Little Me
うわ、と思わず声が出た。
浴室の鏡に映る三本の太い線。右肩から背中にかけて綺麗に膨らんでいる。
「向こうからしたら掠ったくらいなんだろうけど……まともに喰らってたら腕無くなってたよな……」
想像したらゾッとしてしまった。超能力戦にはならないと高を括っていた罰かもしれない。
宝木さんが瘡蓋にしてくれたおかげでボディーソープは滲みず、湯船にも浸かれた。
*
放課後。
黒瀬は体調に問題は無いが、今日までは支部にいるとのこと。というわけで今日は三人で打ち合わせだ。一人が欠けるだけでなんだか寂寥感を覚える。
「今日は二十時五十七分に宝石店で強盗が発生。
「ロキ……だっけ? じゃあ二人いるって考えた方がいいね」
「アイツらなら宝石目当てじゃないだろ。早いところ捕まえた方がいいな」
「任務妨害されてるようなモンやしな……すぐ終わらせるで」
来留さんはキャニスターからスノーボールクッキーをつまんだ。
「あと四時間くらいか……だいぶ時間あるなぁ」
「私、一旦帰るね。八時くらいには戻るよ〜」
「ほんだら迎えに行くわ。連絡してな」
「じゃあ〜お言葉に甘えて! ありがとね!」
ワインレッドのドアがバタンと閉まる。
来留さんはスマートフォンを横に向けて操作しだした。
「綿来くんはええの?」
「俺は帰ってもすることないし、待っとくよ」
部屋では爆発音や銃声だけが小さく鳴り響いていた。来留さんは珍しく無言でスマホゲームをやっている。
かと思いきや、すぐに画面を消してスマートフォンを机に置いた。
「すぐ止めるの珍し」
「……エイムがクソや」
専門用語はよく分からないがとにかく調子が悪いと解釈して間違いないだろう。
やはり昨日の件が来留さんとしては効いている様子だ。
「黒瀬のことなら大丈夫だって」
「……けど、同じようなこと一回やらかしてるしなぁ。私は」
来留さんは机に上体を預け、両腕をまっすぐ伸ばした。
「黒瀬が任務後に倒れたってやつ?」
「……聞いたんや」
「黒瀬からな。けど、アレは黒瀬のオーバーワークが原因だろ? 今はそんなことしてないはずだけどな」
「オーバーワークとは言うてるけど、気ぃつこてるだけやろ」
「……そんなに疑うなら、
「それは絶対やらんよ」
「プライバシーの観点?」
「相手のため……もあるけど、自分のためっていうのが大きいかもな」
「本当のことを知りたくない、みたいな?」
「無くはない、けど……この力を頼ったらもう終わりやねん」
彼女にとって、任務外で
「自分に厳しいんだな……」
「そんな綺麗なモンちゃうよ」
来留さんはまたスノーボールクッキーを口へ入れた。
十八時半頃。
良かったらさ、と来留さんが声を掛ける。
「今のうちにウチでご飯食べへん? 簡単なモンしかできんけど」
「ウチって……来留さんの家ってこと?」
うんと彼女は首肯した。
「え、けど親御さんにも迷惑だろうし……」
「うちの親、二人ともテミスで働いてるんやで? こっちの家帰ってこんよ」
けらけらと笑いながら返される。
「じゃあ一人暮らし!?」
「そやでー」
「大変だな……」
「うーん……それが普通やしなぁ。別になんとも」
「そ、そう……」
迷惑にならないのであれば、と彼女の家へお邪魔することにし、母には【ご飯は食べて帰る】とメッセージを送った。
来留さんの
目の前には薄いブラウンカラーの外壁を纏ったごく普通の二階建て一軒家。
「……って、すぐそこ!?」
徒歩十秒くらいの距離にいつもの部屋があるマンション。
「家の近くにたまたまワンルームマンションが建ってな。楽ちんや」
「へえ〜……」
洒落た木製玄関を潜ると「お邪魔します」と軽く頭を下げる。そのまま一階のリビングへ案内された。
「ちょっと待ってな〜」
リビングは綺麗に保たれており、しっかりした来留さんらしさが現れている。
キッチンには冷蔵庫や電子レンジ、オーブントースターなどは揃っているが、他はダイニングテーブルとチェアが並んでいるだけだ。テレビや雑誌類の娯楽物が無く、モデルルームのよう。
昨今はテレビを観ない人が増えているというし、来留家はそういう方針なのかもしれない。
「綿来くんはどれがいい?」
「え?」
ダイニングテーブルの上には醤油味、シーフード味、チリトマト味のカップヌードルが置かれていた。
「あとはグラタンとカレードリアと……パスタはボロネーゼとカルボナーラやな」
がさごそと冷凍室を漁っている来留さん。
もしや……と思い尋ねてみる。
「インスタント系ばっかり食べてる……?」
「りょ、料理はできるけどせんだけやし! 時短や!」
キッチンに目を向けると綺麗なコンロにピカピカのシンク。長らく料理は作っていないようだ。この感じだと冷蔵庫の中には即席で食べられるものしかないだろう。
「栄養とか偏らない?」
「そう思ってサプリメントとかも買ってるし……!」
そっち方向に走ってしまったか。
それにしてもこの食生活で髪は傷んでおらず肌も荒れている様子はない。全女子に恨まれることだろう。
「じゃあチリトマトを頂こうかな……」
来留さんは「私もカップ麺にしよ」と言いケトルに水を入れた。
なんとなく生活模様が想像できた。学校へ行った後は任務、任務を終えた後は簡単なもので食事を済ませて寝る。
ここは来留さんにとってホームではなくハウスなのだ。
カチッとボタンが上がり、ケトルのお湯を注いで蓋をする。麺にお湯が染み込むまで三分。
「一人暮らし始めたのっていつ?」
俺は真正面に座っている彼女に問うた。
頬杖をつき斜め上を見ながら「高校入学と同時やよ」と答える。
「けど、小学生の頃からこんな感じの生活してたし別に何が変わったってわけでもないな」
「小学生の頃、から……?」
ランドセルを背負っている歳から身の回りのことをすべてやらなければならなかった環境。並々ならぬ事情を感じる。
「お金だけは置いといてくれたから、特に困ることも無かったで」
「置いといてくれたって……」
「二人とも私に興味無いからな〜」
来留さんが蓋を手を伸ばすとふわりと湯気が上る。俺も同様に蓋を捲るとスパイシーな香りがした。割り箸を差し込んで揺らし麺をほぐす。
「興味無いって……そんな親——」
「おるんよ。世の中には」
来留さんは麺を持ち上げて息を吹きかけると啜った。
「……仕事が忙しくてあんまり接する時間がなかったとかじゃないの? 来留さんのために頑張ってくれてるんだし……」
俺も赤いスープに浸かった麺を引き上げ啜る。
彼女は箸に引っかかった麺から視線を上げ、口端だけを引いた。
「……仕事人間のあの二人は世間体のために結婚して私を産んだ。最低限のことだけはやってくれたけど、それだけや」
シーフードのスープに入った箸は左右に動くだけで浮き上がらない。
「見てほしかったから、色々やったよ。家のことも、勉強も、運動も、なんでも。……でも全部『そう』か『へえ』しか返ってこんかった。超能力が覚醒したとき、やっと見てくれるようになったと思った。けど……それは出世の道具にしか思われてへんだけやった」
彼女へ目を向けていられず、赤く染まった麺を見ることしかできなかった。
「超能力の技術磨いて、七花も黒瀬も引き入れて任務全うしてたらって……甘い夢、ずっと見てたわ。見事に二人は出世してテミスに異動できたってわけや。……長々とごめん、伸びてまうな」
来留さんはハッとしたように麺を少しだけ摘んで食べた。
「……適当なこと言ってごめん」
「私こそ、普通の人にする話じゃなかったわ。ごめんな。今更どうでもええし、終わったこと」
終わったことなら、どうしてそんなに怒りを混ぜた声で訴えたのか。
どうして、今も悲しそうに笑うのか。
『昔の自分を癒せるっていうか、浄化できるっていうか……』
宝木さんの言葉が脳裏をよぎる。
過去の出来事として終わっていても、そのときの記憶、感情、自分は消えていないんだ。
「終わってないよ」
「……え?」
「来留さんの中には、そのときの……悲しかった小学生の来留さんが残ってる」
「な……諦めたことやし、悲しいとか無いし……!」
「じゃあなんでそんな顔してんの」
いつものつんとした澄ましたビスクドールとは程遠い。眉根に皺を作りやたらと目に光が反射している彼女は酷く狼狽えた。
「俺はまだ二、三ヶ月しか来留さんのこと見てないけど、すごいってことは知ってるよ。超能力の使い方は上手いし任務の指示も的確だし、やっぱりベテランだなって思う。他のことも昔から頑張ってたって、今知った。」
俺は息を深く吸った。
来留さんは飛ぶしか能のなかった俺を誘ってくれた。
違うことに役立てると信じてくれた。
俺はいるべきではないかもしれないけど、居場所をくれた。
小さくても良いから、そんな来留さんの助けになりたい。
「だから俺が言う。来留さんはよく頑張ったし、頑張ってる。今のすごい来留さんがいるのもそのおかげだ」
数秒してからだいぶ上から目線になってしまったと汗が吹きそうになる。
「……いや、やっぱ一番新入りの俺が言うの失礼すぎるな……」
「……ええよ」
彼女は席を立ってキッチンへ移ると、コップを取り出し二リットルペットボトルを傾けお茶を注いだ。
「……ごめん、飲み物忘れてた」
そっぽを向いてお茶を飲みながらコップを差し出してきた。
礼を伝えありがたく受け取る。
それからしばらく来留さんは顔を合わせようとせず、横を向いて伸びた麺を口へ運んでいた。
「……ありがとう」
「……あぁ、いや」
俺の麺を啜る音に負けかけた小さなお礼。
気持ちとは反面に、カップ麺はぬるくなってしまった。
二十時四十二分。
事件が予知された宝石店の警備室にて集まっていた。
「商品はもう別の場所に移動してるから、周りは気にせず動けるで」
「よし!」
「気にしないで動けるのやりやすいよね〜」
防寒カメラが映し出す映像たちが画面いっぱいに広がっている。無人の店内に人が映れば一瞬で分かる。
二十一時二分。
キャップを被ったスカジャン女にディープパープルヘアの女が
どうやら俺たちが来ると踏んで
「余裕ぶっこいてんな……よし、行くで」
来留さんの
売り場は白を基調とした店内で目玉商品を置くであろうバックにペリドットカラーが目立つ。
本当にショーケースが並んでいるだけで中はすっからかんだ。
「来てくれた〜! あれ、一人足りなくね?」
「三人でも余裕って思われてんの〜?」
二人は煽るように笑った。
〈とにかく二人を離す。
そう
「
スカジャン女が紫髪の女を
「え——」
菜月という女が来留さんの肩に触れると、全身が爆ぜたように粒子化した。
全身の粒子化はよくやっているがいつもとは違った。
より細かく、より小さく、より広い範囲に粒子が舞った。
そして、肉眼では捉えられないほどになってしまった。
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