第2話
(二)
一週間ほどして、施設へ外泊届を出して、二、三日津山の親戚へ行ってくると、小さな嘘を言う。誰もそんなこととは知らないので、寒い時期だから気をつけてね、と優しく言ってくれるだけだ。
リュックサックに二日分の着替えを詰め込んで、去年買ったものの一度も使ったことのない、デジカメを入れる。もう二度と行けなくなるかもしれない阿波の写真を撮っておこうと思う。現金も財布のほかに、リュックの中と靴下の中にいくらかずつ入れておく。情けない話だが、このごろはよくものを無くしてしまうようになった。
そして、金曜日の朝、九時を過ぎて施設を出て倉敷から電車に乗る。岡山で津山線に乗り換える。津山からは更に因美線に乗り換えて、高野にある広田家の墓に参るつもりだった。しかし津山駅で時刻表を見ると連絡が悪く、二時間以上待つことになる。
昔はもっと便数があったはずだが仕方がない。津山で少し早目の昼食にして、タクシーで高野まで行くことにした。大した距離でもないのだ。
高野から少し山の手へ入った明善寺という寺が檀家寺で、その裏手の墓地に墓がある。
寺についてから、花も線香も持ってきていなかったことに気がついて、今更ながら親不孝者だと苦笑いをしてしまう。
そして、墓地まで行くと墓の場所が分からず、探すことになる。
親父さんが死んだときには、墓は阿波の寺にあった。兄貴がお袋さんを一人にはしておけないと、津山へ引き取るのと一緒に墓もここへ移したのだ。そして、その兄貴が死んだときに、葬式のあと納骨に来たのが最後で、かれこれ十年近くになる。
一筋ずつ見て行って、ようやく探し当てた。
やはり、こっちの甥や姪はそう信心深くもないだろうと思っていたが、墓にはいつのものだかわからない花の枯れた茎だけが残っていて、周りも土ぼこりが積もっている。
『親父やお袋、それに兄貴もこれじゃ浮かばれん。しかし、わしも変わらんか。十年もの間墓参りもせずにおったんじゃ。それで、早うこっちへ来いと呼ばれることになったやもしれんなあ』
墓地の隅に掃除用のバケツやブラシが備えてあり、それを拝借して掃除だけでもしておこうと思う。水は手が凍るように冷たい。
ひしゃくで墓石の頭から水をかけて、汚れを流そうとしても、ブラシではなかなか上手くいかない。仕方なく、持ってきたハンドタオルを一枚、雑巾代わりにして洗っていく。
すぐに冷たさに手が痛くなり、言うことを聞かなくなる。しずくを払って息をかけ、両足の間で温める。感覚が戻るとまた続けていく。暖かい時期なら十五分もあれば終わるところが、小一時間もかかってしまった。
――親父さん、お袋さん、ご無沙汰してすまなんだ。どうやらわしもそう遠くないうちにそっちへ行くことになりそうじゃ。肺ガンじゃと。まあ、もう親父さんの死んだ年よりも随分長いこと生きてきたんじゃから、そろそろとは思うとったんじゃが、あっけないものよのう。初枝と一緒にここへ入れもらいたいと健二には遺言したが、いつのことになるかはわかりゃせん。
――わしはこれからちょっと阿波へ行て来よと思うとる。
――兄貴に任せたんじゃから文句も言えんが、親父さんもお袋さんも阿波からこっちへ移ってきて、淋しかったろう。やっぱり阿波がふるさとじゃけんの。
浅次郎は、明善寺を後にして高野駅まで歩いた。
ところが智頭方面行は、昨日までの雪で、どうやら美作加茂までの折り返し運転のようだ。
加茂までは雪が降るとは言っても、そう大したことはない。知和を越えて砕石場のある谷あたりから世界が変わるのだ。次の美作河井の東、物見から向こうの道路は、冬は通行止めになる。阿波は雪は多いものの、除雪もされて村の終点まで車でも行ける。
何とか河井まで行ければ、後は歩いても四、五キロだ。とりあえず加茂まで行って、様子を見よう。
高野駅の狭いベンチに腰を下ろして、ふうっと一息つく。気温は低いのだろうが、寺から歩いてきたために体は温まっている。まだ足腰はそう弱っていないと小さな自信を取り戻すことができた。
眼を閉じると、阿波の春の光景が浮かんでくる。一年中そこで暮らしていたのに、思い出すのはいつも春だ。
浅次郎の記憶にあるのは、戦後すぐの阿波の光景である。終戦になったと皆が喜んでいたが、浅次郎にはよく理解できないでいた。
毎日の暮らしが変わるわけではなく、阿波には田んぼと山があるだけだった。それまで国民学校と言っていたのが、四年生になるときに小学校と呼ばれるようになったのが一番の変化だ。
