2 役場

 昨日と同じ目覚まし時計の音で少女は目を覚ます。

 体は無くとも眠れるのか、気付くと朝だった。

 もぞもぞと布団の中から手が伸びて時計の音を止める。そこまで昨日見た光景と同じだった。

(頼まれたし、いいんだよね?)

 緊張で震える指先を恐る恐る携帯電話へと伸ばす。そして今まさにアラームを鳴らそうとしていた端末が、少女からの着信をけたたましく報せた。

 渋々起き上がった少年が、電話の通話ボタンを押す。

「…………もしもし」

『おはよう、コウ君』

「……あぁ、おはよう」

 寝癖も立ち大きな欠伸をする少年は、まだ寝ぼけているようだった。

(こういうところはまだまだ子供みたい)

 声に出して笑いそうになって、少女は誤魔化すように咳払いする。

『朝の準備忙しいだろうし、切るね。じゃあ――』

 再び手を伸ばして電話を切ろうとした少女を、少年が慌てて止める。

「あ、ちょっと待ってくれ」

『うん?』

 頼まれたのは朝、少年を起こすこと。少年が起きたのならあまり長話をしては迷惑だと思っていた。少年とまだ話をしていたいが、嫌われたくはない。だから遠慮しようとしたが何の用だろう、と少年の言葉を待つ。

「もし暇なら夜も電話付き合ってくれないか?」

『夜?』

 少年の意図がわからず、少女はそのまま訊き返した。けれど嫌な顔どころか、どこか申し訳なさそうに少年は答える。

「夜に一人で机に向かってると眠くなるんだよ。話し相手になってくれると助かる」

 昨夜の様子を思い出してもあまり眠そうには見えなかったが、辛そうには見えた。話す時間が増えるのなら、少女に断る理由は無い。

『私でよければ』

 断られると思っていたのか、少女の快諾に少年は安堵する。

(本当は『咲希』と話したいことがあったのかな)

 そんなことが頭をよぎると、心がちくりと痛んだ。

「時間はお前の都合のいいタイミングで構わないから」

『わかった』

「じゃあ、よろしくな」

 そして自ら終話ボタンを押した少年は、小さく苦笑いする。久しぶりに旧友と話したとは思えない、苦い笑みだった。

「やっぱり昨日も夢じゃなかったんだな」

 そう一人ぽつりとこぼし、少年はカレンダーを見る。そこには「31」と記されていた。

「まだ、ひと月……」

 眉間にしわを寄せて何事か思考すると、少年は厳しい面持ちで身支度を始める。

 その張り詰めた様子が気になりはしたものの、少女は成すすべもなくベランダへと移る。

 昨日と同じように空は朝焼けに染まり、昨日と変わらず道には行き交う人がまばらに見える。

 けれど、何かが違う。まるで間違い探しのような違和感に少女は首を傾げた。

(あれ? 今日はおばあさん、いないのかな?)

 天気も悪くなく、正面に見えるサチの家も昨日と変わった様子は無い。体調でも崩したのではないかと心配し始めたころ、少年が自宅から出てきた。

「………」

 向かいの家の前で足を止めると、少年は無言で昨日サチがいた辺りをじっと見つめる。

 少女からはその表情を確認出来なかったが、静かに握られた拳から少年の焦りが伝わってくる。

(焦り? 何に対して?)

 サチが少年にとって大切な人だったのかもしれない。それならば家を訪ねれば済む話だ。けれど少年は家の前に立ち尽くすだけで、中へ入ろうとはしなかった。

(何をそんなに恐れているの?)

 夜遅くまで勉強をし、時折険しい表情を見せる。何がそうさせているのか。何を抱えているのかはわからない。

 一方通行の電話でも、話してくれれば聞くことくらい少女にも出来る。なのに、少年はそれすらも許してくれない。

――何も知らないな、私。

 知りたい。知るために訊きたい。そう願う一方で『咲希』と少年との距離感が掴めなくて尻込みしてしまう。

(コウ君、私は君に嫌われることが何よりも恐いよ)

 ぽつりとこぼした想いは声にならない。

 音として聞こえない言葉に意味はあるのか。

 触れることも出来ない、目で見ることも叶わない。

 そんなモノに、本当に意味はあるのか。

(私は、ここにいる……んだよね?)

 二日目にして初めて、少女は己の存在を希薄に感じていた。


***


「ここか」

 学校からの帰り道、少年は先日教わった役場へと来ていた。

 所々薄汚れた木造の建物は、随分古臭く感じる。

 僅かな緊張を胸に、少年は大きな両開きの扉を押して中へと足を踏み入れた。

 がらんとした室内は人の気配がしない。空の長椅子が並ぶ待合所の奥にカウンターが見える。

 無人の可能性を考えながら、少年はカウンターに近づくと声を上げた。

「すみません」

 すると、カウンターの向こうから物音がする。少年の位置からはよく見えないが、どうやら一人用の椅子を並べた上に人が寝ていたらしい。

「うん? 初めて見る顔だな。何の用だ?」

 顔に乗せていた新聞をどけて起き上がったのは、三十代後半を思わせる男だった。

 本当に人がいたことに驚きつつも、少年は用意しておいた台詞を口にする。

「ここで居住者の確認が出来ると聞いたんですが」

 男の背後には大きな書棚がいくつも並んでいた。その中には遠目で見える限りでも新旧合わせて数十冊はあろうかというファイルが、所狭しと詰め込まれている。

(まさかこの量をいまどき全部手作業で? しかもこの人一人で?)

