Day25 じりじり
塩の柱は美しく立ち、美しく倒れて然るべき。
誰が言った言葉だったか──ああそうだ、黒曜歴二七六年、時の十哲の一人であるウトール老が海に塩を戻した日、塩の還帰を祝った祝賀会で酒に酔って言った言葉だったとハロウは思い出す。歴史書は無意味と豪語するハロウの師なら後ろ足で砂をかけるだろう言葉だが、彼の意に反して、今日も師の作った塩の柱は白く美しく、海と空を太く繋ぐ。
そう、本来ならもう倒れて海に溶けていい頃合いだというのに。
「……なぜだ」
自分が作った柱の前で椅子に座り、師のラーガは右の人差し指で忙しなく膝を叩いている。昨日の夜とまるで変わらない姿勢にハロウは感嘆しつつ、辺りを見渡した。
塩の柱は月に五本と決まっている。世界の東西南北の端と、中心の海に立て、ひと月をかけて倒れるように作るのが魔法師たちの仕事だった。五本全てが倒れてようやく、次のひと月のための五本を作ることが出来る。
柱は巨大なので、ラーガが担当する東からでも他の四本を確認することは出来た。今、残っているのは目の前の一本と、中央の一本──トルバン師の柱である。
「……賭けに負けそうですねえ」
ラーガは盛大な舌打ちをする。
塩の柱は賭け事の対象にもなっていた。神聖な柱を博打に使うとは、と顔をしかめるのは宗教関係だけで、身分に関係なくどの柱が不名誉に最後まで居残り続けるかと賭けるのである。
トルバン師はラーガよりも二つ下の妖艶な女性で、その見た目からも応援する人は多い。しかし性格には難があり、年下でありながらもラーガの女性経験のなさをからかい、ラーガもよせばいいのにまともに取り合うので会えば喧嘩ばかりしていた。
今回、その喧嘩の内容がこの賭けである。中央に堂々と聳え立つ柱が居残り続けるのはさぞ見物だろう、とラーガは言い、東の端で惨めに残り続ける柱を思うと今からおかしくて涙が出るわ、とトルバン師は言ったとか言わないとか。いや、言ったのだろう、あの女性なら。
中天を過ぎた太陽が空気を焼く。地面からは熱が立ち昇り、顔を真っ赤にする師を見かねてハロウは小さな氷柱を周りにいくつか立てた。力を注ぎ続けいればこれは溶けない。けれど、既に師の手を離れたはずの塩の柱はこの暑さと湿気でとっくに溶けてもいいはず。トルバン師の柱も同じで、塩の柱は完成の後、魔法師の力を注ぐのを止めなければならない。
ハロウの肩に小鳥が止まった。よう、と不愛想な女の声がする。トルバン師の弟子のミーシャの伝令だ。
「お前、ちょっと柱見てみろよ」
「いらついてる師匠と一緒にずっと見てますけど」
「ちげえよ馬鹿、ちゃんと見ろって」
小さな翼で叩かれ、ハロウは指で輪っかを作ってそこから覗いてみた。
「……え」
ハロウの呟きに「だろ」と呆れたような声が応じる。
「まだ柱と繋がってるんだよ。うちもお前んとこも」
言われて中央の柱を見るとその通りだった。柱の周りの空気がうっすらと歪んでいる。あれは力による屈折だ。
「……ミーシャさん、水使えますよね。海を揺らして柱壊せませんか」
「師匠の柱を? 無理だって」
弟子は揃って溜息をついた。
偉大なる師、二人はおそらく気づいてはいない。顔を合わせば喧嘩しあい、いない所でも丁寧に相手をけなしておく中で、思いもよらない火が互いの胸を焦がしていることを。
「……どうします」
「知るかよ。そっちはともかく、うちの師匠まで自覚ないんじゃどうしようもないね」
照りつける陽光、刻々といらだつ師、きっとここからは見えないけれど同じようにいらだっているトルバン師、そうして双方の胸中に宿る火。
町に戻ったら恋愛を主題にした流行りの読み物を探して、師匠に渡そう。それでも駄目なら、とハロウはじりじりと塩の柱を睨みつけた。
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