聖女の騎士は今日も血に塗れる ~無能と蔑まれた俺が、最強の聖女を護る盾となるまで~

境界セン

第1話 無能の烙印と聖女

神託都市エクレシアは、今日も神々しい光に包まれていた。白亜の壁に囲まれた都市の中央には、天高くそびえる大聖堂。その頂に輝く神珠は、都市全体に神聖な光を降り注ぎ、人々の心を安らぎで満たしている。はずだった。


「おい、カイ!またお前か!何度言ったらわかるんだ、剣の振りがなってないって!」


訓練場に響き渡る怒声に、カイは思わず肩を竦めた。指導役の騎士、ゼノンはいつもそうだ。平民出身の彼にだけ、なぜか異様に厳しい。


「す、すみません、ゼノン隊長……」


「謝罪はいらん!結果を出せ!お前のような無能が、この神殿騎士団にいること自体が、聖なる光を汚しているんだ!」


周囲からは、クスクスと嘲笑の音が漏れてくる。同期の騎士見習いたちも、あからさまに軽蔑の視線を向けてくる。特に目立つのは、貴族出身のリカルドと、その取り巻きであるレオナルド、そしてセシルの三人だ。彼らはいつも群れて、カイを馬鹿にする。


「へっ、また怒られてやがるぜ、カイの奴」レオナルドがニヤニヤと笑いながら呟いた。


「まったくだな。一体どうやったらあんなに剣が鈍くなるんだか。聖女様の護衛なんて、夢のまた夢だな」セシルも同意するように頷く。


リカルドは、彼らを制することもせず、ただ冷たい視線をカイに投げかけるだけだった。彼にとって、カイの存在は、ただの「足手まとい」でしかないのだろう。


カイは奥歯を噛み締めた。自分だって、努力していないわけじゃない。誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで訓練している。それでも、なぜか剣の腕は上がらない。身体が思うように動かないのだ。まるで、自分の中にもう一人、自分を邪魔する存在がいるかのように。


「……今日の訓練は終わりだ。お前は反省室で素振り百回。それから明日の朝食抜きな」


ゼノンの言葉に、周囲の嘲笑が一段と大きくなる。カイは何も言い返せず、ただ俯くしかなかった。


訓練場を後にし、薄暗い反省室へと向かう。壁には、無数の剣の傷跡が残っている。誰もが努力の跡を残している証拠だ。だが、カイが素振りをしても、壁に傷一つ付けることはできない。


「くそ……っ!」


柄にもなく、感情的な声が漏れた。胸の奥に、得体のしれない黒い感情が渦巻く。悔しさ、無力感、そして――怒り。


その日、カイは反省室で百回、いや、それ以上の素振りを繰り返した。腕は鉛のように重く、全身から汗が噴き出す。だが、どんなに振っても、剣はただ空を斬るばかりだった。


翌日。朝食を抜かれ、空腹と疲労に苛まれながらも、カイは通常業務である見回りに向かっていた。今日の担当は、大聖堂の裏手にある庭園だ。


そこは、色とりどりの花が咲き乱れ、鳥のさえずりが響く、静かで美しい場所だった。普段はあまり人も来ない。


庭園の小道を歩いていると、ふと、柔らかな歌声が耳に届いた。透き通るような、それでいてどこか切ない歌声。


「……聖女様?」


思わず足が止まる。その声の主は、神託都市エクレシアの希望、聖女リリアーナだった。彼女は、庭園の奥にひっそりと佇む白百合の咲く一角で、一人、歌を口ずさんでいた。純白の衣を纏い、金色の髪が陽光に輝いている。その姿は、まるで絵画から抜け出してきたようだった。


カイは慌てて物陰に隠れた。聖女様のプライベートな時間に、騎士見習いの自分が顔を出すなど、あってはならないことだ。


リリアーナの歌声は、カイの心にじんわりと染み渡る。なぜだろう。この歌声を聞いていると、日々の辛さや屈辱が、少しだけ和らぐ気がした。


その時、庭園の奥から、複数の足音が聞こえてきた。カイは思わず身構える。見慣れない男たちが、数人、庭園へと足を踏み入れてくる。彼らの顔は、フードで深く覆われていてよく見えない。だが、その身に纏う気配は、明らかに「敵意」を帯びていた。


