コンテストに入賞したら?どんな未来が?

志乃原七海

第1話「…売れないんです。何度言っても、先生の作品は」

もし、異世界ファンタジー作家だったら!

第一話:サスペンス脳に剣と魔法


佐藤菜々美、三十五歳。職業、小説家。肩書きだけは、それなりに立派だった。しかし、その実情は、出版業界では「売れない作家」の典型として知る人ぞ知る存在だった。


デビューして十年。一貫して書き続けてきたのは、推理とサスペンス。王道中の王道、古き良きミステリーへの偏愛は、もはや一種の信仰めいていた。孤島の山荘、閉鎖された豪華客船、雪に閉ざされた村…舞台は常に限定された空間で、登場人物たちの心の機微や、完璧なアリバイトリックの崩壊を描くのが至上の喜びだった。流行りのライトノベルや、奇抜な設定のファンタジーには目もくれなかった。だって、人間ドラマこそが至高でしょう? 剣でバッサバッサ敵を倒したり、魔法でドカーン!なんて、物語の核心には何も関係ない。トリックを仕掛け、読者を欺き、最後に鮮やかに謎を解き明かす。それこそが小説の醍醐味だ、と固く信じていた。


しかし、その信念が、現実の世界では全く通用しなかった。


「先生、もうそろそろ、現実を見ていただけますか?」


いつものカフェ。頼んでもいないのに砂糖が山ほど入ったアメリカンコーヒー(これが担当編集者・高橋の悪癖だ)を前に、彼は眉間に深いシワを寄せ、提出された新作のプロットを机に置いた。そこには、期待の色どころか、深い疲労の色が滲んでいた。


「今回はですね、とある企業の社長が自室で毒殺され、容疑者全員に完璧なアリバイがあるという状況から始まりまして…」菜々美が熱く語り始める。


「先生」高橋は、菜々美の言葉を遮った。「素晴らしいプロットです。先生らしい、隙のない構成。しかし、市場というものはですね…」


彼はパソコンの画面をちらりと見て、諦めたようにため息をついた。「…売れないんです。何度言っても、先生の作品は、一部の熱狂的なファンにしか届いていない。単行本、一巻あたり数百部。重版など夢のまた夢。このままでは、次の契約更新、本当に厳しいですよ」


菜々美はぐっと唇を噛んだ。分かっている。嫌というほど、分かっている。編集会議での自分の作品への冷たい視線、書店からの返品の山、自分の作品が書棚の片隅に追いやられている光景。全てが、売れていないという現実を突きつけていた。


「でも、私の書くものには、確かな…」


「先生!」高橋の声が、カフェ中に響き渡りそうなくらい大きくなった。「お願いです!ここらで大きく舵を切ってください!流行に乗るんです!例えば…異世界、とか!」


「い…異世界?」菜々美は思わずコーヒーカップを落としそうになった。彼女の頭の中にあるのは、ビルの谷間の陰謀か、雪山の山荘での閉鎖空間だ。剣と魔法? エルフ? ドワーフ? 魔王? 全くピンとこない。これまでの作家人生で、最も縁遠い単語ばかりだ。


「ええ! 今、一番売れているジャンルです! 先生の、その…緻密な構成力と、読者を引き込む筆力をもってすれば、きっと素晴らしい異世界ファンタジーが書けます!」


緻密な構成力はアリバイのため、読者を引き込む筆力はトリックのためだ。それが、剣を振るう勇者とどう結びつくというのか。菜々美は顔をしかめた。


「無理です。私にそんなもの、書けません。第一、興味がありません」


「書けません、じゃ困るんです!書いてください!お願いします!お願いですから!このままでは、先生も、私も、もう後がないんです!」


高橋は、カフェという場所も忘れ、テーブルに両手をついて頭を下げてきた。その必死さに、菜々美は息を呑んだ。彼だって、担当作家が売れなければ、自分の立場が危うくなるのだ。彼一人の問題ではない。会社の看板作家になれとは言わないが、せめて会社に貢献できるくらいの売上は必要だ。


