第16話 王都の休日

 久しぶりに頭痛のない朝だった。


 カノンは寮のベッドに身を起こすと、窓から差し込む陽光に目を細めた。一週間前の激痛が嘘のように、頭の奥の重苦しさが消えている。視界の端で揺らめいていた歪みも、今朝はほとんど感じない。エルテアの治療が、確実に効果を現していた。


 身支度を整えながら、今日という日への期待が胸に宿る。昨日の放課後、リアナから「明日は休日だし、王都に魔導具を見に行かない?」と誘われていた。その時のリアナの少し心配そうな表情を思い出す。


 学院の正門前に向かう足取りが、自然と軽やかになった。



 「カノン!」


 正門前でリアナの声が響く。振り返ると、淡い青色のワンピースを着た彼女が手を振っていた。この前の外出時とはまた違った印象で、金色の髪を軽やかな編み込みにまとめ、十月の爽やかな陽気に似合った装いだった。


 「おはよう」


 「顔色、すごく良くなったね」


 リアナが近づきながら、安堵したような表情でカノンを見つめる。


 「すごく調子いい。薬のおかげかな」


 カノンの返事に、リアナの頬が緩む。


 「良かった。ミレーネも早く来て」


 手帳を抱えた茶色の髪の少女が、リアナの少し後ろから歩み出る。シンプルな白いブラウスに深緑のスカートという組み合わせで、前回の柔らかな雰囲気とはまた違う、知的な印象だった。