「聖女様、危ない!」


カイは考えるよりも早く、物陰から飛び出していた。男たちは、一様に驚いた表情を浮かべる。


「何だ、このガキは!?」


「邪魔だ!退け!」


男たちは剣を構え、カイに襲い掛かってきた。カイは、咄嗟に持っていた訓練用の木剣を構える。だが、相手は本物の剣。まともに戦えば、勝ち目はない。


一本の剣が、カイの顔めがけて振り下ろされる。カイは必死に避けたが、頬を掠め、熱い痛みが走った。血が滲む。


「うっ!」


「ちっ、しぶといガキだ!」


次々と襲い掛かる男たち。カイは、ただひたすらに聖女リリアーナを庇うことだけを考えていた。身体が、勝手に動いていた。


その時、背後からリリアーナの悲鳴が聞こえた。カイが振り返ると、別の男が、リリアーナの喉元に短剣を突きつけている。


「動くな!この女の命が惜しければ!」


男は、ニヤリと下卑た笑みを浮かべた。リリアーナの顔は、恐怖に引きつっている。


「聖女様っ!」


カイは焦った。どうすればいい。この状況で、自分に何ができる?身体は限界を迎えつつあった。視界が霞む。


その時、カイの脳裏に、ゼノン隊長の声が響いた。


「お前のような無能が、この神殿騎士団にいること自体が、聖なる光を汚しているんだ!」


そして、リカルドたちの嘲笑。


「聖女様の護衛なんて、夢のまた夢だな」


――無能。そうか、俺は無能なのか?このまま、何もできずに、聖女様が傷つけられるのを、見ているだけなのか?


その瞬間、カイの全身を、形容しがたい熱が駆け巡った。それは、怒りにも似た、しかしもっと深く、根源的な力。


「……俺は……無能なんかじゃない……っ!!」


カイの瞳に、これまで見たこともない、鋭い光が宿る。彼の身体から、青白いオーラが溢れ出した。それは、聖なる光とは異なる、もっと荒々しく、力強い波動。


男たちは、カイの変化に目を見開いた。


「な、なんだ、コイツは!?」


「バケモノか!?」


カイは、短剣を突きつけている男に向かって、地面を蹴った。驚異的な加速。男が反応するよりも早く、カイは木剣を横薙ぎに振るった。


「ぐあっ!?」


男の腕に、木剣が叩きつけられる。その一撃は、まるで鋼鉄の棒で殴りつけたかのような衝撃だった。男は短剣を取り落とし、腕を押さえて蹲る。


そして、カイは流れるような動きで、次の男へと向き直った。その目は、獲物を狙う猛獣のように、一点の曇りもなく相手を捉えている。


「くそっ、囲んでやれ!」


残りの男たちが、一斉にカイに襲い掛かってきた。だが、今のカイには、彼らの動きがスローモーションのように見えた。


一本、また一本と、剣が振り下ろされる。カイは、最小限の動きでそれを躱し、懐に飛び込むと、木剣を正確に、しかし容赦なく、男たちの身体に叩き込んだ。


鈍い音。骨が軋む音。男たちは、次々と地面に倒れ伏していく。


そして、最後の一人。彼は恐怖に顔を引きつらせ、後ずさりする。


「ひっ……ひぃっ……!」


カイは、その男に向かって、静かに木剣を突きつけた。彼の顔には、怒りも憎しみもない。ただ、静かな決意だけが宿っている。


「……二度と、聖女様に手出しはさせない」


男は、そのまま気を失って倒れた。


カイは、荒い息を整えながら、ゆっくりとリリアーナの方を振り返った。リリアーナは、呆然とした表情で、カイを見つめている。その瞳には、驚きと、そして微かな畏怖の色が浮かんでいた。


カイの身体から、青白いオーラがゆっくりと消えていく。と同時に、全身を襲う激しい倦怠感。


「聖女様……ご無事ですか……?」


カイは、その場に膝をついた。訓練用の木剣が、カランと音を立てて地面に落ちる。


リリアーナは、言葉もなく、ただカイを見つめていた。その金色の瞳が、ゆっくりと潤んでいく。


「あなた……なぜ……」


彼女の震える声は、感謝か、それとも混乱か。カイには、もうそれを判断するだけの力は残っていなかった。彼の意識は、急速に闇へと沈んでいった。


次に目覚めた時、カイは知らない天井を見上げていた。清潔で、しかしどこか見慣れない部屋だ。


「……ここは……?」


身体を起こそうとしたが、全身がひどく痛んだ。特に、右腕がずきずきと疼く。


「目が覚めましたか、カイ様」


優しい声に、カイはそちらを向いた。そこに立っていたのは、美しい女性だった。金色の髪に、深い緑色の瞳。神殿騎士団の制服を身につけている。彼女は、聖女リリアーナの側仕えを務める、アメリアだった。


「アメリアさん……」


「無理に動かないでください。あなたは昨日、聖女様を庇って深手を負われたのですから」


アメリアの言葉に、昨日の出来事が鮮明に蘇る。男たちとの戦い、そして、あの得体のしれない力。


「聖女様は……?ご無事でしたか?」


「はい。あなた様のおかげで、聖女様はご無事です。すぐに神殿騎士団の増援が駆けつけ、残党も捕らえられました」


安堵から、カイは大きく息を吐いた。


「そうですか……よかった……」


「ですが……あなた様は、一体……」


アメリアの視線が、カイの右腕に向けられる。そこには、白い包帯が巻かれていた。


「あの時、あなた様の体から、不思議な光が……」


カイは言葉に詰まった。あの力については、自分自身でもよくわかっていないのだ。


その時、部屋の扉が開き、数人の人物が入ってきた。


真っ先に目に入ったのは、神殿騎士団の総長である、レオニダス総長だ。彼の隣には、団長のオスカー、そして、カイを日々罵倒していたゼノン隊長もいる。そして、なぜかリカルド、レオナルド、セシルの姿も見える。彼らは、カイを見るなり、一様に複雑な表情を浮かべていた。


