結びの杜、ふたりの夢
舞夢宜人
覚醒編
第1章 夜明け前の巫女
第1話 夜明け前の邂逅
夜が白み始め、空の藍と東の空の朱が混じり合う、一日のうちで最も静かな時間。俺、神凪 斎(かんなぎ いつき)の一日は、このグラデーションを肺いっぱいに吸い込むことから始まる。
「はっ……、はっ……」
アスファルトを蹴るランニングシューズの音と、俺自身の荒い息遣いだけが、夜明け前の住宅街に響く。白い息が、吐き出されるそばから冷たい空気に溶けていく。ここは静岡県富士市富士岡。北には雄大な富士の裾野が、東にはごつごつとした愛鷹(あしたか)の山並みが黒い影を落とす、坂の多い町だ。このジョギングを終えれば、今度は5km以上先の富士高校まで、この坂道を自転車で登らなければならない。周囲からは物好きだと言われるが、この坂道と、柔道で鍛え上げた足腰だけが、俺の数少ない自信だった。
坂を上りきった場所が、俺のジョギングコースの折り返し地点。そして、毎朝の祈りの場所でもある、一宮神社だ。
樹齢何百年にもなるであろう楠(くすのき)の巨木が立ち並ぶ参道は、まだ夜の気配を色濃く残している。石灯籠の間に立ち込める朝霧が、ここから先は神域であると告げているようだった。俺は鳥居の前で一度立ち止まり、深く一礼してから、静かに境内へと足を踏み入れた。
手水舎で口と手を清め、拝殿へと向かう。二礼二拍手一礼。賽銭を入れる習慣はない。ただ、この場所の神様に、今日一日の無事と、柔道での精進を心の中で報告する。それが、物心ついた頃からの俺の日課だった。
この一宮神社が祀っているのは、磐長姫命(イワナガヒメノミコト)。富士山に祀られる華やかな女神、木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)の姉君とされる神様だ。そのご利益は、永続や不変。派手さはないが、俺はこの神社の、どっしりと地に足のついたような空気が好きだった。
祈りを終え、踵を返そうとした、その時だった。
サッ……、サッ……。
静寂の中で、規則正しく落ち葉を掃く音が聞こえた。拝殿の脇、社務所へと続く石畳の上。そこに、人影があった。
俺は思わず、息を呑んだ。
一宮 環だった。
制服でも、ましてや柔道着でもない。藍色の作務衣(さむえ)を身にまとい、白い襷(たすき)で袖をたくし上げ、一本の竹箒を手に、一心に境内を掃き清めている。長く艶やかな黒髪は、昼間と同じようにポニーテールに結ばれているが、その雰囲気は全く違って見えた。
俗世の全てから切り離されたような、凛とした横顔。掃き清められた石畳を見つめる、真摯な眼差し。白い息が、彼女の唇からこぼれ、夜明け前の光に照らされてきらめいた。
学校での彼女は、確かに「綺麗」で「格好いい」。だが、今、目の前にいる彼女は、そういう陳腐な言葉では表現できない、神聖さすらまとっていた。神に仕える巫女とは、きっとこういう存在なのだろう。クラスの誰一人として知らない、ましてや親友たちでさえ見たことがあるかどうか分からない、彼女の朝の姿。
その光景を、今、俺だけが見ている。
その事実に、背筋がぞくぞくするような、罪深い高揚感がこみ上げてくるのを止められなかった。
「……おはよう」
どれくらい見つめていただろうか。不意に、掃く手を止めた環が、こちらを向いて静かに言った。驚いた様子はない。俺が毎朝ここに来ていることを、彼女は知っていたのかもしれない。
「あ……、おはよう」
俺は、我に返ってどもるように返事をした。心臓が、早鐘のように鳴っている。ジョギングのせいではない。目の前の彼女のせいで、全力疾走した後のように心拍が上がっていた。
「早いね」
「……お前も」
それだけの、短い会話。彼女は小さく頷くと、再び掃き掃除に戻った。俺は、それ以上そこに留まることができず、逃げるように踵を返し、神社の石段を駆け下りた。
家までの帰り道、俺の頭の中は環のことでいっぱいだった。作務衣姿の、白い息の、静かな声の、凛とした横顔の、一宮 環。
あの神聖な姿を見た後で、学校で、教室で、どんな顔をして彼女に会えばいいのだろう。
ただの憧れだったはずの感情が、今朝の邂逅をきっかけに、もっと別の、名前のつけられない熱を帯びてしまったことを、俺は予感していた。
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