今はどこへ行っても相当の山道まで舗装されているが、あの頃は舗装という言葉さえ知らなかった。道は土でできているものだった。たまに今で言う軽トラック、あの頃はオート三輪が走ったり、リヤカーが通る。その車輪の通るところは少し掘れて土が見え。車輪の当たらない道の真ん中には雑草が生えていた。雨が降ったら当然水たまりができ、ひどくなるとそこへ土を入れて固める。
道端や田んぼの畦にはタンポポや菜の花が咲いていた。
――そうじゃ、尾所の桜はいつも見事に咲いとったなあ。
学校からまっすぐ家に帰ることはなく、かなり遠回りにはなるのだが、その時期はいつもその山桜を見て、その辺りを駆け回ってから帰っていた。
――そういや、あそこの近くの文太、ええと苗字はなんと言うたかな、まだそこに住んどるんじゃろうか。同級生じゃったから、あいつももう七十八、生きておればええが。
そんなことを考えていると、間もなく加茂までの列車が入ってきて、車掌が駅舎内まで来て案内をしてくれる。
それに乗り込むのも、浅次郎の他には三人ほどだ。
すぐに乗りはしたが、行き違いの都合だろうかなかなか発車しない。そう急ぐ旅でもないが、あまり遅くなると、阿波に着いたころには暗くなってしまう。
昔は民泊宿がたくさんあった。今でもあれば助かるがと思う。
やがて、列車が動き始め、アナウンスでこの列車は美作加茂駅までですと何度も繰り返していた。
加茂へ降り立った浅次郎は、さあてこれからどうするかと思案する。タクシーはある。小学校のあたりまで行って、浅次郎が住んでいた家までは辺りを眺めながら歩くことにした。
「河井の駅までなんぼくらいかかりますかいの」
駅前で客待ちをしていたタクシーの運転手に尋ねてみる。
「三千円まではかかりませんが」
JRならたったふた駅で二百十円のところに三千円とはいかにも惜しいが、列車がすぐに運行を再開することはなさそうである。それ以外に方法はない。
「ほんじゃあ、ついでに阿波の小学校の所まで行ってもらえるかの」
運転手はちょっと空模様を見て頷く。
雪が激しくなると、スタッドレスのタイヤでも危ないので気にしたのだろう。
「阿波まで行きなさると四千円はかかりますよ」
「そう変わりゃあせんが」
浅次郎はリュックを降ろして乗り込む。
「お客さん、これから阿波ですか」
「里帰りじゃ」
「そうですか、向こうにご親戚が」
「いいや、そういうわけじゃありゃせんが、ふとそんな気になりましてな」
「これから行って帰るとなると遅くなりますよ」
「その時には民泊に泊ろうと思うとる」
「民泊?民宿のことですか?あの辺りには見かけませんが」
「ほう、のうなってしもうたんか」
「では、遅くなってお困りでしたら電話ください。迎えに上がります」
運転手は愛想よく名刺を渡してくれた。
「ありがとう。そんときゃあ頼みます」
除雪はしてあるとはいえ、スピードは出せない。それでも、浅次郎にとっては驚くほど立派な道が整備されている。
「小学校といっても去年閉校になっとりますが、小学校でよろしいか」
「なんと、小学校が。そういう時代かのう。いや、その辺りでかまやせん」
三十分ほどで小学校前に着く。
料金を払い、三十年近くご無沙汰していた阿波に降り立った。
小学校の校庭には五、六十センチほどの雪が積もったままで、辺りは見渡す限りの雪景色である。他所から来た人たちには雪深いと驚かれもするだろうが、浅次郎にとって冬の阿波はこれが普通なので特に驚くこともない。
しかし、小学校が閉校になったとは驚きだった。浅次郎が通っていた頃は、各学年に三十人を超える生徒がいたはずなのに。そして、校舎も立派な鉄筋コンクリートの見違えるようなものに立て替わっているのに。
『ということは、この辺りも過疎が進んでいるんじゃろうなあ』
がっかりしてしまい、ため息が出る。
『山美しい美作の その高原のまなびやに
手をとりあって まなびます
われら阿波小 光の子』
何十年も思い出すこともなかった校歌が思わず口をついて出る。
その当時、式典や行事の時には必ず歌わされていたが、浅次郎は真面目に歌った記憶がない。それが、いまだに忘れずにいるどころか、思い出そうとしなくても迷うこともなく歌える。不思議なものだ。
誰もいない小学校を見ていても仕方がない。郵便局前から左へ折れると、一キロまではないが尾所の桜がある。今は葉も落ちてしまっているだろうが、ここまで来てあの桜の木を見ないわけにはいかない。
しかし、県道はきれいに除雪されているが、横道に入ると、そのあたりに住んでいる人が動ける範囲だけが除雪されている。山裾の道になると、膝までが埋まってしまう。
それにしても立派な道がついていることに驚かされる。道の両脇に雪が積まれているために、実際の道の広さがどれほどかは分からない。それでも、昔は畦を少しだけ広くしただけのような道しかなかったのに、道の幅は倍以上あり、舗装までされている。
何とか尾所の桜までたどり着いた。
なんと県の指定天然記念物となっていて、大きな石碑まで建っている。
――ほう、これはたまげた。偉いもんになりよって。まだまだ長生きしてもらわにゃならんの。
昔からの馴染みであることがちょっと自慢に思えてしまう。
桜の木の反対側にあった、幼馴染の文太の家はすでになくなっており、どこかの小さな倉庫があるだけだった。最後に会ったのは浅次郎の親父さんの葬式で、あれから三十年も経っている。生きていても、どこかへ越していったかもしれない。
時刻は四時を回っている。
――おっと、ゆっくりしておったら、第一の目的だった生まれ育った家を見に行けんようになる。
慌てて来た道を戻り、北へと歩いて行く。一台の車も通らず、歩いている者もない。
雪景色は変らないとはいえ、三十年の間にずいぶんと家は変っている。茅葺屋根家がほとんどなくなり、今風の家に建替えられている。尾所川が加茂川に合流する辺りまででほぼ半ば。
小椋家や森家の墓が道の右側にあるのは昔から変わらない。それを過ぎると、阿波ふるさとふれあい会館という大きな建物とグラウンドが新しくできていた。やがて、目印になる三本杉が見えてくる。その向かいが浅次郎の家だ。
ようやくの思いでたどり着いたものの、茅葺屋根は残ってはいたが、もう半分のところで崩れかかっており、これではいつ潰れても不思議ではない。隣の林の家は立派に建替えられている。それだけに余計にみすぼらしく見える。
屋根には雪が三十センチほど積もっていて、その重さに耐えているのが不思議なほどである。
裏へ回ってみると、折れた屋根のすぐ下に大きな穴が開いていて、そこには雪がない。屋根を支えている木組みの丸太が見えている。雪は家の中まで落ちているのだろう。
もう家の中へ入ることもできない状態だ。
浅次郎が中学を出て西大寺へ就職した時には、すでに古い家だった。
――お袋さんが兄貴のところへ行ってから、もう三十年になる。それ以来、誰も手入れをしていないのだから仕方がない。
しばらくそこで立ち尽くしてしまう。
玄関を入ると二畳分ほどの土間があって、すぐに囲炉裏のある居間があった。勝手はその隣、兄貴と浅次郎の部屋は左手の一番奥だった。道に向かってガラス戸があり、寝るときにはその外の雨戸も閉めて寝る。日中は縁側に座り、何をするともなく空を見上げて足をぶらぶらさせているのが好きだった。
記憶にある頃から、浅次郎は風呂の薪を運ぶのが役割だった。裏にある薪小屋には、親父さんが薪を割って積み上げてあり、それを風呂のかまどへ運ぶのだ。種火はお袋さんが新聞紙に火をつけて、その後が浅次郎の仕事だった。浅次郎が嫁をもらい十年ほど経ったときに、ガスで沸かすようになったために、その薪小屋もなくなっている。
そうして朽ちた姿の家を見ていると、それは人の一生でも同じだと思えてくる。
長い間時間が経てばガタがくるのはやむを得ない。それよりも、誰からも必要とされなくなったときが寿命なのだ。
家も誰かが住んでいれば、古くなっても急に壊れてしまうものではない。茅葺を吹き替えたり小さな補修をしていけばよいだけのこと。ところが誰も住まなくなった家は、なぜかすぐに傷んでしまう。まるで家にも意思と言うべきか心と言うべきか、そういったものがあるようだ。
誰からも愛され、毎年のように声をかけてくれる尾所の桜は五百年のときを越えて生き続け、この家やわが身はお役御免になっているのだろう。
浅次郎は、辺りがうす暗くなるまで、その朽ちた家の前で、思い出を辿った。そして、ここでの思い出が尽きたときに、歩き始めた。
限りない記憶があるはずだが、すぐには思い出せない。しかし、それはもうよかろうと思ったのだ。
どこへ行こうというあてはない。
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