北条寺 美織(左翼手、22歳、左投左打)(前編)

 テストステロン値という言葉がある。性ホルモンの一つであり、スポーツにおいても重要な指標となっている。

 この数値に北条寺は苦しめられてきた。この数値が判明する前は、彼女は一流のアスリートとして界隈では知らぬものがないほどの活躍をしていたというのに。

 北条寺は女子スポーツ界、特にソフトボールで活躍した。中学生のころから陸上競技で頭角を現し、100m走で12秒前半をマークするという抜群の健脚を発揮した。高校生になってからはソフトボールでも活躍し、足を生かして盗塁に、全身を使ったスイングで長打を飛ばしと、注目を浴びた。圧倒的な成績は彼女が優れた選手であることの証明であり、何度もテレビや雑誌にとりあげられるほどであった。

 身長162cm、女性アスリートとしてはやや低目だがそこは才能と努力でカバーできると信じ、大学ではソフトボールに専念。実際に長打を量産し、チームへ貢献したつもりであった。だが国際大会に出場する際の検査で、テストステロン値が判明した。


「言いにくいことなんだが、北条寺。テストステロン値が大会基準値を超えていたそうだ、お前は出られない」

「はぁ……?」

「私もおかしいとは思うが、大会ルールがそうなっている」


 監督から言われた言葉を理解できず、自分が何らかの不都合で試合に出られないということを通告されたということさえ、すぐにはわからなかったくらいだった。

 しかしこの事実が界隈の雑誌や一部テレビで報道され、北条寺のソフトボールキャリアは終わった。彼女自身もそれを受け入れざるを得ない。

 それまで彼女に向けられていた尊敬や、寄せられていた期待がすべて反転。侮蔑と罵倒が襲い掛かってきた。北条寺自身は生まれもった自分の体を鍛えて得た力だけで戦ってきたつもりだったが、実はそれがルール違反であったと責めたてられる。

 なぜなのか。テストステロンは筋力や骨密度といったものを増加させやすくするホルモンとされており、これは女性よりも男性に多いものである。このため、女子スポーツではこの値が高いと出場を認められなかったり、競技結果が認められなかったりするのだ。はっきり言ってしまえば、男性ホルモンが多いので女性アスリートとは認められないということになる。少なくとも、北条寺の場合はそういう扱いを受けた。


『女子ソフトボール北条寺、生物学的には男だった!』

『トランス女子選手がソフトボール界を蹂躙していた』


 そんな見出しが各種スポーツ新聞を賑わし、記者たちが下世話な好奇心を煽ろうと勝手な憶測で煽った。

 全くそんな事実はないのに、北条寺はいつの間にか男性でありながら女性といつわってソフトボール界を荒らしていたことになり、北条寺のSNSアカウントは大炎上。

 ささやかに日々の練習や試合予定を報告していただけのアカウントには、正義の名のもとに攻撃が行われ、北条寺のスマホにはその通知が鳴りやまず、それが話題を呼んでさらなる攻撃を促した。


『不正だ!』

『これを認めているチームもカス』


 などと直接的なコメントもかなりの数になったが、メンションがなくとも遠回しに皮肉る投稿はそれ以上に多かった。それらも関連付けられて北条寺に通知されるため、完全にスマホの通知はパンクした。日が経てば収まるかとも思ったが、一週間経っても炎上はおさまらず、それどころかますます拡大していく。

 この間北条寺のSNSは一言も発言しなかったため、言われ放題になっていた。沈静化どころか釈明も謝罪もなしということで『逃げ』ととらえられてしまったのである。

 そろそろ大丈夫か、と思って久々に開いてみた彼女のアカウントには、


『一度死んで、女性に生まれ変わって出直してきたらどうだ』

『こんなやつがいるから本当のジェンダーの肩身が狭くなる。早く死んでほしい』


 などという殺害予告に等しいようなメッセージがハリネズミのように突き刺さっていた。北条寺はその場でSNSアプリを削除し、ついでとばかりにソフトボール部も退部した。

 その後は誰にも何の相談もせず、住所も引き払い、大学へは退学届を出し、有り金全部をもって行先も決めずに電車に乗り込み、意味もなく各地をぶらぶらとし続けた。海にいき、山にいき、古い神社や大きな寺へ行き、それから聞いたことのある地名へ近づいて、結局行かなかったりした。

 誰とも口を利きたくなかった。家族でさえも、親でさえも、何か話そうものなら取り返しのつかないことを言ってしまいそうな気がしたからだ。


「誰がこんなカラダに生んでくれと言った!」


 そんな最悪の一言が今にも口をついて出てしまいそうだったから、家族にも連絡はとらなかった。全てから距離を取って、自分を誰も知らないような、そんな土地に行きたかったのだ。

 ただ北条寺は怒ってはいたが、絶望はしていない。死のうなどとは露ほども思っていなかった。

 彼女にとっては、テストステロンなどという得体のしれないものを理由に、自分を追い出したソフトボールは憎悪の対象となり果てている。


(私の体は女子の体じゃないとか。ルール違反だとか。うるせえ、そんなんだったら私だって男に生まれたかった!)


 どこに行くのかも知らない特急電車の中で、北条寺は缶ビールをグビグビと飲んでいた。もちろん、アスリートとしてこういったものは摂取しないほうがいいのだが、到底我慢ができる状況ではなかった。


(どいつもこいつも、私のことを知ったように好き勝手言いやがって。どうすりゃ黙るんだ。生きてるだけでルール違反とか言われる気持ちを考えたことがあるのかよ)


 ビールがなくなったところで、北条寺は電車を降りた。どこともわからない、ほどほどに内陸の駅だった。都会というほど都会でもないが、田舎というほど田舎でもない。駅は自動改札であり、SUICAが使えた。駅の近くには商店街があり、山林が見えている。

 駅名を見ても、全く聞き覚えのないものだった。


「どこだここは」


 スマホを開けば即座に答えが出るのだが、それすら面倒だった。ぶらぶらと北条寺は駅から出て、今夜寝るところを探した。さすがにいくらアレコレ言われたといっても北条寺の性自認は女だから、野宿は遠慮したかったのだ。

 すでに九月も終わりに近づいている。風も冷たくなりつつあった。金もあるのに野宿して風邪でも引いたら笑えない。まだ日は高いが、どこかに何かないものか。北条寺は駅から離れてズケズケと歩いて回った。

 そのうちに、看板が目に付いた。使い捨ての安物の材料で作られたものだが、大きい。いわゆる捨て看板のようだった。「天六コーギーズ 入団テスト会場」と書いてある。弱小球団がプロテストを行っているようだった。

 北条寺はなんだ、どこかの野球チームかと目をそらした。そして通り過ぎて、コンビニに入ってビールを買い足し、そして看板のところへ戻ってきてしまった。


(野球! プロ野球! 女子プロじゃない、ほとんど男だけのやつか! ここでもしも私が通用したら、そのときはテストステロンなんてケチなことでルール違反なんて言われないだろう! どうせ女子スポーツができないんなら、ここに突っ込んでいってやってもいいんじゃないか。これ以上どういう恥をかいたって、今より最悪なんてことはないだろう!)


 ぐぐ、と北条寺は唸った。決意と闘志が何か腹の底から燃えてきて、心の蓋をこじ開けようとしている気がした。

 ビールのプルタブを開けて、中身を一息に飲み込んだ。炭酸を飲み込み過ぎて、げっぷが豪快に漏れるが、気にもしない。そんな余裕もない。

 受付終了時間までは、まだギリギリ間に合う。


(行ってやる。酒臭いと断られたら、そんときは縁がなかったってことだ)


 律儀にもコンビニに戻って缶を捨ててから、北条寺はそのまま会場に向かった。もちろん運動着も何も全く持っていない。

 後から考えればかなり無茶苦茶なことだったが、そのときは酒の勢いもあって北条寺は人生の一大決心をしたつもりでいた。ソフトボール一筋にやってきた北条寺にとって、似ているとはいえ野球はほとんど未知の世界だったからだ。

 しかし会場についてみれば、もちろん球団の人間も驚いただろうが、北条寺のほうも驚かされた。会場となっていたのはおそらく二軍の球場なのだろうが、完全に老朽化しきっていたのだ。

 受付をしていたのはその入り口だったが、あちこち錆びついた長机にセロテープでコピー紙をつけただけという有様。そこにパイプ椅子で腰かけた球団職員らしき人物が受験する人々を待っている。全然にぎわっていない。


(ちょっと待てよ。なんだこのみすぼらしい施設は。大学の女子ソフトボール部だってもうちょっとマシな設備だったぞ。これがプロの球団なのかよ)


 そう思って躊躇していたのだが、受付の一人が北条寺の顔を知っていたらしく、あちらから声をかけてきた。


「失礼ですが、ソフトボールの北条寺さんでは? ここは野球のプロテスト会場で、公開はしていません」

「知ってる。私でも受けられるのか?」

「い、いえ。身長が175cm以上の方が対象でして」

「そこをなんとかできないか」


 やはり身長制限があるらしいが、それ以下の現役選手も大勢いるので無理ということもあるまい。北条寺はゴネてみることにした。するとその職員は少し考えた後、


「まあ、そうですね。一応開催はしてるんですが、4人くらいしか来てませんし、みんなこの入り口を見て帰ってしまいました。監督に聞いてみますね」


 そのように応えて中に走って行ってしまった。北条寺は入り口に取り残される。


「北条寺? あれが噂の?」


 他の職員らしい男たちが何やら囁き合っているのが聞こえた。


「女子ソフトボールの選手なんだろ、なんでウチに来たんだ。どうせ……」

「どうせ、なんだよ? 私が野球をやっちゃ都合が悪いのかよ」


 思わず北条寺は口を出して、その職員を睨みつける。今の北条寺は荒んでいるし、ほとんど化粧もしていない。すっぴんだ。さぞかし怖いだろう。

 服装だって大学に入るときに着ていったものそのままだ。ストライプの入ったハイネックセーターと、ジーンズにレザーのコート。コートはデザインが気に入ったから奮発して買った5万円くらいするやつだ。どこのブランドのものかは知らないが。

 あの職員が言いたいことはわかっている。性別を詐称して女子ソフトボールを荒らして、他の女子選手の機会を奪ったとかそんなことだ。だが北条寺とて、生きているだけでルール違反と言われるなど想定していなかったのだ。それに不公平と言われるくらいならと、こっちから出て行ってやった。これ以上文句を言われる筋合いはないはずだ。

 もっと言ってやろうか。そう思って一歩踏み出したところで、先ほどの職員が戻ってきた。


「お待たせしました。監督は、やる気のある者は入れろとおっしゃっています。どうぞ、運動着は持っていらっしゃいますか」

「ないね。ジャージかなんかあったら貸してほしい」

「女性用の装備は用意がありませんよ。大丈夫ですか?」

「まあ大丈夫でしょ」


 今つけている下着はソフトボールの時からつけているタイトなもので、スポーツにもある程度耐えられる。貸してもらったウェアはかなり大きめのサイズだったが贅沢はいえない。貸し切り状態のロッカーで袖や裾を折り返してどうにかし、グラブをつけてボールの感触を確かめた。

 当然ながらソフトボールよりかなり小さいが、球は何度か触ったことがある。たぶん、大丈夫だろう。

 グラウンドに出てみれば、係員は少なかった。5~6人くらいしかいないのではないか、とも思える。仮にもプロテストなんだから、もっと人数が配置されていていいのではないか。そうも思えたが、現実として現在プロテストを受けているのは北条寺しかいない。


「最初に50m走、次に遠投をしてもらいます」


 案内されてそれらを行った結果、50mは6秒6、遠投は95mまでは飛んだようだ。50m走は自己ベストにかなり近い記録だったが、遠投はもう少し出たはずだった。ビールなんか飲んだせいだ、と後悔したがもう遅い。

 聞いた話では選考基準は6秒台前半、95m以上ということだからギリギリで選考外といったところだろう。

 生物学上男、と根も葉もなく言われても所詮は女ということか。弱小球団のプロテストにさえ通用しないとは。そう思ってウェアを返して帰ろうとロッカールームへ戻ろうとする。

