花天月地【第10話 龐統】

七海ポルカ

第1話




「……龐統ほうとう





 静かに、呼びかける。


 目を閉じていた龐士元ほうしげんはゆっくりと、瞳を開いた。


 黒い瞳の中に篝火の光が映り込み、揺らめいている。



「……わたしを呼びましたか?」



 陸遜りくそんは言った。


「ああ」


 龐統は答えた。

 陸遜は一度目元を拭い、辺りを見回す。

 しょくの本陣。人の気配が無い。

 静まり返っている。



「……ここで何をしているのですか?」



「お前を待っていた。

 来るだろうかと思ってな。

 来るとしても、色々な形がある。

 お前の使者が来るかもしれない。

 軍勢でなだれ込んでくるかもしれない。

 誰かを連れて来るかもしれない」



「――私は、一人で来ました」



 はっきりと陸遜が口にする。

 一瞬、龐統が瞳を輝かせたように思えた。


「ああ。お前は一人で現われた」

「龐統。望みは何です」

「……。」


「貴方は南郡なんぐんの戦いで本来ならば出会わなくていいしょく軍と呉軍を戦場に導き、衝突させた。

 私はそれは、愚かであると貴方に伝えたはずです。

 貴方は賢く先を見通せるのに、それなのに失われないでもいいものを失わせるなど、愚かであると。

 貴方がそうしなければ、孫策そんさく様は片腕を失っていなかった。

 片腕を失っていなければきっと赤壁せきへきで、魏延ぎえん将軍に討たれることも無かった。

 討たれることもなかったら、あの方は周瑜しゅうゆ様ともう一度――、」


 涙が込み上げ、だが陸遜は目を強く見開いたまま、それは零さなかった。


 周瑜は、そんなことはこだわりはしなかったはずだ。

 もう一度孫策に会いたかったなどとは。

 もう一度などと願うくらいなら、永遠に共にいたいとそう願うだろう。


 だからそんなことは、小さなことなのだ。


 陸遜は信じた。


 信じることでしか失うことに対する問いを、否定出来ない。

 だから信じることは必要だ。

 自分を見失わないために。


 自分の心を。


「……また今宵ここで同じことをして、災いを成したかったのですか。

 次は私を、片腕にでもしたいと?」


「……。」


「そうではないと思うから、私は貴方に問いかけてる。

 龐統。

 私は、あのまま軍を撤退させればいいと分かっていた。

 貴方は呉軍を無事に麓まで帰したはずです。

 私はそうすれば良かった。


 ただそうしたら、二度と貴方とこうして向き合う機会は失われるような気がしたのです。

 貴方が私を呼んだのは、今宵一度きりだと。


 もう二度と貴方は私を呼ばないはずだと。

 この陣を見て、自分でここまで歩んで来て、

 今日という日の貴方のそういう決意を、私はこの身で感じ取った。

 だからここに一人でやって来たのです。

 だから、貴方にもその心に応えて欲しい」




「――……赤壁の戦いの後」




 ようやく龐統が口を開いた。



「私は成都せいとに向かった」



 陸遜は龐統の一言一句を聞き逃さないよう、集中した。


孔明こうめいに会って、話した。

 私がずっと想像していたように、私と正反対の空気を持つ穏やかで物静かな、だが明るい気配を纏う男だった」


 一瞬、息を呑む。

 

 そうか、龐統は諸葛亮しょかつりょうと一度も会ったことがないのだったと、陸遜はその時初めて気づいた。


 赤壁で陸遜の剣の前に飛び出してきた時、あの時彼は初めて、諸葛亮を見たのだ。

 出会った。

 そして出会い頭に彼の為に自分の命を投げ出して、陸遜から守った。



「……諸葛孔明しょかつこうめいに会って……どう思いました」



 龐統にとっての『星』であり、

 世界のたった一人である。




「…………なにも」




 風が山頂を通り過ぎた。


 ガタン、と強い風に奥に立っていた篝火が地面に倒れる。


 何気なくそっちに視線をやり、地面に火の粉を散らした篝火の木を目で追い、そのまま暗がりの地面を滑るように見て、陸遜は龐統の足元から、自分の足元までをゆっくり見遣る。

 靴をずらすと、薄い水面が揺れた。



「……龐統。……今宵は満月で――――朝から雨は一度も降らなかったはずだな?」



 陸遜が、腰に収まっていたもう一つの剣をゆっくりと抜き、双剣姿になる。


 油だ。


 本陣中に油が撒いてある。


 篝火が禍々しく、輝いていた。



「何故お前の足元が濡れている⁉」





「――――孔明は、私を知らなかった」





 龐統は陸遜の質問に答えなかった。

 別のことを言った。

 陸遜は眉を強く寄せた。


「え……?」

「いや……存在は知っていたが、とうに忘れ去っていたと言ったよ」


 

 ――わすれた。



 その四文字と共に、

 点滅するように先ほど思い出していた陸康りくこうの、

 盧江ろこう城で別れた時の顔と、

 南陽なんようから戻った時に、抱き寄せて労ってくれた周瑜の顔が浮かんだ。

 

 短い文字に走った衝撃、その時の龐統の絶望が、陸遜の胸にも伝わって来たのだ。


 そこからはもう、考えてなど動いていなかった。

 条件反射のように、身体が突き動かされていた。


 陸遜は力の限り地を蹴り上げ、飛び出した。


 篝火を支える燭台の柱を掴んだ龐統の手が視界に入る。


 右より早い、左手の【光華こうか】が閃く。


 


 ――――ザンッ!




 龐統の右手首を、白光に輝く刃が打ち落とす。


 そのままドンと肩で龐統を突き飛ばし、地面に二人で転がった。


 陸遜はすぐに起き上がり自分の上着を脱ぐと、あまりに美しい断面になった龐統の右手を、慌てて上着の布で包み込み、力の限り押さえ込んだ。



甘寧かんねい殿! 来てください!」



 思い切り、静寂の夜に叫んだ。




興覇こうは――ッ!」




 必死に止血する陸遜とは逆に、

 仰向けに倒れた龐統は陸遜の肩越しに、夜空を見上げた。



 満天の星だ。


 目も眩むような、一面の星の海……。



「陸遜!」



 甘寧が駆けつけて来る。


「血を止めて下さい!」


 悲痛な声で陸遜が叫ぶ。


 甘寧は歩み出そうとして、すぐに足元の異変に気付いた。

 しかし陸遜の所にすぐさま駆けて行った。

 事情などは分からないが、事態は把握する。


「陸遜その上着を取って、こいつの口に突っ込め」


 甘寧は黒燿こくようの剣を慎重に、篝火の中に沈めた。


「傷を焼く。舌を噛まないように、押さえ込め」


 陸遜は目を見開いたが、すぐに上着を外して龐統の口の中に押し込んだ。

 彼の頭を、そのまま両腕で強く抱え込む。


 甘寧は龐統の手首のない腕を掴み上げると、その斬られた断面に、一瞬赤みを帯びた剣の刃面を押し付けた。


 ジュッ、という嫌な音がした。

 

 肉の焼ける匂い。


 陸遜の両腕の中で龐統の身体が震える。僅かにくぐもった声が漏れた。

 彼の痛みに同調し、陸遜は必死に自分の力を分け与えるように、龐統を抱く腕に力を籠める。


 甘寧はもう一度剣を火に沈めて、しばらくしてから、もう一度傷に押し付けた。


 断面を見れば分かる。骨ごと綺麗に切断している。

 これが『死線を斬る』とまで謳われる【光華】の切れ味だ。

 

 陸遜が、龐統を斬ったのだろう。



「……もういい、陸遜」



 龐統の頭を抱きしめたまま身体を折り曲げて、しゃがみ込んでいる陸遜の頭を押さえた。

 遅れて淩統りょうとうと、兵達が上がって来る。


「こっちに来るな! 一面油が撒いてある!」


 甘寧が告げると、こっちへ来ようとした彼らが慌てて立ち止まった。


 口の中から布が取り除かれたのが分かった。

 ゆっくり瞳を開くとその瞳の中に、丁度こちらを見下ろす陸遜の琥珀の瞳から零れた大粒の涙が、落ちて染み込んだ。


 目が合うと陸遜は顔を反らして、すぐに手の甲で強く目を拭った。


 甘寧が陸遜の上着で荒療治だが、とりあえず血の止まった龐統の手首を丁寧に包み込み、縛る。


「ちゃんとした手当は城に戻ってからだ。行くぞ」


 甘寧が陸遜に黒燿の剣を差し出した。


 陸遜は剣を受け取って、頷いた。声は出なかった。

 大粒の涙が頬を伝っている。

 赤壁で陸遜の泣き顔は見たが、これはまた違う涙のような気がした。


 龐統を斬ったことが、それほど陸遜の中で怖いことだったのか。


 ……怯えたような顔だ。


 赤壁の涙は、悲しみだった。

「泣くな。お前のせいじゃない。」

 甘寧が陸遜の髪を、くしゃくしゃと掻き回す。

 龐統を抱え上げ、本陣から退避した。


「このまま撤退する。淩統、先に行け。出来るだけ早くだ」

「……分かった。陸遜様その剣をこちらに。俺が持ちます」


 淩統は陸遜の手から剣を受け取り、まだざわめいている兵達に「撤退する!」と号令をかけた。

 一団が動き出す。


 側に落ちていた自分の剣二本、【銀麗剣ぎんれいけん】【光華こうか】を腰の鞘に戻した。


 自分の手を見下ろす。無様なくらい、震えていた。


 咄嗟だったのだ。


 自分も龐統も、一瞬で火の海に沈むと思ったから、何とか止めようと思った。

 剣を握っていたから、篝火を倒そうとした龐統の手を、切り落とすしかなかった。

 当て身などでは間に合わなかった。

 陸遜が最も得意とする左からの一閃。

【光華】しか、間に合わなかったのだ。


 震えている自分の手を、陸遜は押さえ込んだ。


 龐統はあそこで死ぬつもりだったのだ。

 そして自分を呼び寄せた。


(……私を道連れにしたかったのか?)


 甘寧に抱えられている龐統を見ると、ぎくりとする。

 龐統も陸遜を見ていた。


「……何故私をそんな目で見る」


 陸遜は手を押さえたまま、聞いた。


 龐統の瞳が優しく思えた。

 光あるように思えたから、そんな目を見たらまた全てが分からなくなると、陸遜は警戒した。

 

 甘寧が陸遜の声に気づき、肩越しに振り返る。

 もう分からないのは嫌だ。


「私を憎んでいるのか龐統」


 憎まれるのが怖いんじゃない。

 陸遜は生憎、憎まれることには慣れていた。


 一番彼にとって身近な陸家が、まず彼を憎んだ。

 陸康りくこうを討った孫策――孫家に帰順することを陸遜が決めた時、

 それを一族に伝えると、彼らがまず陸遜を憎んだ。


 陸康は我が子のように陸遜を育てたのに、盧江ろこう城で次の一族の長として、自分の息子の陸績りくせきではなく、陸遜を指名するほど彼を重んじたのに、その彼が陸康を殺した孫策に膝をつくことを選んだ。

 それを、強い裏切り行為だと彼らは感じたのだろう。


 建業けんぎょうに行っても、憎まれることは多かった。


 若いのに取り立てられていると、年上の文官達に憎しみの顔を向けられることがあった。

 武官でもそういう人間はいる。


 ――実際の所、人間は人間を愛するよりも、憎むことの方がずっと多いのだ。

 

 それは陸遜の印象だった。


 だから憎まれることを恐れていては生きてなどいけない。

 憎まれることが問題なんじゃない。憎む人間はさして珍しくもない。

 

 だが誰に憎まれるかが問題なのだ。


 今の陸遜にとってこの世で唯一、この男にだけは憎まれることは無いと思えるのが、龐統だったからだ。

 

 陸績に心を遠ざけられることだってあるかもしれない。

 甘寧に失望されることだってあり得る。

 孫権そんけんの期待を裏切ることだってあり得るだろう。


 だが龐統だけはないと、陸遜は思えた。


 それは彼の為に、自分自身が動いたという自負があったからだ。

 時と心を費やしたと。

 

 恩を着せることで自分が救われたいわけでは無かったが、それでも今までに出会った誰よりも龐統には心を砕いて来たと、自分で思っていたから。


 周瑜に言われても、

 甘寧に言われても、

 誰に建業けんぎょうから追い出せと言われても、

 陸遜は龐統を庇い続けた。


 それを、龐統にはもう十分に仇で返されたはずだ。


 これ以上命まで求められる謂れは何一つなかった。

 龐統に対してだけ、陸遜はそう思えた。


「私は貴方に命まではやれない。

 やる必要もない。

 やる気もありません。

 渡してもらえると、思ったのですか」



「……お前はここで死ぬ運命にはない」



 龐統が静かに返した。

 不意に返して来たので、一瞬陸遜は驚いた。

 彼はいつものように答えないと思っていたからだ。


「それは星が指し示していること。

 私がここで何をしようと、

 お前の星を落とすことは出来ない。

 それは私には分かっていた」


「ではなぜこんなことを!」


 甘寧が手で制して来た。


「…………なんかキナ臭くねえか?」


 陸遜は甘寧を見上げる。


「全軍止まれ!」


 ビィン、と彼の声が響き渡った。

 一度、龐統を下ろす。


「やっぱり匂うな……。火の匂いだ。

 ――淩統! 俺の剣を貸せ!」


 九十人の軍勢が一斉に立ち止まり、周囲を警戒する。


 淩統がやって来て、甘寧に剣を渡す。



「――――甘寧将軍!」



 ザッ、と頭上の茂みが大きく動いた。

 鳥のように現われた山越さんえつ兵が叫ぶ。


「ここより東の山道あたりから、火の手が挙がっています!」


「なんだと⁉」


 兵達がざわめいた。

 甘寧が咄嗟に龐統の胸倉を掴み上げる。

「龐統! これもてめぇの仕業か⁉」


「炎……」


 龐統は腕を抱えたまま、呟いた。


「龐統!」


 陸遜が顔を覗き込む。

 その表情で、すぐに分かった。


「甘寧殿。違います。これは龐統の仕掛けた罠ではない!」


 甘寧が舌打ちする。


「炎はどこから来る⁉」

「ここより東の山道、下です」

「全軍、すぐに中腹まで駆け下りろ! この陣に火が付いたら一瞬で全員燃え上がるぞ!」


 甘寧が命令を飛ばす。


「全力だ! 今日は風が早い。風下に立てられたら煙に包まれる!」




 ――――シュッ、




 風を切る音に、反射的にすぐさま身構えていた。


 びしり、と矢が足元に立つ。


「敵がいる!」


 陸遜が収めたばかりの【銀麗剣】を引き抜いた。


 まず動いたのは頭上に潜んでいた山越部隊だった。

 彼らはこの【剄門山けいもんさん】の陣に突入してからずっとそうだったように、躊躇いを見せず、果敢に敵に向かって枝木を蹴り上げ、飛んで行く。


 陸遜と淩統が駆け出したのは同時だった。


虞翻ぐほん! 丁奉ていほう! 軍の指揮は任せた! 

 いいか、これは龐統の罠じゃない。炎を振り切れば安全な所まで逃げ切れる。

 応戦は考えず、お前らは逃げろ!

 道は分かるな!」


「お任せを!」


 丁奉の大きな影が、前方で手を上げた。


 側にいた虞翻も拱手きょうしゅで応える。

 彼は地に伏せた龐統を見下ろした。


「……こいつのことは俺に任せろ」


 甘寧が声を掛ける。

 虞翻は甘寧の顔を見上げると、数秒後、陸遜が駆けて行った方を見た。


「……。陸軍師をどうぞよろしくお願い致します」


 甘寧が頷き、虞翻の背を押し出した。

 一団が急いで遠ざかっていくと、甘寧は龐統を見下ろす。

 しゃがみ込んで、もう一度龐統の胸倉を強く掴み上げ、身体を引き起こした。


「龐統。俺はお前を一切信じてねえ。

 俺の前に現われた時から、お前は信用ならねえと思い続けて、

 あいつにもそう言い続けて来た。

 それは今この瞬間も変わっちゃいねえ。

 ……俺からすれば、手首一つなんてあいつは生易しすぎるくらいだ。

 俺は二度も自分に歯向かう奴は、必ず殺す。

 簡潔に答えろ!

 龐統、お前は生きたいのか、死にたいのか」


 甘寧が龐統の胸倉を掴む手に力を籠める。


「死にたいのなら俺が今ここで殺してやる。

 死にたいのなら、この俺に願え。

 俺なら喜んで、お前なんぞ躊躇いなくぶっ殺してやる。

 だが、あいつはお前の死を望んじゃいない。

 敵になった今もだ。

 ――――あいつに求めたり、これ以上卑怯な真似をするな‼」


 龐統は目を閉じている。


「答えろ!」


「……【放浪の星】は歩み続けることで、輝きを増すことが出来る」


「あぁ⁉」


「忘れるな。歩み続けることだ。

 立ち止まれば輝きは薄れ、力も失われる」


「てめぇ……まだんな訳の分かんねえことを……」


「力があれば守ることが出来る。

 天の定める全ての災いを弾いて、己の手の中にあるものを。

 流れる星は運命の轍を断つ。

 悪しき因縁も、尊い因縁も、全ては流星の思いのままに」


 甘寧は強く眉根を寄せたが舌打ちをして、龐統を放した。


「いいか! てめぇはそこ動くなよ!」


 駆け出して行く。


 龐統はゆっくりと仰向けに寝たまま、自分に残された一つの手を動かした。



「……私の手の内には、何も無かった。

 守るべきものか……?

 それとも、力そのものか……?」


 

 薄く瞳を開けば視線の先、樹々の合間高く――月が見える。


 

「…………孔明こうめい、まだ私を高みから見下ろすのか」



 顔を反らし、身じろぐ。

 負傷した腕に激痛が走り、彼は呻いた。

 歯を食いしばった時、何かが耳に届いたのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る