そして、彼らの中心に立つのは――聖女リリアーナだった。


リリアーナは、カイの姿を見ると、ゆっくりと彼に近づいてきた。その瞳は、昨日見たような怯えの色は消え、まっすぐとカイを見つめている。


「カイ……」


リリアーナの声は、昨日よりも、ずっとしっかりとしていた。


「聖女様……」


「話は聞きました。あなたが、私を、命がけで護ってくれたと」


リリアーナの言葉に、カイは思わず視線をそらした。自分はただ、必死だっただけで、そこまで大それたことをしたつもりはない。


だが、リリアーナは、カイの顔をしっかりと見据え、深々と頭を下げた。


「心より、感謝いたします。あなたの勇気と献身に、私は救われました」


聖女の深々と頭を下げた姿に、カイは戸惑いを隠せない。周囲の騎士たちも、驚きの表情を浮かべていた。特に、ゼノン隊長は、まるで信じられないものを見たかのように、目を丸くしている。


「聖女様……頭をお上げください……」


「いいえ。あなたは私の命の恩人です。そして……あなたのその力、一体何なのですか?」


リリアーナの質問に、カイは再び言葉に詰まった。


その時、レオニダス総長が口を開いた。


「カイ殿。我々も、先ほど報告を受けました。あの得体の知れない力、貴殿は一体どこで、そのようなものを……」


総長の言葉には、疑惑と、そして警戒の色が滲んでいた。聖なる力とは異なる、未知の力。それは、神託都市エクレシアにとって、脅威となりうる可能性もある。


「わ、私にも、よくわかりません……。気がついたら、身体が勝手に……」


カイは正直に答えるしかなかった。あの力は、彼の意思とは関係なく発動したのだから。


「ふむ……。しかし、その力が、聖女様をお護りしたことは事実。これは、神の御導きかもしれぬ……」


レオニダス総長の言葉に、周囲の騎士たちがざわめいた。神の御導き。それは、つまり、カイの力が、聖なるものと認められる可能性を意味する。


その時、リカルドが、一歩前に進み出た。


「総長!しかし、彼は平民出の騎士見習いです!それに、あの力は聖なる光とはあまりにも異質です!万が一、邪悪な力であったとしたら……」


リカルドの言葉に、レオナルドとセシルも同意するように頷く。


「リカルドの言う通りです!あんな得体の知れない力を、聖女様の傍に置くなど、危険すぎます!」レオナルドが声を荒げた。


「そうよ!ひょっとしたら、あの力で聖女様を傷つけようとしたフリをして、取り入ろうとしているのかもしれないわ!」セシルも追撃する。


カイは、彼らの言葉に胸を締め付けられた。やはり、自分は信用されていない。彼らにとって、自分は永遠に「無能」で「異質な存在」なのだと。


その時、リリアーナが、彼らの言葉を遮るように、静かに、しかし力強く言った。


「いいえ。カイは、私を救ってくれました。そのことだけは、揺るぎない事実です」


リリアーナの言葉に、部屋の中が静まり返る。彼女の言葉には、確固たる意志が宿っていた。


「私は、カイを、私の護衛騎士に任命します」


その言葉に、レオニダス総長も、オスカー団長も、そしてゼノン隊長も、目を見開いた。リカルドたちは、あからさまに不満そうな顔をする。


「聖女様!?しかし、それは……」オスカー団長が慌てて口を挟んだ。


「これは、神の啓示です。彼の力は、私を護るために存在している。そう、確信しました」


リリアーナの決意に満ちた瞳は、誰の反対も受け付けない、という強い意思を宿していた。


レオニダス総長は、しばらく沈黙した後、ゆっくりと息を吐いた。


「……聖女様が、そこまで仰るのならば。承知いたしました」


総長の言葉に、リカルドたちは悔しそうに唇を噛み締めた。ゼノン隊長は、まだ信じられないといった表情で、ただカイを見つめている。


カイは、リリアーナの顔を見上げた。彼女の瞳は、自分を信じ、そして期待している、そんな光を宿していた。


「カイ。これからは、私の盾となってください」


リリアーナの言葉は、彼の心に、今まで感じたことのない、温かい光を灯した。


無能と蔑まれた少年は、今、世界の希望たる聖女の盾となる。その運命が、ここから大きく動き出すことを、この時の彼はまだ知る由もなかった。

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