紫陽花の家
砂山 海
プロローグ あじさいのいえ
六月の雨の中、私はタクシーに乗っていた。タクシーの中は無音で、ワイパーが雨を切る音がやけに大きく響く。運転手さんも寡黙な人なのか、私が必要な指示を出す時以外は喋らない。若干緊張している私にはそれが良かった。
「すみません、ここ右ですね」
スマホで住所を確認しながら進む。時折顔をあげ、しとどに濡れた窓ガラス越しに目印となる建物を確認し、手元の地図アプリと照らし合わせる。ただ、これを曲がったらもう住宅街なのでアプリからの手掛かりは無くなる。あとは私が知ってる特徴だけだ。住所は近い、目立つとも言われてる。
「あ、すみません、あの建物の前でお願いします」
速度が自然に消えるようにタクシーが停車する。それは一軒の大きめな、だが古ぼけた日本家屋。私は再度住所と表に掲げてある看板と聞かされていた特徴とを確認する。
『あじさいのいえ』
間違い無い、ここがこれから私が住む場所だ。私は運転手さんに運賃を払うと下車し、傘もささずに玄関の前に立つ。普段ならば少しの雨にあたるのも嫌がるのだが、今はそれが何かしらの洗礼のように思え、そのまま受けた。だが、あまりにぐしょ濡れだとこれから人に会うのに失礼だろう。再度看板を確認し、一つ息を吐いてから玄関へと歩き出す。
緊張しながらインターホンを押す。屋内に響き渡るのが玄関前からでも聞こえたが、返事は無い。耳を澄ましても中から返事はしない。聞こえるのはしとしと降る雨の音と遠くから遠くへと走る車の音だけ。もう一度押してみようかなと思い始めた頃、中から返事が聞こえてきた。
「すみません、ちょっと奥にいたものでして」
声の主だろう、中から一人の女性が出てきた。高校生くらいの黒髪の綺麗な女の子。青色のシュシュで黒髪を後ろで一つまとめにしており、ピンクのリネンシャツにライトグレーの膝下くらいのプリーツスカートがよく似合うが、やや背伸びした感じを受けた。それは彼女が童顔だからかもしれない。ともかく、ここの住人らしいので、要件は通るだろう。
「すみません、私、霧島と申しますが、佐倉さんはいらっしゃいますか?」
「あ、霧島さんですね。はい、私が佐倉です」
にこにこと笑う彼女は身内なのだろう。とりあえず会釈を交わす。
「えぇと、来週からここでお世話になる予定なんですけど、本日はとりあえず内見として伺いました」
「はい、聞いています。こちらへどうぞ」
案内されるがままに玄関をくぐる。広めの玄関のには色々物が置かれている。大きな鏡、木彫りの熊の人形、小さなマトリョーシカ、傘立てには幾本かの傘。玄関の隅に私は靴を揃え、佐倉と名乗った女の子から差し出されたスリッパをはくと、後を付いていく。
玄関をすぐ右に曲がる。使い古されて光沢のある赤茶色の廊下、縁側にはこの家の名前にもなっている紫陽花が綺麗に揃えられている。今日はあいにくの雨だが、晴れた日はここからの日差しが気持ち良いかもしれない。それに面して居間を改造したであろう、小さなロビーがある。ここは洋風で、丸テーブルとイスが数脚置かれてある。角を曲がると、一転して昼間なのに薄暗い廊下へと出た。両脇には部屋番号だろうか、ドアの前に一、二、三と番号が大きく振られている。
「ちょっとびっくりしますよね、急に暗くなって。ここ、私の祖母が昔からの日本家屋をリフォームして下宿先に作り替えたんで、採光がちょっと悪いんですよ」
「あ、いえ、大丈夫です」
「一応ここは常時廊下の電気は点けていてもいいんですが、まぁ、ここに住んでる方はみなさん慣れてくると昼間は点けないですね。っと、ここが霧島さんのお部屋です」
ドアの前には五と書かれてあった、端の部屋。焦げ茶色の濃い目のドアに赤で五と書かれており、なんだかちょっとだけ不気味だ。知り合いのつてでかなり安く借りられたから文句を言う事は出来ないが、部屋の中への不安は募る。
しかしドアを開けると、そんな不安は一蹴された。思っていたよりも小綺麗な洋間であり、古ぼけた畳が敷かれているわけでは無かった。八畳一間の部屋には押し入れも備えられており、収納にもそう困らないだろう。電灯も内装の中では最も新しいのか、LEDにやや型落ちのカバーが取り付けられている。勝手に戦前の部屋を想像していたのだが、なんだ、ちょっと古い温泉旅館くらいじゃないか。これならいける。
「どうでしょうか。お部屋での火の取り扱いは禁止ですが、壁には防音材が入ってますので、大きな音を出さなければお隣さんに迷惑がかからないので安心ですよ」
「ですね、思ってたよりは全然いいですよ」
笑顔が自然とこぼれていた。最初は古い下宿先と聞いていたので虫でも沸くようなひどい場所だとばかり思っていたのだが、そんな事はなさそうだ。
「みなさん、最初は同じように思われるんですよね。この廊下にこのドアでしょ、すごくボロくて虫が沸くと思われるんですが、部屋は昔リフォームをしましたんでまぁまぁだと思うんですよ。あ、お風呂や共同のトイレは数年前にリフォームしたので、もっと綺麗ですから安心して下さい」
失言だと気付いた時には佐倉さんがフォローに入っていた。私はなんだか気まずく、愛想笑いを浮かべるのに精いっぱいだった。
一頻り内見を済ませると、今度は食堂に案内された。十人くらいが座れそうな広さがあり、一般家庭よりも大きい。赤茶けた大小二つのテーブルがあり、椅子は四脚が品違いだった。壊れたのか、追加で買い足したのだろう。またついでにとキッチンにも案内された。ここも食堂と言う割には狭いが、一般家庭なら広めである。冷蔵庫は実家で見たのよりも旧式のが二台ある。
「希望すれば朝晩のお食事は出ますが、その他に自分で料理をしたい時にはキッチンは解放していますので、ご自由に。食材も少しならこっちの冷蔵庫に入れても大丈夫です。でも、使い終わった後の後片付けだけはご協力お願いします」
「はい、わかりました」
ここに住む事を決めたら自然と節約も必要になるだろうから、暇を見て料理でもしておかないとならないだろう。幸い、一人暮らし歴は六年あるので多少の料理は作れる。そこだけは成長の証だと胸を張れた。
続いて管理人室に案内された。管理人室は貸し出し部屋とは反対方向の、玄関をまっすぐに進んだ所の奥にあった。私はそこに通され、促されるがままに小さなソファに座った。そして彼女も私の向かいに座る。
「どうでしょうか、住んでいただけるに足る物件でしょうか」
「そうですね。下宿先と聞いていたので不安はあったんですが、思っていたよりも大丈夫そうなので借りたいと思います」
「ありがとうございます。それでは、この書類にサインをいただきたいんですが」
すっとあらかじめ用意されてあった用紙を差し出されたところで、心に引っかかっていた事を改めて聞く事にした。
「あの、ところでここの管理人さんはどちらに?」
「あ、私ですけど」
「……え?」
え、何を言ってるの? こんな高校生みたいな子が……?
「すみません、驚くのも無理ないですよね。私が管理人の佐倉渚です。現役の大学生なんですけど、家庭の事情もあってここの管理人も二年前から兼任しています。頼りないかもしれませんが、どうかよろしくお願いします」
「あ、いえ、こちらこそよろしくお願いします」
一生懸命に下げられた頭に私も同じようにしていた。
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