 来訪者は少ないようだが、記載内容の修正など一人の手には負えない仕事量に思える。

 そんな少年の心配など気にも留めず、役人は慣れた様子で一枚の紙を取り出した。

「はいはい、じゃあこの紙に探したい人の名前書いてね」

「わかりました」

 カウンターに置かれていたボールペンを取ると、少年は一つ一つ空欄を埋めていく。

 申請者の氏名、探し人の氏名、そして申請理由。

(理由……)

 必須項目ではなかったが、少し考えた末に「本人から電話が掛かってきたため」と書いた。

 書き終わって漏れがないかを見直すと、用紙を返却する。

「お願いします」

 眠そうな目で役人は書類を確認すると、重たそうな腰をゆっくりと上げた。

「ちょっと待ってな」

 奥の書棚へ向かった男へ、邪魔をしてはいけないと思いつつも少年は声をかける。

「あの、ここってスマホが本来と違った動きをするんですか?」

「すまほ? あぁ、電話か。オレも詳しくは知らねぇが、全く同じってことはないんじゃないか?」

 憤ることもなくあっさりと帰ってきた答えに、少々面喰いつつも少年は首肯する。

「そうですか」

 そして会話の途切れた広い室内では、紙をめくる音と時計の針の音だけが静かに響く。

(ということは、通話履歴が残らなかったのは別におかしなことじゃないのか)

 久し振りにした咲希との会話は、不自然なほどに自然なものだった。

――あんたのこと絶対に忘れないから。

 あの呪いの言葉は今でも忘れていない。後悔、罪悪感、そして自己嫌悪。この十年でも消えることは無かった。

(なのに、咲希はもう忘れたんだろうか?)

 それならそれでいい。非があるのは自分なのだから、咲希が苦しむ必要は無い。

(でも、やっぱり変なんだよな)

 会話の内容におかしなところはない。けれど、あれほど少年を憎んでいた咲希がわざわざ電話を掛けてくるだろうか。少年の頼みを嫌な顔一つせずに承諾するだろうか。

(そもそも大した用もないのに咲希が俺に話しかけること自体、初めてじゃないか?)

 姉を溺愛していた咲希からは、何かと絡まれることが多かった。大好きな姉と親しげに話す少年が疎ましかったのだと、今ならわかる。

 そんな咲希と気兼ねなく話が出来ていることは、和解への一歩のようにも思えて口元が綻びそうになる。それでも。仮に咲希から赦されたとしても、少年の罪は消えない。

 痛む胸に気付かないふりをして、無意識に口元が自嘲に歪んだ。

「待たせたな」

「いえ」

 少年は慌てて笑顔で取り繕うと、戻ってきた役人から結果の紙を受け取る。

「………」

 そこに書かれていたのは、咲希が居住者であるということだった。

(やっぱりあれは咲希だったのか。いや、でも……)

 書面には簡単な住所も記されている。そこを訪ねれば真相も確かめることは出来るだろう。けれど、どうしても昔の記憶が咲希への苦手意識を掘り返していく。

(電話で話すのはよくても、わざわざ訪ねて行ったら嫌な顔をされるかも)

 確かめたいと思う気持ちより、現状の居心地の良さを優先してしまったのは少年の弱さだったかもしれない。

「ご要望は以上で?」

 一人黙って考え込んでいた少年に、苦笑いで男が訊ねた。

「あ、はい。ありがとうございました」

 書類を鞄へとしまうと、少年は会釈をして出口へと向かう。

「もう来るんじゃねぇぞ、不良少年」

 背後からそんな声が聞こえて、思わず男を振り返る。

「不良って……真面目に学校行ってますよ、俺」

 制服も着て、授業も終わった放課後に来ている。不良と呼ばれる、いわれはない。

「だから、だろうが」

 どこから出したのか、男は煙草をくわえると火を点けた。

「こんなとこまで来て学校に行くなんて不健全だろ。もっとやりたいこと探せよ、不良少年」

 そう言った男の表情は煙に巻かれて、少年からはよく見えない。

 言いたいことはわからなくもない。けれど、事情も知らない他人にどうこう言われたくはない。

 再び扉へと足を向けると、少年は悔しさの滲んだ声で答えた。

「……やってますよ、やりたいこと」

 鞄を片手に押した大きな扉は、来たときよりも少し重たく感じた。


***


 窓の外は既に暗く、黄昏と呼ぶには遅く夜更けと呼ぶには少し早い時間。昨夜と変わらず、少年は一人机へ向かっていた。

(そろそろ、かな?)

