花天月地【第9話 星は歌う】

七海ポルカ

第1話




「……では一度【天水てんすい】の様子を見て来るように、姜維きょういに伝えてください」




 諸葛亮しょかつりょうが副官に書類を渡して告げると副官が一礼し、退出して行った。

 入り口のところで入れ替わるように、劉備りゅうびが入って来る。


「殿」


 諸葛亮は立ち上がろうとしたが、劉備は手で制する。


「うん、いいんだ」

「はい……。いかがなされましたか」

「いや。用というほどのことはない。孔明こうめいの顔を見に来た」

 劉備は穏やかな顔で笑って、側の椅子に腰を下ろす。

「お前はとてもすっきりとした顔をしているからな。見るとこっちも心がすっきりするのだ。趙雲ちょううんなんかも、そういう所があるな」


 長く、客も少ない庵で隠遁生活をしていた諸葛亮にとって、たまにこうして顔を見たくなったなどという理由で訪ねて来る君主は、非常に新鮮だった。

 今はいつも劉備の側仕えをしている趙雲が【白帝城はくていじょう】方面に行って、不在にしている。


「そうでございますか……我ながら、精悍でおられる趙雲殿とは違い、何の特徴もない顔だと思っていますが……」


 劉備は笑った。


「それがいいのだ。孔明は。見た目は本当にどこにでもいる純朴な青年のように見えることもあるが、その奥に深い智謀と、大海のように落ち着いた心を持っている。

 お前の考えていることの半分も私は理解出来ないだろうが、それでも不思議とお前の側にいると安心する」


 諸葛亮も穏やかな表情になった。

「こんな顔で良ければ、いつでもご覧ください」

「うん。どうかな、その後。気になる動きはあるかな」


は、今のところは静かですね。

 先代の孫伯符そんはくふ殿は神速を旨とする、雷のような機動力と決断力を持った方でしたが、新たに君主となられた孫仲謀そんちゅうぼう殿は熟考を重ねて動く方のようです。

 中には赤壁せきへき勝利の勢いを駆って進軍すべきという意見も中核には多いようですが、それをよく取りまとめられ、内政も重んじておられる。

 ……それよりも、予想よりも早く権力移行を進めつつある曹魏そうぎの方が、目を離すべきではないでしょう」


曹操そうそうはどうしている……?」


「曹操殿はぎょうに移られて、長安ちょうあんには皇子である曹子桓そうしかんが立ち、父に代わって政を取り仕切っているそうです。

 その傍らには、父の時代の忠臣以外にも、曹丕そうひ皇子自身が取り立てられた者達がいるようですね。

 特に目立つのが曹丕皇子の腹心である司馬懿しばいという軍師に、彼の兄弟達が幾人か招聘されています。

 司馬一族の兄弟はいずれも秀才揃いで、丁度曹操殿にとっての夏侯かこう一族のように、血族としての力を結集し、曹丕皇子の支えになって行くことになるでしょう」


司馬しば一族か……。周公瑾しゅうこうきんも、一族は主立って関わって来ていなかったが、もともとは名門の出だったな。

 お前の諸葛しょかつ一族といい、どの国にもそういう王佐おうさの才を見せる一族はいるのだなぁ」


「殿の御血筋こそ、高貴なる名門」


 劉備は笑った。


「私の血筋は怪しいものだぞ。それは、あの小さな村落で過ごして、狭い世界にいた頃にはな、母が話してくれた、そんな話を信じてそれならば立派な人間にならねばなどと自らを奮い立たせたこともあるが、広い世界に出てみればどうだ。私程度の血で『漢王室の末裔』などと言ってる人間は五万といる。

 かつて洛陽らくようで帝にお会いしたことがあるが、あれぞ真に高貴なる御血筋に生まれた方の佇まいというものだ。何万、何千という人間達がその血筋に敬意を払い、お守りしようと傅いておられる。