 ビールを飲んだせいで負けたとも思いたくないが、仕方がない。そういう運命だったんだろう、帰る前にもう少しぶらぶらしていくのもいいかもしれないな。

 北条寺はアスリートとして生きていくことをあきらめようとしていた。グズグズしていると、未練になると思える。だから、この場を早く立ち去ろうとしていた。


「ちょ、ちょっと待ってください。帰らないで」


 先ほど案内してきた職員が、北条寺を止めてきた。


「なんで。基準にはいってないんだろ。ここにいる必要はないじゃないか」

「ですが、十分な記録です。守備と打撃も見せてほしいんですよ。そちらがよければきっと見る目が変わります」


 そう言われて、足を止める。諦めのいいのは自分のいいところでもあるが、少しでも可能性があるなら最後まで戦うべきでもある。今は最後までやるべきだった。


「そう。じゃあやっていくよ」


 グラブをはめながらグラウンドに戻ってみれば、係員はざわついていた。


「女子でこれだけやれるなら十分通用しますよ。さぼってる一軍選手より使えます」

「かもな。だがイメージが悪すぎやしないか、今はバッシングがすごいだろ」

「話題はある。知名度も。入れてみる価値はあるんじゃないか?」


 なにやら集まってそんな会話をしているのは、フロント企業や編成部の職員だろう。北条寺を入団させることの是非についてあれこれ勝手なことを言っている。


「あちらへどうぞ。守備位置は?」

「レフト。でも、どこでもいいよ」


 守備は無難にこなした。ソフトボールに慣れていたので硬球は小さく見えたが、それほど困ることもなかった。フライを追って捕球し、ゴロを捕って送球するということを何度かやっただけだ。

 問題は打撃の方だ。ソフトボールよりもずっと遠く、マウンド上から小さなボールを投げてくる。これをきちんと芯でとらえなければ、長打にはならない。


「次は打撃なので、バッターボックスへどうぞ。バットはこちらを」

「えっ、ちょっと待って。バッティングマシンでいいの?」


 案内されてみれば、なぜかマウンド上にはマシンが用意されていて、打撃投手の姿がない。まじめな入団テストなのだから、マシンに投げさせないで人間が投げるのが普通なのでは。そんな質問が思わず北条寺の口から出たが、職員は首を振った。


「マシンが投げたほうが公平でしょう」

「いや、それはそうだけど」


 まあいいか、と打席に立った。肩の力は自分でも驚くほど抜けていた。緊張感も何もない。

 もしダメだったらどうしよう、という心配もほとんどなかった。そのときはもうちょっとブラブラして、実家に帰るか。運動ばかりで全然勉強はしてこなかったが、フィジカルには自信があるから職も見つかるだろう。そんな具合だった。

 考え事をしている間に、マシンの調整は終わったようだった。


「10球投げますから、自由に打ってください」

「わかった」


 マシンから吐き出された一球目は、北条寺の予想よりもずっと切れ味がよく、そして真っすぐに飛んできた。へぇ、とぼんやり眺めている間にホームベースを通り過ぎて、設置された網にぶち当たっていく。


(結構遠くから来るんだな。でも、今の球と同じものが来るのなら打てる)


 これでも長打で鳴らしたという自信があった。

 吐き出された二球目に、歯を食いしばってフルスイング。狙い通り、球の中心へ完全なインパクト。そのまま腰の回転と遠心力でバットを振りぬけば、もう打球はどこへいったか見えない。

 見えもしなくなった打球の行方を追うことはしないで、北条寺は三球目に備える。

 三球目も思い切り振って、とらえる。全く同じボールで、全く同じ位置に投げ込まれてくるので簡単だった。

 次の球も同じように思い切り叩いて飛ばしたところで、ストップがかかった。


「ちょっと待ってください。相談しますから」

「ああ、いいよ」


 北条寺は軽くを息を吐いた。ボールがどこに飛んで行ったのかは見ていないが、たぶん外野には行っただろう。ソフトボールでならホームランの感覚だった。

 ダグアウトのベンチでしばらく待たされたのち、やってきたのは年取った白髪の男だった。ユニフォームも着ているのでたぶんコーチか監督だろうと北条寺は推測し、頭を下げた。


「よく来てくれた、二軍監督の上坂だ。君のバッティングを見させてもらっていた。例年だと一人か二人くらい、冷やかしが来るくらいなんだが、今年は君のような有望な若者が来てくれて嬉しいよ」

「い、いえ。たまたま看板を見つけたので」

「たまたまか。かといって、冷やかしというわけでもないだろう。素晴らしい成績じゃないか。だが、大学の方はどうしたのかね。君は大学ソフトボールで活躍していたはずだが」


 二軍監督の上坂は、新聞の記事やニュースは知っているようだったが、今の北条寺のことは詳しく知らないようだった。

 そこで北条寺は自分に何があったのかをかいつまんで話す。なるべく感情を入れないようにして。


「思い切った選択をしたものだ」


 事情を聴き終わった上坂はそんな風に言って、それから北条寺の首元から肩、腹、太もものあたりをじっと観察するように見た。下卑た目線ではない、ただ筋肉の質や体格を確認するようなトレーナーの目だった。


「なんです?」

「いや医学の進歩も良し悪しだと。それより、君の実力はよくわかった。しかし、今の時代はドラフトを通さなければ入団ができない。君は少し待たなければならないな」

「ドラフトって、あの一位指名とかクジ引きとかの?」

「そうだよ、知ってるじゃないか。今はドラフト外入団が厳しい代わりに、たくさん指名ができるようになっているんだ。私も君は十分に指名に値すると考えている」


 となると、プロテストは合格ということらしい。ほとんど誰もまともに受験しに来ていなかったようだから、戦力不足が深刻なのかもしれないが、とにかく自分はスポーツ選手としてやっていけるのだ。

 北条寺は複雑な思いで自分の胸を見下ろした。ひとまず路頭に迷うことは避けられたが、この選択が正しかったかどうかはわからないのだ。それに、球団に入るとなればどうしたって好奇の目には晒される。大学スポーツとは違って、社会人としての契約もしなければならないだろうから、球団の意向でどういうことをさせられるかもわからない。

 しかし、そうしたことがあったとしても、あのまま女子スポーツをルール違反で荒らしたと言われるよりはマシだ。


「球団は君を歓迎する。だが、君の怒りにまでは同意するわけではない。たまたま君がやってきたから、戦力として利用するだけなんだ。もしも君がプロ野球選手として何か政治的な発言をしようとしているなら、それはあきらめたほうがいい」


 念を押すように上坂が言ってくるが、そんなことは期待していなかった。北条寺はただ、自分が活躍しても文句を言われない環境が欲しかっただけだった。


「そんなのはいりませんね。私には言いたいことなんか何もない。もうソフトボールをしたいとも思ってない、って言ったらちょっとウソだけど、誰にも文句を言われないで戦えるのなら、それでいいです」

「わかった。なら、もう少し待ってくれ。君にはバッティングマシンの球では物足らないだろう。打撃投手を呼んでいるんだ、次のシーズンから転向するんだがな。あと、捕手も」

「はあ」

「つまり、俺にもう少し君の力を見せてくれと言っとるんだが、どうだ。やってくれんか」

「いいですよ」


 どうせこの後の予定もない。今夜の宿を探すくらいだ。ちょっと遊ぶくらいはかまわないだろう。

 上坂は打ち合わせがあるからとダグアウトから出ていき、北条寺はまたしてもベンチに一人で取り残される。スマートフォンはロッカールームに置いてあるので、ヒマつぶしの手段が何もない。グラウンドでヒマそうにしている係員たちをぼんやりと見ていたが、やがてダグアウトの奥から声をかけられた。


「こんにちは、捕手の六道です。今日はよろしくお願いします」


 そう言われて振り返ってみれば、まるで中学生のような、北条寺よりも背の低い童顔の選手が立っていた。選手だとわかったのは単に練習着を着ているからで、そうでなかったら上坂監督の孫かと思ったかもしれない。

 捕手と言った通り、彼はすでにプロテクターなどの防具を着けていた。

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