第32話 キミのいない部屋で僕は
白河さんが出て行ってから、二日が経った。
今日は日曜日で、大学は休みだが、特に何も予定はない。
だが、僕はいつも通りの時間に目が覚める。
自室から出て、窓のそばまで行き、カーテンを開けた。
見上げる空は、今日もどんより曇り空。
一体いつになったら、梅雨が明けるんだろう?
そんなことを考えながら、僕はいつものルーティーンを開始する。
洗面所へ行き、歯を磨く。
リビングに戻ってきて、キッチンへ向かい、朝食を作る。
「あっ…………」
そして、いつも通り……そう、いつも通り、二人分の朝食を作ってしまった。
「そっか……もう……いないんだっけ…………」
僕は無意識に、白河さんの部屋を見た。
いつもなら、もうお昼前だってくらいの時間になると、昨日も遅くまで配信してたのか、まだ眠い目を擦りながら、気だるい感じで部屋から出てくる。
でも、あの部屋から、白河さんが出てくることはなくて…………。
僕の作った料理を、いつも本当においしそうに食べてくれて、「おいしい」って、食べるたびに言ってくれる。
でも、その言葉も、もう聞けなくて…………。
僕が、リビングのソファでくつろいでいると、急に後ろから近づいてきて、僕の耳に息をかけてきて、それで驚く僕の姿を見て、ケラケラ笑う。
でも、その、いたずらな笑みも見ることはできなくて…………。
この部屋のどこを見ても、そこには、白河さんがいる。
それなのに、そのすべてが、少しずつ、そして確実に薄れていく。
消えてほしくなくて……。
手を伸ばしても、そこには何もなくて……。
僕の手の中には、何も残ってはいない…………。
何も、守れない……から…………。
「あっ…………」
気づけば、僕の頬に一粒の涙が伝っていた。
ああ……僕って、白河さんのこと……………………。
バチンッ!
僕は両手で、頬を叩いた。
「いつまでくよくよしてるんだ、僕は! よし、こういう時は、ランニングだ!」
◇
「ハァ……ハァ……」
トレーニングウェアに着替え、ランニングし始めて、そろそろ二時間。
もうすぐお昼だし、一旦、家に帰って昼食にしますか。
マンションの近くの森林公園が、今の僕のランニングコースになっている。
とにかくがむしゃらに走っていると、嫌なことなんて忘れたり、考えていたことの答えが意外とスッキリ出たりする。
まあ……今回に限っては、そこまでスッキリした感じにはならなかったりもする…………。
森林公園からマンションへ。
すると、マンションのフロントに、傘を二本持った来栖さんが立っていた。
「あ…………」
「来栖さん……? どうしたの?」
「いや…………えっと……あ、あの日……あんた、急に飛び出していったから、傘……忘れていったでしょ?」
「ああ、そうだったね。そっか、わざわざ届けに来てくれたんだ。別に、明日、大学で渡してくれてもよかったのに」
「いや……その……こ、これとは、別で…………あ、あんたのことが……気になって…………」
そっか。わざわざ心配してきてくれたんだ。
でも――
「ありがとう。でも、大丈夫? 来栖さんも、僕に近づかないように、梅原さんから言われてるんじゃない?」
来栖さんは一瞬、ハッとした表情になるも、すぐに顔を背けた。
「……そ、そうだけど…………」
まあ、そうだよな。
あの梅原さんが、白河さんだけに言っているわけじゃないはずだ。
来栖さんや、僕が知らないVTuberさんたちにも、注意喚起されているんだろう…………。
「けど、私は…………!」
「来栖さん…………?」
「けど、私は、やっぱりあんたのことも心配なのよっ! だから、梅原さんから事務所からとか関係なく、一人の友人として、私はここに来たの! そ、それに………sれにっ……!」
たまに言葉に棘はあるものの、根っこの部分はやっぱり優しい人なんだよな、来栖さんは。
「わ、わかったから、ちょっと落ち着いて、ね? あ、あの、よかったら上がっていきなよ。って言っても、僕が家賃払ってるわけじゃないけど……」
僕は、無理やり笑顔を作って、場を和ませようとした。
「いいよ、無理しなくて…………」
来栖さんには、何もかもバレバレなようだ。
ほんと、人のことよく見てるな、この人。
◇
僕と来栖さんは、リビングの食卓テーブルに向かい合うように座り、コーヒーを淹れたカップを来栖さんに差し出す。
「どうぞ」
「ありがと…………」
ちなみに、ここに来るまでの間、お互いに無言だった。
来栖さんは、コーヒーの表面を見ながら、口を開く。
「あ……改めて、本当にごめん……麻宮……。私のせいで、あんたたち…………」
「ううん。別に来栖さんのせいじゃないよ? もとはと言えば、僕がこの家に住むって決めたときから間違っていたんだからさ」
「麻宮…………」
「それに、聞いたよ? 来栖さん、なかなか梅原さんに僕たちのこと言わなかったって」
「そ、それはそうでしょ……私だって、沙和子が悲しむ顔、見たくなかったし…………って、まあ……結局は、梅原さんに全部話しちゃったけど…………」
「それも仕方がないことだよ。それに、来栖さんが僕に本当に言いたかったことが、梅原さんと話して、やっと分かったんだ」
――あなたが、邪魔なんです。沙和子にとって
――星海シーナのブランディングが守れるわけがない
――何千、何億という損害
梅原さんに言われた言葉を一つ一つ思い出す。
今更だけど、梅原さんの言う通りだ。
ただの大学生が、何千、何億というお金を動かせる相手に対して、特別な感情を持つべきではないし、ましてや、同じ屋根の下で生活するなんてよくない。
だからきっと、白河さんにとっても、これでよかったんだ。
「麻宮……。私が、こんなこと言える立場じゃないけれど…………あんた、ホントにこのままでいいの…………?」
「うん。というか、僕が今更どうこうできる問題をとうに超えているし。それに、白河さんも考えた末に、これがベストだって決めたに違いないから」
「そんなことっ――」
「いいんだ、来栖さん」
「あ、麻宮…………」
「ほんと、心配してくれてありがとう。良ければ、これからは、僕の新居の心配を一緒にしてくれると、ありがたいんだけど?」
「もう……なに、それ」
少しだけ、表情が柔らかくなった来栖さん。
僕のせいで、来栖さんまで落ち込む必要はないんだ。
「よし。こういう時こそ、星海シーナのASMRを聴くべきじゃないか?」
「えっ? あ、あんた……まだ…………」
「ちょい待ちっ! 別に未練があるってわけじゃ全然ないから。ただ単に、来栖さんが今までそうしてきたように、僕も、星海シーナのASMR配信を聴いて、元気になろうって話だけだよ」
「まあ……そういうことなら…………」
来栖さんは、カバンの中から、ノートパソコンを取り出す。
そのまま立ち上がり、来栖さんは、僕の横に座り直した。
「べ、別に勘違いしないでよ? こうした方が、お互いに見やすいってだけでっ…………!」
「うん? 別に何も気にしてないけど?」
「…………あっそ」
え? なんで少し不機嫌になるんだ?
「あれ? 沙和子、配信してる…………」
「そうなの?」
「うん。あの子にしては珍しいわね、こんな時間から。しかも雑談配信なんて」
「雑談配信?」
「うん。言葉の通り、ただただリスナーと雑談するだけの配信のこと。どうする? 見て見る?」
「う、うん……来栖さんが良ければ」
「わかった」
来栖さんは、星海シーナのチャンネルページにある、赤い枠に白字で【ライブ】と書いてあるところをクリックした。
『――でな。そしたらもう――』
星海シーナの声だ。
なんだか、久しぶりに聴いて、なんとなく気恥ずかしくなる。
でも、なんだか…………。
「元気、なさそうね…………」
横に座り、一緒に、星海シーナの配信を見ている来栖さんも、気付いているようだ。
:まあ色々あるよね
:てか、艦長、元気なくない?
:それ思った
:久しぶりだからか?
どうやらリスナーの人たちの中にも、気づいている人はいるみたいだな。
『なに? 私が元気なさそうに見えるって? んー。まあ……そうかも、しれないな…………』
:どしたー?
:話きこかー?
:言えないこともあるだろ
:言いたくなければ、言わなくてok
『フフッ、みんな優しいな。うん……ちょっと、配信上で話せない内容だから…………』
:了解
:まあそんなときもあるわな
:違う話しよー
:もうお昼ごはん食べたー?
『お昼ごはん? いや、まだだな。みんなはもう食べたのか?』
:食べた
:食べてお腹いっぱい
:まだ食べてないよ~
:今日は、お高めの店でランチしたー
『お高めのお店でランチか、いいな。私は何を食べようかな?』
:焼肉
:カレー
:ハンバーグ
:いや、艦長子供か
『アハハハ。別にどれも私は好きだぞ?』
:シーナたんなら、牛丼でしょ?
『おっ。よく覚えていたな。そうなんだ、私は、全国のどこにでもある、あのお店の、温玉のせ牛丼が大好きなんだ』
:水兵さんなら常識
:知らないやつはニワカ
『おいおい、そこまでじゃないだろ。初見さんもいるんだから、そういう強い言葉は言わないように』
:ごめん
:すまんかった
:それで、今日のお昼はどうするのー?
『んー、そうだな。せっかく話にも出てたし、今日は久しぶりに、デリバリーサービスに頼んで、あの温玉のせ牛丼を食べるとしようか』
デリバリーサービス…………。
僕はその言葉を聞いた瞬間、なぜか胸騒ぎがした。
:いいね
:俺も今日は牛丼にする! 仕事が終われば……
:了解
:今からお届けします
『アハハハ。また厨房から持ってくるつもりだな、キミは』
:バレたか
:それな
:ガチで
「ねぇ、来栖さん…………」
「ん? なに?」
「白河さんって、前に梅原さんに怒られたことなかった?」
「は? どういうことよ? てか……沙和子が梅原さんに怒られてない時の方が少ないんだけど?」
白河さん、どんだけ怒られてるんだよ…………。
「じゃ、じゃあ……デリバリーサービス関係で、何か覚えてない?」
「は? 何それ? ん~……まあ、今、配信でも言ってたみたいに、前の家では、牛丼ばっかり食べてたから、それで怒られてたような気がするわね」
「前の家…………」
――それを配達員さんが家まで届けてくれるんだよ
「あ、あと……前に話してた、どっかの誰かさんが偏った食生活してるって話の、どっかの誰かさんって、白河さんのことだった……?」
「え? う、うん……そうだけど……それが何なのよ?」
――私って、すぐ口を滑らしちゃうから、つい言っちゃいそうでさ
「…………ッ!?」
「ちょっ!? きゅ、急に立ち上がったりしてどうしたのよっ?」
そんな……まさか、な…………。
いや……もし、そうだとしたら…………!?
僕は、横に座り見上げてくる来栖さんの両肩を掴む。
「来栖さんッ!」
「ちょちょちょっ!? えっ!? な、なになにっ!?」
なぜ顔が赤いのか、ツッコミたい気持ちを抑え、来栖さんの目をまっすぐに見つめて、僕は真剣に尋ねる。
「プリプロの事務所って、どこにあるの?」
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