Op.06 「羽根の重さを受けとめて・後編」
外から朝の柔らかな光が差し込んでいた。
隣には──誰もいない。
洗面所から水の流れる音と、口をすすぐ音が聞こえる。
「おはようございます」
「おはよう」と返す。
彼女はそのまま隣に横になると、唇を近づけてきた。
「ちょっと待って、私も──」
言いかけた言葉は、唇で塞がれる。
「気にしないでください」
そう言って、彼女はもう一度、
やさしく、そして深く唇を重ねると
口の中に爽やかな味が広がっていった。
◇
アラームの音が鳴る。
ため息をつき、慣れた手つきでタップして止めた。
「そろそろ、準備しないと……」
そう言うと、彼女は名残惜しそうに
ぎゅっと抱きしめてきた。
抱きしめ返すと、そっと離れて髪を撫でた。
朝の時間はあっという間に過ぎ、
身支度を整えて軽く朝食を済ませる。
登校の時間に合わせて並んで家を出た。
静かな通りを歩き、
駅前まで彼女を送り届けると、バス停に向かった。
大学行きのバスに揺られ、
窓の外を流れる街並みをぼんやりと眺める。
昨日、今朝のことがよみがえり、
──あれで本当によかったのだろうか、と自問する。
少し冷静に思い返していた時、スマホが震えた。
画面には、彼女からのメッセージ。
指が自然に動き、すぐ返信を打つ。
やり取りが続くうち、それがいつの間にか
自分の心の支えになっていると気づいた。
────────‡────────
Op.06 「羽根の重さを受けとめて・後編」
────────‡────────
講義を終え、昼食をとるため西棟最上階の
ガラス張りのカフェへ向かう。
サンドイッチとドリンクを手に、
窓際のカウンター席に腰を下ろした。
キャンパスのランドマークである
旧館を眺めていると──
窓ガラスに映った人影が、
こちらへ近づいてくるのが見えた。
「
振り向くと、茶髪をシニヨンにまとめた
見知らぬ女性が立っていた。
歳は自分と同じくらいに見えるが、
講義中に見かけた記憶はない。
「どうしました?」
思わず声をかける。
警戒心がわずかに胸をよぎった。
「昨日のこと、少しでも後悔しているなら……
今のうちのほうがいいですよ」
静かな口調だが、強さを帯びた声だった。
息を呑む。
「どうして、そんなこと……」
言葉が続かない。
彼女は静かにこちらを見つめ、言葉を継いだ。
「私は、あなたが受け止めきれないことを知ってる」
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、
返す言葉が見つからない。
「今なら、まだ間に合う」
彼女はそれだけ言い残し、振り返らずに去っていった。
見送る視線の先で、スマホが震える。
画面にはメッセージが表示されていた。
《今、お昼食べてるんです。
購買で買ったサンドイッチ。
イオリさんは何してますか?》
返事を書こうとして、手が止まる。
すっかり食べ終えてから、ようやく画面を開くと
《私もサンドイッチ。一緒だね》と送信した。
◇
講義中も、頭からハルネのことが離れなかった。
昼休みに声をかけてきた、あの見知らぬ女性。
「受け止めきれないって……何?」
思い返していると、
自分はハルネのことをどう思っているのだろうかという
考えがよぎる。
嫌いじゃないことは確か。
でも、好き? 愛している?
単に、情に流されているだけ?
このままなんとなく過ごしていると、
──自分も彼女も壊れてしまうのではないか。
そんな恐れがじわじわと胸を満たしていく。
帰宅する頃には、外はすっかり暗くなっていた。
今日はハルネのバイトの日。
スマホは静かなまま。
ベッドに転がり、
メッセージ履歴を何度もスクロールする。
画面を見つめながらも、答えは出ない。
終わらせるべきか、続けるべきか──
心は揺れたままだった。
そのとき、スマホが震える。
《バイト終わりました》
すぐに《おつかれさま》と返すと、
間を置かず返信が来た。
《今日も会えますか?》
画面を見つめたまま、胸の奥がざわつく。
会えば、また手放せなくなるかもしれない。
それでも──今は顔が見たかった。
《じゃあ、近くのコンビニで待ち合わせしよう》
送信ボタンを押したあと、すぐに上着を手に取る。
心臓の鼓動が、歩き出す前から早くなっていた。
◇
近所のコンビニに着くと、まだ彼女の姿はなかった。
少しでも落ち着こうと、
何気なく陳列棚のペットボトルを手に取ってみる。
冷たい表面が、火照った掌にひやりと触れた。
背後から足音が近づく。
「……イオリさん」
振り返ると、仕事終わりの彼女が立っていた。
制服の上から羽織ったカーディガン、
少し乱れた髪、息遣いがまだ忙しい。
その姿を見て思わず抱きしめそうになり、
手を伸ばしかけて──すんでのところで止めた。
「……晩ごはん、どうする?」
「ここで何か買っていきません?」
並んで陳列棚を歩き、
レジ袋の中に、ふたり分の夕食を買う。
店を出ると、
夜の空気が少しひんやりと頬を撫でた。
すると、「いいですか?」と
ハルネが腕を組んできて言った。
微笑んで返すと、そのまま並んで歩き、
部屋へと戻っていった。
◇
テーブルに並べたおにぎりとサラダ、
温めたカップスープから湯気が立ち上る。
向かい合って箸を取り、
他愛もない会話を交わしながら夕食をとった。
食べ終えると、彼女はカップを置き、
テーブルの端で指先を弄びながら視線を落とす。
「……イオリさん、今日も……いいですか?」
一瞬、息が詰まる。
昨夜感じた体温と吐息が、
鮮やかに脳裏によみがえる。
でも──
迷いが喉元までせり上がるが
ゆっくりとうなずいた。
◇
シャワーを終え、
髪を軽く拭きながら部屋に戻ると、
彼女はすでにベッドに横になっていた。
夜の支度を手早く済ませ、
そっと掛け布団をめくった瞬間、
ルームウェアを身につけていない彼女が、
腕を伸ばしてきた。
一瞬、固まる。
けれど、そのまま引き寄せられ、
隣へ身を横たえてしまう。
視線が合った途端、
彼女は腕を回し、顔を近づけてきた。
唇が触れる。
拒もうとする意志は、触れた温もりの中で
あっという間に溶けていく。
いけないと思っていても、
求められると拒めない。
気づけば、そんな夜が何度も繰り返され、
少しずつ心も体も疲れていく。
そして、だんだんと──
これで本当に良いのだろうかという思いが、
胸の中で大きくなっていった。
◇
──梅雨明けも近いある日。
大学へ向かうバスに揺られていると、
画面には、彼女からのメッセージが
また届いていた。
返信しようと指を動かしかけて、
一瞬、手が止まった。
スマホをそっと伏せ、目を閉じる。
ゆるやかな振動に身を任せながら、
胸の奥で言葉が渦を巻いていた。
大学に着く頃、
再びポケットの中でスマホが震えた。
画面には、短い文字が並んでいる。
《どうしたんですか?》
画面を見つめたまま、指先が止まる。
返したい言葉はいくつも浮かんでくるのに、
どれも喉の奥で引っかかって消えていった。
スマホをそっと伏せ、深く息をつく。
少し前、昼休みにカフェで、
あの女性に言われた言葉がよみがえる。
「あなたが受け止めきれないことを知ってる」
「……はぁ」と短くため息をついた瞬間、
ふと思い出した。
あの人、バイト先で見たことがある。
でも、なぜ私のことを知ってる?
そして──なぜあんなことを。
◇
授業を終えてスマホを手に取ると、
ロック画面にいくつも
メッセージ通知が並んでいた。
《今、何してますか?》
《もう授業終わりました?》
《お昼何食べました?》
画面に並ぶ短い文章が、
じっとこちらを見つめているように感じる。
開けば既読がつく──
そう思うと、
まだアプリを開く勇気はなかった。
帰りのバスの中で、
(このまま続けていたら……
自分がおかしくなってしまうかもしれない)
そんな考えがふと頭をよぎる。
けれど、彼女のことを思うと──
どうしても、離したくない自分もいた。
ため息をひとつこぼし、バスを降りる。
そのまま部屋に戻り、
着替えを手にシャワーへ向かった。
湯に包まれれば、この胸のざわめきも
少しは流れて消えてくれる気がした。
シャワーを終える頃には、
ほんのわずかだけ胸の重さが和らいでいた。
濡れた髪をタオルで押さえながら
ベッドに腰掛け、深く息を吐く。
ようやく、
少しだけ落ち着きを取り戻せた気がした。
