【SF短編小説】完全記憶探偵はバッハの夢を見るか? ~消されたパリンプセストのフーガ~

藍埜佑(あいのたすく)

第1話:情報の海に溺れる者

 都市メガロポリスは、絶え間なく降り注ぐクローム色の酸性雨に濡れていた。空は工業汚染物質でできた分厚い雲海に覆われ、天然の太陽光が地上に届くことは年に数えるほどしかない。灰色と黒で構成された垂直に伸びるビル群の狭間を、色褪せたネオンサインの光だけがぼんやりと照らし出し、この憂鬱な世界に唯一の色彩を与えていた。アスファルトを叩く雨音は、決して止むことのない通奏低音だ。


 ヘルメスは、防音仕様の安アパートの十二階で、壁一面を埋め尽くす巨大なサーバーラックから流れ込む情報の奔流に、ただ身を浸していた。三十二歳になる彼の脳は、他の人間とは根本的に異なっていた。医学的には「構造的統覚記憶症候群」と呼ばれる、生まれつき備わった異常な神経回路。その回路は、一度見聞きした全ての情報を、劣化することなく、完全に、一字一句違わずに記録し続ける。都市の全住民の電話帳、改訂を重ねたオンライン百科事典の全項目、メガロポリス交通システムの過去十年分の全ログデータ、警視庁のデータベースから流出した数十万件の犯罪記録、過去五十年分の株価の変動パターン……。それら天文学的な量のデータは、彼の頭の中で、巨大な索引を持つ図書館のように、完璧に整然と、そして冷徹に並べられている。


 しかし、その驚異的な能力は、彼から人間的なものを奪い去る代償を強いた。


 彼は、情報に込められた「意味」や「感情」を理解することが極めて苦手だった。人の表情筋の微細な動きから感情を読み取ることも、言葉の裏に隠されたニュアンスや真意を汲み取ることも、彼にとっては量子物理学の論文を解読するよりも至難の業だった。世界は、彼にとって、膨大で、しかし温度のないデータの集合体に過ぎない。人々の笑い声も、悲痛な泣き声も、彼の脳にはただの周波数と振幅を持つ音波パターンとして記録されるだけだった。その音が引き起こすはずの内面的な共振を、彼は知らない。


 ヘルメスは、自らの特異な能力を武器に、非合法の「記憶探偵」として、細々と生計を立てていた。警察の公式記録から抹消された失踪者の最後の行動パターンを、関連する無数の監視カメラ映像や交通記録から再構築する。クラッシュしたサーバーから削除されたデータの痕跡を、電磁ノイズのパターンから脳内で復元する。あるいは、パニックに陥った証人の曖昧模糊とした記憶を、客観的データと照合することで事件の真相を導き出す。警察もサイバー犯罪課も匙を投げるような難事件を、彼はこの薄暗い部屋から一歩も出ずに解決してしまう。だが、その仕事ぶりはあまりにも機械的で、依頼人の心情に寄り添うという概念が存在しなかった。感謝の言葉も、安堵の涙も、彼にとっては意味をなさない情報だった。


 窓を叩くクロームの雨音が、規則的なリズムを刻んでいる。毎秒平均4.7滴。降水強度、中レベル。ヘルメスは今日も、網膜ディスプレイに映し出された無数のデータを脳内で整理し、タグ付けし、分類していた。その時、静寂を破って、アパートのドアチャイムが鳴った。電子音は784ヘルツのG5。三回。この時間に訪ねてくる人間はいない。予定されているデータではない。彼の完璧な世界に、予期せぬ変数が挿入された。


 彼はゆっくりと立ち上がり、重たい足取りでドアに向かった。ドアスコープを覗くと、そこに立っている人影が、雨に滲んだレンズ越しに歪んで見えた。

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