 そういうものなのだろうな。

 私などが漢王室の末裔を名乗ることすら、おこがましいというものだ。

 だからもう、血筋はいいのだよ。

 母親が、父も、寄る辺もない息子に希望を与えようとそんな話をして、少年時代の私がそれを信じて成年にまでなった。

 そして私の周りには、私の血に敬意を払って集ってくれた者などほとんどいない。

 諸葛亮がここに来てくれたのは、私が漢王室の末裔だと思ってここまで来たと話したからか?」


 諸葛亮は穏やかに、横に首を振った。


「うん。そうだ。だから私はいいんだよ。

 名もない小さな村に生まれた玄徳げんとくでいいのだ」


「はい」

 静かに微笑んだ諸葛亮が、侍従が持って来てくれた茶を受け取り、入れる準備をする。

「ありがとう」

 諸葛亮が自分の入れた茶を劉備に勧めた。

 それをゆっくりと味わってから、劉備はもう一度諸葛亮に向き合った。


「孔明。お前は我が軍の大切な軍師だが、内政にも多大な貢献をしてくれている。

 丞相じょうしょうどのだからな。

 だから、これは相談だ。

 私からの頼みだなどと思わず、率直にお前の思う所を言ってくれると嬉しい」

「はい」


龐統ほうとうのことだ」


 少し意外だったのか、諸葛亮が目を瞬かせた。

「龐統どの……ですか」


「ああ。私はまだあまり、龐統のことが分かっていない。

 だが先だっての趙雲ちょううんの文にもあったように、それに姜維きょういも言っていただろう。

 彼はまだ、呉から降ったことに心が定まっていないように思う。

 彼は私を慕って仕官してくれたのではないことは……よく理解している。

 龐統は、お前と話したいのではないかな……。

 彼がここに頼って来たのはお前との縁だ。

 孔明は、私と会った時に隠遁している理由を『運命に縛られたくないから』と言っていた。

 これは単なる私の推測だが、お前にとって龐統は、恐らく運命をお前の目の前に連れて来るものなのではないだろうか?

 だから、なるべく関わらないようにしている」


 諸葛亮は少しの間を置いて、頷いた。


「その気持ちは、少なからずあります。

 彼と私は……少し不思議な因縁がありまして」


「星の話をしていたな」


「はい。例えば殿と、関羽かんう張飛ちょうひ将軍が、生まれた時が違くとも兄弟のような縁を結ばれました。

 私と龐士元ほうしげんも、似たようなものだと思う方がいます。

 けれどそれとは少し違うのです」


「どんなふうに違うのだろう?」


 聞き返す劉備の声は穏やかだ。

 詰問するような気配は何もない。


「例えば曹孟徳そうもうとく


「?」


「殿にとって、曹孟徳とはどのような方でしょう」


「曹操殿か。曹操殿は……なんだろうな。不思議な縁があると思っているよ。かつて、反董卓とうたく連合に従事した時に出会った。

 その時は、あの人の身分は私などより遥かに上だったが、面白い男だと声を掛けてもらったよ。

 何か大きな野心がある。

 けど不思議と董卓のような、悪しき気配がしなかった。

 しかし漢王室に対して、私が抱くような崇高な想いは持ってはいまい。

 あの人にとって漢王室とは過去の遺産であり、自分の纏う盾で、ある程度の所まで行けば、執着からも切り離せるような思いの薄いものだ。

 曹孟徳が、並外れた冷酷とは私は思ってはいないが、あの人は自分にとって不必要だと思ったり、不必要になったと感じたものは、利益との天秤にかけて軽ければ容赦なく切り捨てることが出来る。