 「体調はどう?」


 ミレーネがカノンに近づきながら、じっと顔色を見つめる。


 「頭痛は? 視界の異常は? めまいは?」


 「全部大丈夫。本当に」


 カノンが苦笑いを浮かべると、ミレーネが小さく頷く。


 「それなら良かった」


 リアナが軽やかに歩き始める。


 「久しぶりに三人だけで外出できるね。王都の魔導具街、楽しみでしょう?」


 カノンは頷いた。症状に悩まされていた間、こんな何気ない外出すらできずにいた。普通に歩けること、普通に友人と過ごせることの幸せを実感していた。


 「ありがとう、二人とも」


 「何を改まって」


 ミレーネが手帳を小脇に抱え直しながら微笑む。


 「でも、無理は禁物よ。何か変わったことがあったら、すぐに言って」


 三人は並んで石畳の道を歩き始めた。朝の陽射しが頬に心地良く、久しぶりの制約のない外出に心も軽やかだった。



 王都の魔導具商店街は休日の賑わいを見せていた。


 カノンは人混みの向こうで、空気が微かに歪んで見えることに気づく。治療のおかげで頭痛はしないが、まだ完全ではないようだった。


 「効率重視で回りましょう」


 ミレーネの提案で、まず老舗の銀月堂に向かった。


 最初に足を向けたのは、通りの奥にある「銀月堂」。重厚な木の扉を開けると、店内に薄暗い照明と古い魔導具特有の金属の匂いが漂っている。


 「いらっしゃいませ」


 年配の店主が作業台から顔を上げた。手には精巧な彫金細工の施された魔力測定器。


 「学院生の方々ですね。何かお探しものでも?」


 リアナが店内を見回しながら答える。


 「魔力測定用の水晶球を探しています」


 「でしたら、こちらなどいかがでしょう」


 店主が美しい水晶球を取り出す。


 「金貨三枚になります」


 カノンとミレーネが顔を見合わせた。学院からの月々の手当の三倍以上。


 「検討してみます」


 リアナは特に動揺する様子もなく、丁寧に店主に礼を言った。


 次に立ち寄ったのは学生向けの「青竜商会」。実用重視の安価な商品が多く、同世代の客で賑わっている。


 「基本的な魔力制御具なら、ここが一番種類豊富ね」


 カノンが棚を眺めながら、価格と機能を慎重に比較検討していると、ミレーネが近づいてきた。


 「何か欲しいものがあるの?」


 「いや、見てるだけ」


 カノンは曖昧に答えた。棚の商品を見つめていたが、やがて懐に手をやって小さくため息をつく。


 ミレーネが手帳に何かメモを取りながら呟く。


 「カノン、意外と見る目があるのね。私が注目してたのと同じ商品を見てる」


 その言葉に、カノンが照れたように微笑む。



 昼食は、商店街の外れにある庶民的な食堂で取ることにした。


 「ここなら静かに話せそうね」


 店主の勧めで薬草入りのシチューを注文。木匙が器に触れる、こつ、という小さな音。立ち上がる湯気に混じる薬草の香りが食欲をそそる。


 「美味しい」


 リアナが嬉しそうに微笑む。


 「学院の食堂より、こういう家庭的な味の方が好きかも」


 「私も」


 ミレーネが手帳を膝の上に置きながら頷いた。


 「最近読んだ魔力回復理論の本で、薬草の組み合わせについて詳しく書かれてたの。このシチューの薬草配合、理にかなってるわ」


 「さすがミレーネ」


 カノンが感心する。


 「君はいつも勉強してるね」


 「好きなのよ。知らないことを知るのが」


 三人の会話は自然と、最近の授業の話から将来の夢、読んだ本の話へと流れていく。


 「でも最近、王都も物騒らしいよ」


 近くの席の学院生らしき若者が友人と話している。


 「上級生で行方不明者が出たって。部屋の私物も残したまま」


 リアナとミレーネが心配そうに顔を見合わせる。


 カノンは無意識にスプーンを握りしめていた。なぜだろう。頭痛は治まっているのに、胸の奥で何かが蠢くような——


 「大丈夫?」


 リアナが心配そうに見つめる。


 「うん、何でもない」


 カノンは微笑んで答えた。きっと、まだ完全に回復していないだけだ。今日は楽しい一日にしたかった。



 「少し別行動してみない?」


 食堂を出たところで、カノンが提案した。


 「え?」


 リアナとミレーネが顔を見合わせる。


 「一時間後に、商店街の中央広場で待ち合わせというのは?」


 「何か理由があるの?」


 ミレーネが首をかしげる。


 「えーっと……」


 カノンが曖昧に視線を逸らす。


 「ちょっと、用事があって」


 その様子を見て、二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 「分かった。じゃあ一時間後に」



 カノンは商店街の奥の方へ足を向けた。これまで節約して貯めた小遣いのほとんどを使うことになるが、後悔はない。自分の欲しい魔導具は我慢して、今日はこれを優先したかった。


 貴石加工の専門店でペンダントの刻印を、精密加工の工房で筆記具への装飾を依頼した。どちらも一時間ほどで仕上がる。


 工房から金床のカン、という響き。研磨粉が鈍く煌めく。行き交う人々、焼きたてのパンの匂い、時計台の鐘の音。王都の街角には魔導具と手仕事が自然に共存している。


 一時間後、カノンは両方の工房を回って依頼品を受け取った。美しく仕上がった品々を小さな包みに包んでもらい、大切に懐にしまう。学院からの手当をほぼ使い切ってしまったが、後悔はない。



