
怒号の応酬が、まだ幼き女児の身に一点集中して降り注ぐ。部屋に轟いたその乱暴な叫びは確実に彼女を蝕んでいき、遂にそれに耐えるのも限界な様子で彼女の目は潤み始めていた。最終的に姿勢を維持出来ず床に倒れ込んでしまうと、美香はすぐさま彼女の腕を引っ張り上げた。
「何倒れてんのよ! まだ撮れてないんだからさっさと立ちなさいよ!」
由依の頬は、もう既に濡れていた。声を上げて泣く姿。一滴、また一滴と流れた涙は段々と畳を湿らせていく。けたたましく響く悲鳴のような声が今度は美香を狂わせ、彼女も声にならない叫びを上げながら髪を掻きむしる。
「ああもうなんであんたはあたしをイライラさせるのよ! ほら笑えって! 笑えよ!」
濁点の混じった泣き声が続いた。美香が怒声を続ける度にその相乗効果で、彼女は更に顔を涙で歪ませていく。床をバンバンと叩いて、荒ぶる美香と泣く由依。九華は思わず息を飲んでいた。隣で意識を集中させているカミの姿の由依が、腕のタプを更に強く抱きしめる。
「もういいわ! ほら後ろ向いて写真だけ撮るから、はい!」
泣き叫ぶ由依の腕を引っ張って、無理やり後ろを向かせる。雑にボタンを押して白い布を背景にした彼女の背中の写る写真を数枚パシャパシャと撮ると、彼女はその腕を投げ捨てるように離した。床に伸びて畳を濡らす我が子をよそに、美香はスマホの画面へと集中している。今度はSNSの画面になっており、そこに先ほど撮った写真を添付して。
「今日は……、家遊びDay……、おうちで元気よく遊ぶ娘でした、ママとして、子供と遊んでいる時間が一番楽しい……、ハートっと……」
文面を打ち込んで、投稿ボタンを押す。その流れで画面上を指が滑り、他のアカウントの投稿が流れていく。そこに映るのは美香と同年代の女性達の投稿ばかりであり、彼女は血眼になってそれを確認していた。
「絶対……、アタシが一番最初に幸せになるんだから……! アタシが幸せだって見せつけて……!」
由依の涙は止まることなく。
「ううぅ……。うぁあぁああ……」
「ああもううっさい! 静かにして! もう……、これも全部あいつのせいよ……。こんなボロい家に住まわされて……。アタシはもっと……! キラキラした生活を……!」
声が遠ざかっていく。
やっと、フィルムが変わった。映るのは、奥の部屋に集まる三人。外は暗く、部屋の明かりがじわっと部屋の中心を灯している。由依の背は、前の映像から大分伸びていた。唯一立っている彼女は、中心の部屋とを隔てる襖に手をかけていて。
「今日は先に寝てなさい。明日も学校があるだろ?」
「うん」
祐希の優しい口調を聞き入れながら、由依は襖を開けた。隙間から見えたのは、中心の部屋に横並びになっている三つの布団。彼女はいち早くその部屋に入ると、閉める直前、あぐらになって向かい合う祐希と美香を見て。
「けんか、しないでね」
「分かってるよ」
父は、いつものような笑顔で柔和な口調で返してくれた。だが、その時の彼の表情の奥には、わずかながら歪みを見えてしまっていた。あまりにも自然、そしてわずかな変化。それは彼が意図的に行ったものには見えず、反射的な反応だと九華ですら読み取れた。襖が静かに閉まる。木と木のぶつかる音がこだまして、静寂になった室内に冷たく余韻を残し続けた。
祐希は、咳払いを一つ。あぐらの膝の部分に両肘を乗せ、両手を組んだ状態で体を前傾姿勢へと移動させた彼のその目線の先は、膝に頬杖をついて睨みをきかせる美香であった。
「少し話がある」
「何よ」
彼は少し口を噤む。深呼吸をしてから、口を開いて。
「美香さんも、働いてくれないか」
美香は腕を硬く組む。そのまま「理由は?」という感じで、一言も喋らずただじっと彼の顔を見ている。醸し出される気迫。祐希は顔を少し俯かせ、わざと目を合わせないようにしながら言葉を漏らす。その顔には、クマが目立っていて。
「大分、今の時点でも結構なオーバーワークなんだ。毎日休み無しで働いて、それで更に上司からの残業もあって。もう保育園のお迎えとか弁当作りとかはしなくて良くなったから家事は余裕があるけど、その分今度は由依の学費のために仕事を詰めてる。それでもかなり厳しいんだ。だから、」
「だから……、何?」
相手を押し伏せるような、重々しい口調だった。彼女は間髪入れずに続ける。
「言ったわよね、結婚する時。『僕が全部やるから、その代わりに結婚してください』って。忘れたの?」
「覚えてる。覚えてるけど……、本当に全部は、もう出来ないよ。由依ももう小学生なんだ。少しぐらい協力してくれても……」
「甘いのよあんたは! そんな弱音ばっかり! だからお金もまともに稼げないのよ!」
彼女の言葉尻に被さるように、祐希はバンと勢いよく机を叩いた。九華は思わず驚いて体を震わせる。対して渦中の、美香は一切動揺することなく鎮座していて。
「……美香さんさぁ。最近、夜どこ行ってるの? 明らかに帰ってくるの遅いよね」
「……」
「僕、一回クローゼットの中見たんだ。そしたらさ、なんかさ、ブランド物のバッグとか、アクセサリーとか服とか色々見つかったんだけど。あれ、僕のお金で買ってるの?」
美香は一瞬クローゼットに目をやってから、彼を睨む。
「最っ低……! あんた人のもの盗み見るわけ……!? ほんと性格悪いわね」
「性格悪いのはどっちだよ! 僕の質問に答えろよ! 自分のことしか考えてないくせに! 由依のことなんか本気で愛してなんかないんだろ!」
「愛してなかったらなんなのよ」
「……はぁ?」
開き直ったような表情に、祐希は眉間に皺を寄せる。怒りを必死に抑えようと目を瞑って深呼吸をしながら、拳は強く握られて震えており。
「あんなキーキーうるさいのなんて、どうせ世の母親みんな好きじゃなくなっていくのよ。だから愛してはないけど、もちろん育てるわ。その方が幸せだと思われやすいし、いいねもつきやすいし」
「……もういい。お前とは、一緒にいたくない」
今まで見てきた祐希とは、想像のつかない乾いた声だった。笑顔なんて程遠い、諦観や憎悪が入り混じった表情のまま大きなため息をつく。言葉ではなくそれが沈黙を埋める度に、二人は同じ部屋にいるのに襖を一枚を隔てているようだった。
それでも彼がこの部屋から出ないのは、未だこの錯乱した自分を由依に触れさせたくないと言う心の表れだろうか。押し黙っていた美香が再び腕を組み直して。
「……言っとくけど。 基本的に親権は母親優位だからね。家にいる時間で言ってもあんたと比べたらあたしが断然上よ。たまに面倒見たからって父親面しないでくれる?」
「…………」
「離婚した場合、あんたは由依を失う可能性がある。それに親権裁判なんて、少なくとも数ヶ月、長ければ半年必要になるからその期間はもちろん労働が出来ない。そんな多くのリスクを背負ってまで、あたしと離れる必要なんてあるのかしらね」
美香は勝ち誇ったように、すらすらと言葉を並べる。顔を机に突っ伏し、片方の手で頭を抱えながら固まっている祐希。先ほどからその状態を続けており、彼は彼女の高圧的な口ぶりにも全力で応えるような態度を示さなかった。
「……もう、黙っててくれ」
震えた声で、それは小さく轟いた。それ以上二人は何も言わないまま、膠着の時間を過ごす。しばらくして祐希は立ち上がると、彼女の方を見ることなくほんの少し目元を拭ってから襖をゆっくりと開けた。そして、閉めた。
ピシャリという音と共に、部屋に取り残された美香は徐に携帯を触り出す。そこに映っていたのは、メッセージアプリのトーク画面。片手で器用にメッセージを入力し、深夜にも関わらず返事を返して。
「あたしがなんの稼ぎもしないゴロツキだと思ったら大間違いよ。なんなら、あんた以上かもね」
メイク台に置いてあるリップを手に取り、カバーを取る。艶かしく照った珊瑚色のそれが露わになると彼女はじっとその先端を見つめ、独り言を呟いていた。メッセージの内容がちらっと見える。
それは、何者かと約束を取り付けているようなもの。親指の動きで流れていくメッセージの履歴の所々には、都市部有数の歓楽街の名前が頻繁に登場していて────。
フィルムは、無情にも回る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます