0.01秒先の未来を見たくて、私は100mを駆け抜ける

葉月やすな

スタートブロックに立つ

―― なんで、こうなってしまったんだろう。


最後のインターハイ予選の朝。

自宅のベッドで、右足のギプスを見つめたまま、ため息をついた。



四月。放課後のグラウンド。

スタブロにスパイクをかける。

深呼吸。背すじを伸ばす。

心臓がうるさい。でも、動ける。


「このままタイムをキープできれば、推薦はちゃんと届くよ」


椎名コーチがそう言いながら、マタニティウェアの上からお腹をなでていた。

二年の秋季大会で12秒ちょうどを出した。

先輩のベストを更新して、部の中でも「推薦が見えてきた」って噂になって。


―― 次の0.01秒が、景色を変える


そう思って、私は走っていた。


「よし、いける」


勢いよく、踏み出した。



「よし、今日はここまで。ダウン、四周ねー」


スタブロを片づけて、呼吸を整える。

フォームは悪くない。バランスもいい。

外周のジョグに出ると、後ろから声がかかった。


「……やっぱさあ、彩花には全然追いつけないんだよね」


美空みくだった。

タオルで額を拭きながら、ため息ひとつ。


「最近、タイム伸びてるじゃん」


「そりゃ、誰に入部させられたと思ってんのさ」


美空とは、入学してすぐに知り合った。

一緒にお昼を食べて、なんとなく一緒に帰って。

陸上部には、私が連れていった。


「え、走るの苦手なんだけど……」


なんて言ってたのに、今じゃ中距離の主力。

100mにも出てきてる。

しかも、どんどん速くなってる。


「入部したてのころ、虫に追いかけられて、コース逆走した子とは思えないよね」

「その話、まだ言う!?」


笑い声が、グラウンドをまわった。



「集合〜、靴ひもゆるめていいよー」


コーチの声で、みんながベンチの方へ向かう。

春の空気。軽い疲労感。

わりと、好きな時間。


「今日はいい練習でした。三年生は特に、一歩ずついこう」

「はいっ」


声がそろう。

コーチがちらっと隣を見る。

「それと、今日は珍しく顧問の先生が来てくださってるので……先生からもひと言お願いします」

全員がブレザー姿の大河原先生を見る。

歴史教師。運動経験ゼロの名ばかりの顧問。


「えっ……私? あぁ……はい。えーと……」


先生はメガネを上げて、一呼吸おいた。


「走ることはまったく分かりませんが……ケガには気をつけて。はい。それがいちばん……です」

「先生、それ毎回言ってます」

「でもまあ、安心はするかも」


笑いが出る。

コーチがうなずいて、話を続けた。


「じゃあ、もうひとつだけ。出産の予定が、インターハイ予選と重なっていまして……その頃は、グラウンドに来られません」

「だよね〜! お腹けっこう目立ってきてるし」

「赤ちゃん、何月生まれ?」

「5月末。ちょうど予選とバッティングですね」

「その間は、大河原先生と、キャプテンと、三年生でお願いします」

「……大河原…先生?」


爆笑。


先生は咳払いをひとつして、言った。


「……ま、まぁ……そのときは、たぶん、君たちのほうが詳しいと思うので……よろしく、です。はい」


また笑いが広がった。


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