 少年から頼まれた電話のタイミングを図っていた少女は、少年の携帯電話へと手を伸ばす。慣れてきた着信を報せる音に、少年は手を止め通話ボタンを押した。

 耳に当てずにスピーカーへと切り替える少年を待って、少女は声を掛ける。

『こんばんは』

 電子機器を介して久し振りに聞いた自分の声は、想像より大人びていた。

「あぁ、悪いな。こんな時間に」

 再びシャーペンを手に取った少年が応える。

『ううん。でも私が話してると邪魔にならない?』

「あぁ、目標があってやってるわけじゃないから」

『そうなんだ?』

「あぁ」

 ならば、何故そんなに毎日必死に勉強をしているのか。気にはなったが、途切れた話題を再開させる勇気は少女には無かった。

「………」

 眠気覚ましに話し相手を求めていた割には、少年は黙々と机へ向かっている。他に何か話があるのかと身構えていたが、それも無さそうだった。

(なら、何のために?)

 少年の真意はわからないが、それでも頼まれたのなら会話を続けなければならない。

(何か、何か話題……)

 室内に響く秒針の音に急かされながら、少女は辺りを見回した。

『そ、そういえば』

 焦る視線が止まったのは、少年の左手首につけられたあの腕時計。

『そういえば、みんな同じ腕時計してるよね? あれって流行ってるの?』

 昨日の老婆も少年と同じものを着けていた。思い返してみれば、家の前を行き来する人が皆、同様のものを着けていたように思う。

 これも眠気覚ましの他愛無い雑談のつもりだった。けれど、少年の手がぴたりと止まる。そしてその視線がゆっくりと少年自身の左手首へと向けられる。

「……もしかして四角くて盤面が青かったり紫だったりするやつのことか?」

 他の人のものは遠目でよく見えなかったが、少年のものはまさにそのものであった。

『多分、それかな』

 少年の手首に嵌められた時計は濃い青色で、満天の星空に照らされた夜空のように美しかった。

「そう……だな。流行ってる、のかもな」

『へぇ?』

 自身も着けているというのに、煮え切らない少年の返事に少女は首を傾げる。誰もが着けているということは、それほど有名な時計なのかもしれない。

(変なこと訊いちゃったかな)

 難しい顔で考え込む少年にそれ以上のことを訊ねることも出来ず、少女は会話の続きを断念するほかなかった。


*


 静かな室内に相も変わらず秒針の音だけが響いている。動かすべきペン先は先程から微動だにしていない。

(気になることが多すぎて集中出来ないな)

 昼間の役場でのこと、咲希のこと、腕時計のこと。

 それでなくとも今日は寄り道をして、いつもより勉強に時間を割けていない。日々、目標としているノルマも達成出来ていない。

(このままじゃ、いずれ俺も……いや、まだだ)

 つい弱気になりそうだった自分を鼓舞すると、少年は気もそぞろに指だけ動かし始めた。

『そろそろ寝なくて平気?』

 繋がったままだった電話口から同い年くらいの少女の声がする。

「もうちょっと……。あぁ、でも咲希が眠いなら気にせず切っていいぞ」

 最低限の睡眠は『規則』に含まれていたはずだ。少年の我儘で咲希まで巻き込むわけにはいかない。

『そう……。明日の朝もモーニングコールいる?』

「そうだな。してくれると助かる」

『任せて』

 少し眠そうな少女の声を頭の片隅で聞くと、明日はもっと早く切るように言おうと

考える。

『じゃあ、――』

 ノルマは達成出来ないかもしれないが、時間が許す限り進めておきたい。

(俺は諦めるわけにはいかないんだ。もう一度あの子と――)

 手を休めずに少年は意識の端で電話の声を聞く。

 だから、気付くまでに一拍遅れた。


『じゃあ、またね』


 一呼吸。それが致命的だった。

 少年が思わず電話機を振り返った時には、もう通話は切れていた。

(今、何て言った?)

 まだ耳に残る言葉の残滓をかき集めて、その意味を一つ一つ反芻する。

 咄嗟に携帯電話を掴むと、もたつく指を急かしながら通話履歴を呼び出した。

 そこには、何も無かった。まるで少女との電話が、少女そのものの存在が夢か幻だったかのように。

「………っ!」

 それは誰もが使う、ありふれた別れの言葉。だから、その短い台詞だけで誰かを特定することなど不可能なはずで。

(でも、彼女のだけは……)

 特別だった。たとえそれが後悔で汚れてしまっていても、忘れることなど出来なかった。

(まさか……いや、あの子は十年前に死んだんだ。そんなわけが……)

 拭いきれない違和感がずっとあった。だから寝ぼけた朝ではなく、夜に一度話してみれば何かわかるかもしれないと、提案してみた。

 それが、まさか。

 答えのない自問自答に一喜一憂し、そして理性がそれらを罪悪感で押さえつける。

 何も出来ない少年は、ただ冷めていく携帯電話を握り締めるしかなかった。

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