君の音が聞こえる

槻野 智也

第1話 音のない出会い

放課後の美術室は、いつも通り静かだった。


鉛筆が紙の上を滑る音だけが、かすかに響いている。開け放した窓から、風がカーテンを揺らし、机の上のクロッキー帳を少しめくった。


遠野悠(とおの ゆう)は、誰にも話しかけられることなく、誰にも話しかけることなく、黙々とスケッチに集中していた。

その無口さは、周囲に壁をつくっているようにも思われるけれど、実際には、ただ何を話せばいいのかわからないだけだった。


「遠野くん、先に帰るね。戸締まり、お願い」


副部長の白井先輩が声をかけ、他の部員たちと一緒に美術室をあとにする。

悠は軽くうなずきながら、スケッチの最後の線を引いた。


今日のモチーフは、壊れた石膏像。

鼻の欠けたアポロが、どこかをじっと見つめていた。


気づけば、陽はだいぶ傾いていた。

片づけを終え、最後に窓を閉めようとして、悠はふと外を見た。


校舎裏の通路を、ひとりの女子生徒が歩いていた。

大きな黒いケースを背負い、少し猫背になりながら、ゆっくりと足を運んでいる。

ケースの形からして、たぶんチューバ。楽器のなかでもひときわ大きく、持ち運ぶのは相当大変だろう。


顔はよく見えなかった。だけど、その姿にどこか目を引かれた。


重そうなものを抱えているのに、どこか静かな印象。

彼女が通りすぎると、風が通って、カーテンがまた揺れた。


その日は、それだけだった。

でも、不思議とその後ろ姿が、頭から離れなかった。




その日を境に、悠は放課後、なんとなく窓の外に目を向けるようになった。

彼女が何者かも知らない。話したこともない。名前すら知らない。

ただ、あの黒いケースを背負って歩く姿を見かけるたび、胸の奥がほんの少しだけ動く。


数日後、美術室の扉が不意に開いた。


「……あ、ごめんなさい! 間違えました!」


ドアの向こうで、小さな声がはねるように響いた。


入ってきたのは――あのときの女子だった。

少し額に汗をにじませながら、ぺこりと頭を下げている。


「音楽室の倉庫が閉まってて、先生に脚立が美術室にあるって聞いて……。すみません、おじゃましました!」


「……ああ、たぶん、準備室にあります」


悠は、机を離れて、美術準備室の方を指さした。


「ありがとうございます」


彼女は丁寧に頭を下げてから、奥へと入っていった。

扉の隙間から、大きな黒いケースがちらりと見える。


チューバ。やっぱり、あのときの子だ。


準備室から脚立を抱えて戻ってきた彼女は、ほっとした表情で言った。


「あの、遠野くん……ですよね?」


名前を呼ばれて、悠は少し驚いた。


「……はい」


「杉浦です。杉浦陽菜(すぎうら ひな)。吹奏楽部で、チューバ担当してます」


「ああ、あの……見たことあります」


言ってから、少し照れくさくなる。

見ていたというより、気になっていたのだ。


「チューバって……重いですよね?」


「重いです。10キロ以上あるし、かさばるし、廊下の曲がり角は鬼門です」


そう言って笑った杉浦の声は、彼女の楽器と同じように、低くて、やわらかくて、どこか安心感があった。


「でも、音は……すごく好きなんです」


悠はその言葉を、静かに反芻した。

好き、という感情に、曇りがなかった。


「絵、描いてたんですよね。今日のやつ、石膏像……アポロ、かな? かっこよかったです」


「……ありがとう」


悠は視線を少し外した。自分の絵を、そんなふうに見てくれる人がいることが、妙にこそばゆかった。


「文化祭、見に行きますね。吹奏楽部も演奏するので、もし良かったら来てください」


「……うん、行くよ」


杉浦はにこっと笑い、脚立を抱えて出ていった。

音もなく、でも確かにそこに残るような、あたたかい笑顔だった。




それから何日かが過ぎた。


悠は変わらず美術室でスケッチを続けていたが、ふと手が止まることが増えた。

耳が、音を探すようになった。


遠くから聞こえるチューバの練習音。重低音は、まるで空気を震わせるようで、でも、どこか優しい。


音って、見えないのに、残る。

絵と、少し似ているかもしれない。


昼休みの裏通路で、悠はまた彼女の姿を見かけた。

大きなケースを背負いながら、坂をゆっくり登っていく。

声はかけない。でも、風景の中に彼女がいるだけで、絵に色が足されたような気がする。


そんなある日、文化祭の準備掲示が貼り出された。

美術部と吹奏楽部が、展示の装飾を共同で行うことになったらしい。


その掲示を見ていた悠のもとに、背後から声がかかった。


「遠野くん!」


声の主は、杉浦だった。


「ちょっと話せますか? 文化祭の件で、美術部にお願いがあって」


「うん、何?」


「演奏の前に、楽器の“音の色”を伝えたくて。音だけじゃなく、見た目でも楽しんでもらえるようにしたいんです。チューバとか、見た目だけだと地味って言われることが多くて……」


そう言って、彼女はすこしだけ苦笑した。


「だから、楽器に合わせて背景画とか、展示に絵を使えたらって思ってて……無理かな?」


「……描いてみたい、かも」


杉浦の目が、ぱっと輝いた。


「本当ですか? よかった……! じゃあ、打ち合わせとか、またお願いしてもいいですか?」


「……うん、もちろん」


その返事が、こんなに自然に出るとは思わなかった。

彼女の声を聞くたびに、身体のどこかが、やわらかくなる気がする。


「ありがとう、遠野くん。……じゃあ、またね」


そう言って、杉浦は少しスキップするように廊下を去っていった。


その後ろ姿を見送りながら、悠は初めて気づいた。


あの音は、ただの音じゃない。

あの人の中にあるものが、確かに自分の中に届いている――そんな気がした。


そして、初めて思った。

もっと話してみたい、と。

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