──と、その時、スマホが震えた。
画面には、彼女からの短い一文。
《会いたい》
迷いを振り切るように、
メッセージアプリを開く。
深く息を吸ってから、返信を打ち始めた。
《じゃあ、今からそっち行くね》
送信ボタンを押した指が少し震えた。
胸の奥には決意と、
これから訪れる覚悟が重くのしかかっていた。
◇
ロマールの裏口に着くと、
彼女は着替えを済ませて待っていた。
私を見ると、
軽く手を振りながら近づいてくる。
思い切って声をかけた。
「ちょっと、公園に寄らない?」
「はい」と、ハルネは素直に答えた。
駅と反対方向にある、
東屋のある小さな公園へと足を向けた。
彼女は歩きながらぽつりぽつりと
話しかけてくる。
けれど、気持ちが散っていて、
返事をしながらも、どこか上の空だった。
静かな公園へと足を運んだ。
少し肌寒い風が木々の葉を揺らしている。
東屋のベンチに腰を下ろすと、
「静かですね、ここ」
彼女が小さな声でつぶやいた。
少し間を置いて、ハルネが視線を伏せたまま口を開く。
「……今日は、
どうしてメッセージくれなかったんですか?」
その言葉に、ゆっくりと息を吐いた。
「ごめん……
最近ずっと考えてて。
このまま続けていったら、
だめになっちゃうかもしれないって……」
自分の声に、
迷いと痛みが混じっているのがわかった。
彼女は小さく「えっ」と呟いたあと、
言葉を続けられなくなり、ただ俯いてしまった。
沈黙がしばらく続く。
「どうして……」
彼女の声は震え、涙がこぼれそうだった。
小さな体を震わせながら、
必死に感情を抑えているのが伝わってくる。
「このまま続けたら……
きっと、どちらも辛くなる」
声が震えそうになりながらも、
言葉を選んで告げた。
短い沈黙ののち、彼女が顔を上げる。
「わたし、イオリさんしかいないんです」
その切実な言葉に、
胸がぎゅっと締めつけられた。
「家に帰っても一人だし、
いつもメッセージくれて嬉しかった」
そう言いながら、彼女の目に涙があふれた。
こらえきれず、小さく嗚咽が漏れる。
「ずっと……夜、一人で、寂しかったんです。
時々、なんで生きてるのかって……
思ってしまって、それで……」
そう言いながら、
彼女は自分の腕をそっと押さえた。
涙を見た瞬間、言葉が詰まる。
「……ごめんね」
それだけを、精一杯の思いを込めて伝える。
「このままじゃ……」
言葉が途切れ、喉が詰まる。
「……きっと、壊れちゃうかもしれない」
必死に伝えようとした。
(今ならまだ間に合う)
胸の奥で、あの声が響く。
──これでよかったんだろう。
そう信じるしかなかった。
彼女は黙ったまま、涙をこぼしていた。
言葉は交わさず、
彼女の嗚咽だけが二人の間に流れる。
その沈黙の中で、
何度も言葉を探そうとして、
結局見つからなかった。
やがて彼女がそっと顔を上げ、
震える声で囁いた。
「最後に……抱きしめてくれませんか?」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
抱きしめたら、きっともう戻れない──
「ごめん……」
そう小さく呟き、ゆっくりと立ち上がる。
そのとき──街灯の光を受けて、
彼女の髪飾りの羽根のチャームが
一瞬きらりと光った。
胸の奥に、初めて見た日の笑顔がよみがえる。
彼女の泣き声が遠くなっていく。
振り返らずに公園の出口へ向かっていると、
今度はあの夜、
チャームの話をしたときに見せた
少し照れた笑顔が浮かび上がった。
──私が、ずっとそばにいてあげたい。
その瞬間、胸の奥からこみ上げるものがあふれ、
涙が頬を伝っていた。
涙を拭った瞬間、足が勝手に動き出していた。
気づけば、
公園の出口から彼女のもとへ駆けていた。
走り寄ったその先で、彼女をそっと抱きしめた。
「……ごめんね」
震える体を腕の中で包み込み、
離れないように、互いの温もりを確かめ合った。
彼女は涙声で、
途切れ途切れに何度も私の名前を呼んだ。
耳元で囁く。
「……もう、寂しいなんて言わせたくない」
「……でも、また迷惑かけるかも……」
消え入りそうな声だった。
「受け止めきれない」
──あの言葉が頭をよぎった。
だから、今日ここで別れを告げると決めた。
それが正しいと思っていた。
でも、一度は離れると決めたからこそ、
いまようやく、本当の気持ちと向き合えた。
迷いも、不安も、弱さも──
そのすべてを、もう逃げずに抱きしめられる。
きっと、もう大丈夫。
彼女の温もりが、吐息が、
胸の奥にじんわりと染み渡り、確かな絆を感じた。
そっと肩へ手を伸ばし、布地をわずかにずらす。
露わになった肌に刻まれた傷跡へ、
ゆっくりと唇を近づけ、口づけを落とす。
冷たさと痛みを含んだ痕に、
優しさを込めて触れるように。
公園の灯りがふたりを淡く照らし、
影はゆっくりとひとつになった──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます