まだ名もない物語。タイトルはあとから考える。

GERO

第1話 人喰い鹿の肉、食べて大丈夫なんすか?

秋風が吹き抜ける、住宅地の外れ。


人影のない家々。

放置された車両。

荒らされたゴミ捨て場。


歩道を埋め尽くした草木は、道路にまで枝葉を伸ばしている。

その一角に、一頭の鹿が立っていた。




『いました……鹿です』


二人の青年が民家の陰に身を隠し、息を殺してその様子を伺っている。


『そこまで大きくないですね……この距離なら矢も届きますし、心臓も狙えます』


大久保直樹(18)は背中の荷から手作りのボウガンを取り出し、静かに組み上げた。

その手は人生初の狩猟に緊張し、小刻みに震えている。


『……待て。角と口元、確認したか?』


背後から、小林裕太(32)の低い声が届く。

POLICEの文字が残る透明な盾を構え、直樹の背中を守るように立っていた。


『……角は短いけど赤くはないです。口元は……この位置だとよく見えません』

『そうか……よし、撃て』


直樹は頷き、静かに矢を番えた。

ゆっくりと深呼吸し、息を止める。


──スパンッ!


矢が放たれ、二十メートルほど離れた鹿の脇腹に突き刺さる。


『ギュアアアアァァッ!!』


鹿は絶叫し、跳ねるように走り出すが、数歩で足をもつれさせ、茂みの中へ倒れ込んだ。


『やった……! 一発で……!』


鹿が倒れたのを見て、直樹は興奮気味に道路へ飛び出した。


『おい待てっ! まだ動くぞ!』


裕太がすかさず呼び止めたが、その声と同時に鹿が身をよじらせ、急に跳ね起きる。


辺りを見渡した鹿の瞳が、道路に飛び出した直樹を捉えた。


『やっべ!!』


直樹は慌てて民家へ隠れようとするが、時すでに遅し。


『ブフゥゥゥ!!』


唸るような低い声を上げながら、手負いの鹿はこちらに突っ込んできた。


『来るッ!』


直樹がそう叫んだ瞬間、裕太が直樹を庇うように前に躍り出た。

そのまま盾を構え、真正面からぶつかり合う。


ズドンッ──。


鈍い音を立て、盾が大きく揺れる。


『ぐっ……!!』


鹿の力は重く、鈍い。普通なら勢いそのままに吹き飛ばされてもおかしくない。

全身全霊でどうにか受け止めるが、それが精一杯だった。


だが──裕太は押し返した。


『うおおおらああああ!!』


死んでたまるかと叫んだその瞬間、岩のように重かった盾が徐々に軽くなるのを感じた。

鹿が力を弱めたのではない。身体の内側から湧き上がる己の力によるものだと裕太は悟った。


盾越しに鹿の動きを止めたまま、背から槍を抜く。

改造された高枝切り鋏の柄に刃物を針金で固定した即席の武器。

それを、寸分の狂いもなく鹿の胸に突き刺した。


ズブッ、と骨の奥まで達する手応え。


鹿は一声も上げずに崩れ落ちた。


『……す…すげぇ……』


あっけにとられていた直樹が声を漏らす。


『裕太さん……すっげぇ力っすね……!』


『はぁ…はぁ……なんだこれ……火事場の馬鹿力ってやつか……?

人間、危ないとリミッター外れるって言うしな』


『聞いたことありますけど……鹿に力比べで勝つって……意味わかんないっすよ……』


『……言われてみりゃ、確かにな。

まあいい。運びやすいように、解体すっぞ』


裕太は自身の力に疑問を抱きつつも、その場に膝をつき、ナイフを取り出した。


『こいつ、何食ってたんすかね?』


直樹が興味本位で雑草の中を覗き込む。


『おい、待て!』


『うっ!……おぅえぇぇぇぇぇ!』


そこには、死肉と化した人間が横たわっていた。


『……だから言ったろ。落ち着いたらこっちに来い』


『……はい、申し訳ないっす……』


吐き気が落ち着いたあと、直樹も鹿のそばに並んだ。


二人は無言で手を合わせる。

鹿に──そして、その傍らに転がっていた人間の成れの果てにも。


『……いただきます』


そう呟いて、裕太はナイフを腹に当てた。




足首の腱を切り、関節から脚を外す。

肛門の周囲を丸く切り抜き、そこから腹を割いた。


生温かい湯気と共に、臓器が露出する。


『うっ……』


直樹が思わず顔を背ける。

だが、すぐに戻ってきて、そばにしゃがんだ。


『……裕太さん、マジで慣れてますよね。

ていうか、なんでそんな冷静でいられるんですか』


『……猟師やってりゃ嫌でも慣れるんだよ』


裕太はナイフを肺の根元に差し込みながら、淡々と続けた。


『数年前から、山の動物の様子が変だった。

今思えば、あの頃からこいつらの変化は始まってたのかもしれない。

…見た目や食性さえも、どんどん変わってきてた』


『……最近の話じゃないんですね』


『ああ。最初の頃は、野生動物たちの異常行動ってくらいにしかニュースになってなかった。

でもそれから獣害事件がどんどん増えて、今年になってからは、ついには猟友会のベテランでさえやられるようになった』


心臓を切り離し、慎重に取り出す。

内臓は脇に掘った穴にまとめて入れた。


『それでも、自衛隊や警察と連携して、ギリギリ抑えてたんだよ。

それが──太陽フレアが来て、全部崩れた』


直樹は思わず作業の手を止めた。


『……太陽フレア。

あれから世界中、何もかも変わってしまいましたもんね』


『ああ。太陽フレアでインフラは壊滅、ネットも死んで、生きてるのはラジオだけ。

俺ら猟友会も、自衛隊とかとろくな連携取れなくなって、気がつけばこのザマだ』


裕太は背肉を切り出し、枝肉の形に整える。


『でも、それでも九月に入るまでは支援物資も避難所に届いてましたよね?

ラジオで情報も流れてましたし』


『無線とかは一部使えてたんだよ。

自衛隊員もトランシーバー使ってたし、衛星電話も生きてたのかな……

車もまだ使えたしな』


『てことは……やっぱり、八月三十一日の夜に見えたオーロラって』


『……二回目の太陽フレアだったのかもな。

二回も食らえば、文明は終わるんだな』




続いて皮を剥ぎ、背中と脚の肉を枝肉として切り分けていく。


『今じゃ文明の利器は何にも使えねぇ……

おぉ、この背肉、いい具合だ。煮ても焼いてもいける』


裕太は迷いのない手つきで、淡々と作業を進めていく。

何度も命と向き合ってきた人間の動きだった。


切り出した枝肉は、厚手の布で丁寧に包む。

その上から丈夫なビニール袋に入れ、口をしっかり縛った。


数分後、直樹が袋を抱え直したとき──


『……うわ、これ。底に血、溜まってきてますね』


『あぁ。持ち方注意しろ。垂れたら痕跡になる』


『了解っす……』


荷を肩に担ぎ、ふたりは歩き出す。

コンビニへ向かって、住宅地を抜ける道を進んでいく。


誰もいない家々。

風に揺れる草と、崩れかけたフェンス。


さっきまで生きていた鹿の重みが、肩にずしりと乗っていた。


『浩平さんと幸さん、無事に着いてますかね』


『あの二人なら大丈夫だべ』


『でも……連絡とれないと、やっぱり不安になりますね』


『仕方ねぇ、今となってはな』


ゆるい坂を下り、曲がり角を越える。

コンビニの看板が、かすかに見えた。


『……そろそろ着くな』


裕太がそう言ったその瞬間──風が止まる。

直樹の足が、ふと止まった。


『……今、なんか……』


『……あぁ、感じた』


背後に何らかの気配。

振り返っても、そこには何もいない。

ただ、雑草がさっきより静かだった。


ふたりは何も言わず、また歩き出す。

血の滲んだビニール袋を揺らしながら、

コンビニの影へと向かった。

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