……分かった。やろう。


「…分かりました」菜々美は、乾いた声で答えた。「やってみます。異世界ファンタジー、書いてみます」


高橋は、信じられないという顔で顔を上げた。そして、次の瞬間、彼の顔が破顔した。


「ありがとうございます! ありがとうございます、先生! 必ずや、この企画を成功させましょう!」


こうして、佐藤菜々美、推理サスペンス一筋十年の作家は、全く畑違いの「異世界ファンタジー」執筆という、見果てぬ地獄へ足を踏み入れたのだった。


自宅に帰って、菜々美は早速ネットで「異世界ファンタジー」を検索しまくった。出てくるのは、見たこともないキャラクター、複雑な魔法体系、ゲームのようなステータス画面。


「勇者、魔王、エルフ、ドワーフ、オーク…? スキル? レベル? ステータスオープン? 何これ、呪文?」


参考書を買い漁る。書店には、異世界ファンタジーのコーナーがこれほどまでに拡大していたのか、と驚くほど大量の本が並んでいる。恐る恐る数冊手に取り、家で読み始めたが、頭の中は混乱するばかりだった。


「この主人公、どうして急に異世界に行ったの? トラックに轢かれた? コンビニ帰りに?…え、神様の気まぐれ? その神様の正体は? アリバイは?…って、違う! これファンタジーだ! アリバイなんて関係ない!」


プロットを考え始めるが、これも上手くいかない。

「登場人物AがBを殺害しようとしている。その動機は…魔法の杖の横取り? いや、もっと心理的な理由がないと。過去の因縁?…あれ? でもこれ、ファンタジーだから、魔法で簡単に殺せちゃうんじゃないの? それだとトリックにならないし…」


サスペンス脳が、ファンタジー設定と全く噛み合わない。頭の中で、剣と魔法の世界と、密室トリックがごちゃ混ぜになり、奇妙な歪みが生じる。


「炎の魔法、ファイアボール…えっと、呪文は『フレイム・スフィア』? いや、『バーニング・ブラスト』の方がかっこいいか?ていうか、魔法ってどういう原理で発動するんだ? 魔力? 魔力って何? どこから来るの? それに、もし魔法が使えない体質の人間がいたら、そいつのアリバイは成立しやすいのか…」


自問自答を繰り返し、唸りながらキーボードを叩く。登場人物の名前も、それまで太郎とか花子とか一郎とかだったのが、急に『エルトリア』とか『ゼノン』とか『リリアーナ』とかになった。タイプミスを連発する。


一週間、二週間…進まない。自分が書いているものが、本当に面白いのか、全く自信がない。むしろ、早くこの苦行から解放されて、次の密室トリックでも考えたい、とばかり思っていた。


締め切りが迫る。高橋からの催促の電話が頻繁にかかってくるようになった。もう、まともなものは書けないかもしれない。いや、もともとまともなものを書けている自信すらない。


睡眠時間を削り、コーヒーをガブ飲みし、ついに完成させた原稿。それは、菜々美自身、何が書かれているのか、どういう結末を迎えるのか、半分理解できていないような、奇妙で、ちぐはぐな物語だった。登場人物たちは、時折サスペンスじみた独白をしたり、世界観の設定が妙に細かかったり、かと思えば急に王道ファンタジーのような展開になったりする。


「…これ、提出するのか」


画面に表示された文字を眺めながら、菜々美は深くため息をついた。これが、自分の作家生命をかけた一本になるかもしれない。それが、これほどまでに不本意な、書きたくないジャンルで、自信も手応えもないまま書き上げたものだなんて。


それでも、提出するしかない。メールにファイルを添付し、送信ボタンをクリックした。


「……はぁ」


大きく息を吐き出した。これで、この苦行は終わりだ。どうせ売れないだろう。また推理小説の世界に戻れるだろう。むしろ、早く売れないといい。


菜々美は、自分が書き上げた奇妙な異世界ファンタジーが、後に日本中を巻き込むほどの「爆あたり」を起こすとは、この時、微塵も想像していなかった。そして、その大ヒットが、さらなる苦悩と、予想もしない「ムチャ振り」に繋がることも。


こうして、佐藤菜々美の、作家人生における最大の転換点となる物語は、最も書きたくないジャンルで、自信のカケラもないまま、静かに幕を開けたのだった。

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