 だから危険なのだ。

 漢王室も、帝も、世界の重し。無くなれば世界はバラバラになる。

 だが曹操殿はそうは考えておられないのだろうな。

 あの人とはそういう考え方の違いもある。

 けれど不思議だが、何かが幾つか違ったら、良き友人のようになれたような気もするのだ。

 もっとも、向こうはそんな風には私を思っておられぬかもしれぬが」


 劉備は苦笑している。


「それに、今は何倍もあの人の方が大きい。

 私は蜀という国を興しそれを保つだけで精いっぱいだが、曹魏は今や後世にどう継承していくかという問題に相対している。

 国のあるべき姿を問い詰めているような気がするのだ。

 私の考えていることとは比べ物にならん」


 率直に話した劉備を穏やかな眼差しで見つめ、諸葛亮は頷く。


「私と龐統の関係は――どちらかというと、殿と曹操殿の関係に似ています」


「私と曹操殿の関係?」

「はい。確かな友情、信頼、そういうもので何も結びついていない。

 ただ、それでも何か不思議な縁を強く感じる」


 劉備の瞳が輝いた。

「うん。そうか。それはなにか、よく分かる表現に思える。

 なるほどそうか。お前と龐統殿は、そういうことだったのだな」


「はい。

 少なくとも、私はそう思っています。

 ただ思うのは……龐統殿の望むものを、恐らく私は持っていないのです。

 龐統殿は私に何かを強く求められている。それは分かっても、自分の中に彼の求める答えが無いと知っているから、私は彼を遠ざけるのかもしれない。

 嫌っているのではありません。

 なにかが違えば、友人のようにもなれるのだろうと思います」


 劉備が微笑んだ。

 机に置かれた、諸葛亮の手に重ねる。


「そうか。よく分かった。

 では、ここからは玄徳から孔明への願いを言う。

 趙雲があの文を送って来たということは、やはり彼は江陵こうりょうにはいない方がいいと考えてのことであろう。

 強く、戻してくれと書いていないのだから、早急なものではないだろうが……趙雲の人を見る目は確かだ。

 それにあの男は、弱っている人間に心を寄せる所がある。

 然るに龐統殿は今、きっと弱っておいでなのだ。

 だから近々、私は龐統殿を成都に呼び戻そうと思っている。

 そして私の側に置いて少し旅などしながら、お前を一緒に来るよう誘った時のように、しばらく話をして過ごそうと考えている。

 孔明。お前も、龐統と話してほしい。

 難しい話をする必要はない。

 話せることでいい。友人になれるよう、そういう話をしてやってほしいのだ。

 ……嫌であろうか?」


 諸葛亮は首を振った。微笑んでいる。


「いいえ。殿」

「そうか。ありがとう」

「いいえ。お気を遣わせてしまいました。申し訳ありません」


「気を遣ったわけではないぞ。私は、孔明が龐統殿を嫌っていないことは分かっていた。

 ただ何かを思って、声を掛けていないと思ったから言っただけだ」


「……」

「孔明?」

「ああ、いえ。申し訳ありません」

「どうした? 笑っている……」


「いえ。……以前、別の方に、同じことを言われたことがあるのです。『機会があれば、龐統と話してやってほしい』と」


「そうなのか? 私の知っている人か?」

「恐らくご存じではないと思います」

「そうか。だが、そんな風に言うのなら、その人は龐統のことをちゃんと考えてくれている人なのだろうな」

「はい」

 諸葛亮は穏やかな表情で笑う。


「あの人は孤高を好むようだが……、不思議と、あの人を見ていると気に掛けたり、声を掛けてやりたいような気にさせる所のある人なのだろうな」


「はい。そうですね」

 自分には、そういう所はない。

 諸葛亮はかつて、自分の【ついの星】だった男の顔を思い浮かべた。

 情念にも、執念にも似た目を、自分に向けて来る男の目を。


 だが、彼は確かに劉備の言う通り、単なる孤高の星では無いようだった。

 彼を気に掛け、側にいようとする人間が、少なからず存在する。


 完全なる孤高の星は、組織に関わらせると崩壊の鍵になることがある。

 だが、そうでないのならば、望みはあった。



「孔明と話したら、少し心が晴れた」



 劉備は安堵したような表情で、そう笑った。

 自分もそうだと諸葛亮は思った。



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