第3話 雪斎との邂逅
善得寺に通う日々が続いた。
書庫に眠る書物は、見慣れぬ漢文ばかり。
正直、難解極まりない。
だが、かつて健一として理系の世界で論理を組み立てていた経験が、ここで思わぬかたちで役立っていた。
「……この“於レ是”が時の転換点で、“為ニ”が目的語か……いや、これは連結詞かもしれん……」
ひとつひとつの文字を数式のように捉え、仮説を立てて検証する。
その繰り返しで、わずかずつではあるが着実に読解力を深めていく。
そしてある日、彼は『今川仮名目録』と出会った。
(……これは単なる法令集ではない。幕府の権威を離れ、独自の統治理念を打ち立てようとする、いわば“独立宣言”ではないのか)
読み進めるうちに、彼の中で理論の糸が繋がっていく。
旧来の権力構造が形骸化するなか、雪斎という知の巨人が構築した「地方秩序」の試み。それは、明らかに意図された政治思想の表明だった。
その日の講義で、雪斎自らが仮名目録の解説を行っていた。
日吉丸は、つい衝動的に手を挙げた。
「仮名目録の第六条、“徳政令の施行”は確かに領民救済の意志を示しております。しかしながら、発布のたびに貨幣の信用は損なわれ、流通の停滞を招く恐れがあるのではありませんか?」
講堂内がざわめいた。
身分不詳の小僧が、名僧に対し理屈をもって問答を挑むなど、異例であった。
だが日吉丸はさらに踏み込んだ。
他の条文にも言及し、ついには仮名目録の根幹――幕府体制からの思想的自立――に触れる。
静寂が満ちていく。
空気が重く冷たくなり、まるで堂内全体が言葉を呑み込んだかのようだった。
だが雪斎は、ゆっくりと頷いた。
「面白い。……名を、名を名乗れ」
「日吉丸と申します」
「よい問いだ、日吉丸。確かに徳政の乱発は信用を削ぐ。だが、あえて文に記すのは、為政者の覚悟と戒めを残すため。目録とは、理想を綴るだけのものではない。自らを律する書でもあるのだ」
その夜、日吉丸は竹林の帰路にて不意を突かれ、数人の侍により何の言葉もなく切り捨てられた。
彼の意識は闇に沈む。その刹那、脳裏に声が響いた。
「これが『修正力』。定められた流れに抗うなら、代償を払いやり直すのだ。お前は『異物』なのだ」
白装束の僧が深夜、その亡骸のそばに現れ、何事かを呟いた後、共に姿を消した。
そして、彼は再び、講義の朝に戻っていた。
これは夢ではない。
確かに“殺された痛みの”感触は、記憶として彼の中に刻まれていた。
今度の日吉丸は、あえて口を開かなかった。
ただ仮名目録の徳政条項を朗読し、その理念の崇高さを称えた。
雪斎は微笑み、静かに言った。
「よい読みだ。時に語り、時に沈黙することもまた、学びのうちよ」
このとき、日吉丸――坂村健一は悟った。
現代日本でも“空気を読む”ことは重んじられていたが、ここ戦国の世では、それが人の命をも左右する決定的な力を持つということを。
一度目の死は、身分の卑しさだけが理由ではなかった。
あまりに鋭い知見が、当時の“空気”に逆らう異物として周囲に圧力を生み、排除の力を働かせたのだ。
知識や論理が、常に正義とは限らない。
「……そうか、これがこの国の“空気”か」
生き延びるには、ただ正しいことを語るだけでは足りぬ。
空気を読み、それに寄り添い、ときに交わりながら、突破口を探る必要があるのだ。
日吉丸はそう心に刻んだ。
これは単なる学問の習得ではない。
生き抜くための、“処世の知”そのものであった。
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