第4話 この胸に輪郭が浮かぶ

文化祭が終わった翌週、学校はいつもの静けさを取り戻していた。

廊下の掲示物が片づけられ、部活動も通常通りのペースに戻る。

けれど遠野悠にとっては、なにかが少し違って見えた。


「お疲れさま、遠野くん」

教室の窓から顔をのぞかせたのは、杉浦陽菜だった。


放課後、美術室へ向かおうとしていた悠は、少し驚いて足を止めた。


「……どうしたの?」


「ちょっとだけ、お礼言いたくて」

陽菜は言いながら、胸元から紙袋を差し出した。

中には、小さな手作りクッキーが入っていた。チューバの形をしたものもあった。


「文化祭、すごく助けてもらったから。あの展示、みんなにもすごく好評で。……それに、私も救われたし」


悠は黙って、紙袋を受け取った。


「……ありがとう」


それだけしか言えなかった。でも、それでよかったと思う。

陽菜は笑って、「じゃあ、また練習行ってきます」と手を振って廊下の向こうへと消えていった。


その背中を見送りながら、悠はふと思った。


最近、彼女の姿を目で追っている時間が、前よりもずっと増えた。

名前を呼ばれたときの声の調子。演奏中のまっすぐな目線。

チューバのケースを背負う、少し傾いた肩の角度。


ひとつひとつが、記憶の中でやけに鮮明だった。


それが何を意味するのか、まだはっきりとはわからなかった。

ただ、自分の中の風景に、いつの間にか陽菜が「いる」のが、あまりにも自然だった。




週の半ば、ふたりはまた視聴覚室で顔を合わせた。

文化祭の反省と片づけのため、担当だった数名で集まっていた。


「遠野くんって、ずっと美術部だけ?」


陽菜がふと尋ねた。


「うん。中学のときも」


「わたし、最初はクラリネットだったんだ。中一のとき。でも、うまく吹けなくて、思い切ってチューバにしたの」


「……どうしてチューバ?」


「音が……落ち着くから。自分の声みたいで、安心できたんだ」


そう言って、陽菜は笑った。


その笑顔を見た瞬間、悠の中に、ふっと熱のようなものが生まれた。


何気ない会話だったはずなのに、心の奥に染み込んでくるような感覚。

その笑顔を、ずっと見ていたいと思ってしまった自分に、悠は少し戸惑った。


言葉にはならないけれど、確かに何かが浮かび上がってきている。


線のように、音のように、形はないけれど輪郭がある。


悠はその感覚に、ゆっくりと触れようとしていた。




その週末、陽菜からメッセージが届いた。


【陽菜】:チューバの練習、明日ちょっと早く行くんだけど、遠野くんも美術室寄る?

【悠】:行く。何かある?


【陽菜】:ちょっとだけ……聴いてもらいたい曲があるんだ。

【陽菜】:展示の絵を思い出しながら、吹いてみたいの。


悠は、すぐに「うん」とだけ返信をした。

文字にすればそれだけのやり取り。でも胸の奥は、不思議な緊張に包まれていた。


日曜の朝、校舎はまだひっそりとしていた。


悠が美術室に着くと、陽菜の姿はもうあった。

制服ではなく、パーカーにジーンズというラフな格好。

チューバをセッティングしながら、少し照れくさそうに振り返った。


「……おはよう」


「おはよう」


たったそれだけの言葉が、いつもより心に響く。

悠は、教室の後ろの椅子に座った。


陽菜は深呼吸をして、チューバに口をつけた。


ゆっくりと、ひとつの音が響く。


低く、深く、あたたかい。

その音は、まるで“ありがとう”と“またね”と“ここにいるよ”を、すべてまとめて包んだような音だった。


音が止んだあと、陽菜はこっちを見た。


「どうだった?」


悠は答えた。


「……好き、だと思った」


陽菜が一瞬、目を丸くする。


「あ、いや……音が。音が、好きって」


「ふふ。びっくりした」

でも陽菜は、すこし赤くなったまま、笑っていた。


悠は自分の手のひらを見た。

さっきからずっと、少し汗ばんでいる。


それでも、心のどこかで思っていた。


――たぶん、俺は、杉浦陽菜の音じゃなくて。


彼女自身を、好きになっているんだ。


確かめるように吹いたその音が、自分の中にまっすぐ入ってきたのは、

ただ美しいからじゃない。

「君の音」だからだ。


悠は、言葉にしないまま、その輪郭をそっと胸にしまった。


もう、気づいてしまった。

それは、静かに始まって、音のようにじんわり広がっていく――


そんな恋だった。

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