 王都の小さな中央広場に、午後の陽射しが穏やかに降り注いでいる。


 「お疲れさま」


 リアナとミレーネが二人で広場に現れた。それぞれ、いくつかの小さな包みを抱えている。


 「二人とも、何か買ったの?」


 「秘密」


 リアナが茶目っ気たっぷりに微笑む。


 「実は……話があるんだ」


 カノンが少し改まった表情になり、懐に手をやる。


 「編入試験で失敗した時も、体調を崩した時も、周りから何を言われても——いつも僕の隣にいてくれた」


 カノンが懐に手を伸ばしながら続ける。


 「君たちがいなかったら、僕はとっくに諦めていた。だから——」


 リアナとミレーネが、同時に首をかしげる。


 「ちゃんとお礼を言いたくて」


 その言葉に込められた真剣さが、二人にも伝わってきた。


 懐から小さな包みを取り出し、リアナに手渡した。


 包みを開けたリアナが小さく息を呑む。淡い水色の水晶のペンダントが陽光を受けて輝き、表面に刻まれた彼女の名前と光をかたどった繊細な装飾が浮かび上がった。


 「これ……ペンダント?」


 「魔力量で色が変わるんだ。普段はアクセサリとして身に着けられるから」


 カノンが少し照れながら説明する。


 「これ、いつもつけてて欲しくて」


 リアナの視線が一瞬泳ぐ。そっと瞬きをして、耳朶がほんのり赤らんだ。


 「それって……」


 言葉が途切れる。何かを確かめるような間。


 「あ、いや、そういう意味じゃ——」


 カノンが慌てて手を振ると、ペンダントが光を受けて煌めいた。


 リアナは小さく息を吐く。


 「……びっくりした」


 隣でミレーネがくすくすと笑っている。


 「何?」リアナが振り返る。


 「『いつもつけてて欲しくて』って、私も一瞬ドキッとしちゃった」


 「ち、違うんだ!体調管理のためで——」


 カノンが慌てて手を振ると、ミレーネがさらにくすくすと笑う。


 リアナが一度深く息を吸い、小さく咳払いをする。


 「ありがとう、カノン。大切にする」


 リアナがペンダントを首にかけると、透明だった水晶が淡い緑色に輝き始めた。


 「わあ、本当に色が変わった」


 ミレーネが感嘆の声を上げる。


 カノンが改めて懐に手を入れ、もう一つの包みを取り出した。


 「実は……ミレーネにも」


 「え? 私にも?」


 ミレーネが一瞬動きを止める。


 「まさか、本当に?」


 手帳を落としそうになって慌てて握り直すと、リアナがいたずらっぽくミレーネを見つめた。


 包みを受け取って開けると、精巧な携帯筆記具が現れた。上部には小さな魔力感知石が埋め込まれている。


 「これ……私の名前と、薬草のモチーフまで……」


 ミレーネは美しい筆記具を見つめながら、小さく唇を噛んだ。


 自分は観察者のつもりだった。データを取り、分析し、客観視する側。なのに、いつの間にか一番よく「見られて」いた。


 薬草のモチーフ、自分の名前、それに——魔力感知石。カノンは彼女が何を好み、何を大切にしているかを、すべて覚えていた。


 「やられた……」


 手帳を抱きしめる。目頭が、少し熱くなった。いつも冷静な分析をする自分が、こんなにも——


 「完全降参よ」


 いつもの軽やかな調子が、消えていた。でも、それは悔しさではない。初めて本当に「理解された」ことへの、深い感動だった。


 ふと、筆記具の上部の小さな石に気づく。


 「あ……私のも光るの?」


 「実は、二つとも魔力感知機能が付いてるんだ」


 カノンの心に、先日五階で見た光景が浮かんだ。あの弱々しい音、執行官の白い光に消されていった何かの存在。


 「体調管理にも使えるし、その……もし魔力に異常があったら、早めに気づけると思って。見たことない色になったら……うまくいえないけど、気をつけて」


 ミレーネが筆記具を大切そうに握りしめる。


 「実は……私たちからも」


 リアナが少し恥ずかしそうに包みを取り出す。


 「二人でお金を出し合ったの」


 カノンが包みを開けると、象牙と黒檀で作られた美しい計算尺が現れた。金の装飾が施された目盛りが、陽光を受けて輝いている。


 「これ……欲しかったんだ」


 カノンの手が、計算尺を握りしめた。象牙と黒檀の滑らかな手触り。金の装飾が陽光に煌めく。


 「知ってた」


 ミレーネが微笑む。


 「魔導具街で何度も見てたでしょう?」


 「見てたの?」


 カノンが驚いたように二人を見る。


 「大事にするよ……本当に、ありがとう」



 学院の正門前まで戻ってきた時、三人は自然と立ち止まった。


 「また明日、学院で」


 リアナとミレーネが手を振りながら、それぞれの家路についていく。


 カノンは二人の姿が見えなくなるまで見送ってから、寮への道を歩き始めた。懐の中で、二人がくれた計算尺が静かに温もりを保っている。


 夕陽が石畳を優しく照らしていた。明日からまた、新しい日々が始まる。

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