あたしと結婚しなさい

俺は、カローに渡された赤い筒――爆薬を、震える手で掴み出した。ずしりとした重みが、俺の決意の重さそのものであるかのように感じられた。これを、使う。これを使えば、終わらせられる。この地獄を。この男を。そして、俺の人生も。


もう、迷いはなかった。


王は俺の爪を七枚剥がしたところで満足したのか、血塗れのペンチを床に放り投げ、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「良い鳴き声だったぞ、イリア。今宵は格別に啼いた。褒美に、今夜はもう休ませてやろう」

彼は汚物でも見るかのような目で俺を一瞥すると、満足げに鼻を鳴らし、寝室の奥にある自身の私室へと消えていった。重厚な扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


俺は床に倒れたまま、しばらく動けなかった。指先から心臓へと突き上げるような激痛が、断続的に意識を奪おうとする。だが、心の奥底で燃え始めた黒い炎が、俺を現実に繋ぎとめていた。


殺す。

あの男を、殺す。


その一念だけが、俺を突き動かした。俺は血と涙で汚れた顔を上げ、王が消えた扉を睨みつけた。あの扉の向こうに、俺の地獄の根源がある。


ゆっくりと、音を立てないように、身体を起こす。背中の古傷と、指先の新しい傷が悲鳴を上げたが、構わなかった。床下から取り出した爆薬を、ドレスの内に隠す。幸い、今夜着せられていたのは、たっぷりと布を使った豪奢な夜着だった。その膨らみが、不自然な筒の形を隠してくれる。


一歩、また一歩と、王の私室の扉へ向かう。血の滴る指先を握りしめ、痛みを怒りに変える。廊下は静まり返っていた。夜警の兵士が巡回してくるまで、あまり時間はない。


扉の前にたどり着いた俺は、ドレスの内から爆薬を取り出した。赤い蝋で固められた、不気味な塊。ここから伸びる一本の紐。カローは、これに火をつければいいと言っていた。


俺は扉の前にそっと爆薬を置いた。

そして、その場に立ち尽くす。


(何してんだろ、俺は)


ふと、冷静な自分が頭の片隅で囁いた。王を殺す? 俺が? ずっと奴隷として生きてきて、ただ耐えることしか知らなかった俺が。これは現実なのか? それとも、痛みが見せる悪夢の続きか?

目の前の爆薬が、まるで場違いな玩具のように見えた。こんなもので、本当にあの王を殺せるというのか。


もし失敗したら?

想像を絶する拷問が待っているだろう。今度こそ、生きたまま皮を剥がれ、四肢を切断され、それでも死ぬことさえ許されずに、永遠の苦痛を味わわされるに違いない。

恐怖が、今さらになって背筋を駆け上がった。指先が冷たくなり、呼吸が浅くなる。


火を、つけなければ。

だが、どうやって? 燭台は王の寝室の、部屋の反対側だ。取りに戻れば、誰かに見つかるかもしれない。


俺が逡巡している、まさにその時だった。


「やあ。面白いこと、してるじゃないか」


背後から、あの間延びした声がした。振り返ると、いつの間に現れたのか、金魚の姿をしたカローが、楽しそうに宙を泳いでいた。


「やっぱり、使うことにしたんだね。いいよ、いいよ。そういう展開、ぼくは大好きだ」

カローは俺の周りをくるくると回り、まるで素晴らしい演劇でも鑑賞しているかのように言った。

「でも、困ってるみたいだね。火がないんだろう?」

「……」

「しょうがないなあ。ぼくが手伝ってあげるよ。きみが面白いことをしてくれるなら、そのくらいのお手伝いは安いものさ」


カローはすい、と爆薬のそばに近寄った。そして、俺が何かを言う間もなく、その小さな口から、ぽっと小さな火の玉を吐き出した。それはまるで螢の光のように儚く、しかし確かな熱を帯びて、爆薬から伸びる紐の先端に触れた。


ジュッ、という音と共に、紐が火花を散らしながら燃え始める。導火線、というものだろうか。それは蛇のように這いながら、赤い本体へと向かっていく。


「さあ、始まるよ!」

カローの楽しそうな声が頭に響く。

俺は、後ずさった。逃げなければ。だが、足が鉛のように重く、動かない。ただ、目の前で短くなっていく導火線を、瞬きもせずに見つめることしかできなかった。


――まずい。


そう思った瞬間。


世界から、音が消えた。

次いで、閃光。

視界が真っ白に塗りつぶされ、鼓膜を突き破るような轟音が全身を叩きのめした。ドカーン、という生易しい音ではない。天が裂け、地が揺らぐような、絶対的な破壊の音。


凄まじい衝撃波に身体を吹き飛ばされ、俺は壁に叩きつけられた。一瞬、意識が飛ぶ。朦朧とする中で、何かが燃える匂いと、肉の焼ける異臭が鼻をついた。


「まあ、なんてこと」


誰かの声がした。それは俺自身の声だったかもしれない。

ゆっくりと顔を上げると、信じられない光景が広がっていた。

王の私室へと続く重厚な扉は、跡形もなく吹き飛んでいる。壁には巨大な穴が穿たれ、そこから立ち上る黒煙が天井を焦がしていた。そして――。


爆心地となった穴の中から、何かが転がり出てきた。

それは、人だった。いや、かつて人だったもの。

全身が炎に包まれ、黒く炭化しながら、それでもまだ生きていた。苦悶の叫び声を上げながら、床をのたうち回っている。


ピヨドルフ王だった。


賢帝と呼ばれ、夜の帝王と恐れられた男が、今はただの火だるまとなり、無様に断末魔の喘ぎを漏らしている。その姿には、かつての威厳など微塵もなかった。


「……あ……」


声にならない声が漏れた。

やった。

本当に、殺してしまった。

俺が。


その事実に、喜びも、安堵も、罪悪感も湧いてこなかった。ただ、目の前の光景が、まるで遠い世界の出来事のように、ひどく現実感を欠いて見えた。


やがて、王の動きが完全に止まった。人の形をした、ただの炭の塊が、じゅうじゅうと音を立てて燻っている。

静寂が、訪れた。

爆発音を聞きつけて、遠くから兵士たちの怒声や、侍女たちの悲鳴が聞こえ始めた。だが、この場所だけは、時間が止まったかのように静かだった。


「うんうん、素晴らしい! 最高に面白いじゃないか!」

カローの声だけが、やけにクリアに響く。いつの間にか俺の隣に浮かんでいた彼は、満足そうに尾ひれを振っていた。

「きみ、なかなかやるじゃないか。気に入ったよ。また何か面白いことをしたくなったら、いつでも呼んでくれ」

そう言うと、カローは壁をすり抜け、再び姿を消した。


入れ替わるように、廊下の向こうから複数の足音が近づいてくる。衛兵たちが駆けつけてきたのだ。

終わりだ。

俺は捕まり、王殺しの罪で処刑される。

だが、それでよかった。もう、何もかもどうでもよかった。俺は壁に背を預けたまま、ただ、ぼんやりと虚空を見つめていた。


最初にこの惨状にたどり着いたのは、屈強な鎧に身を包んだ近衛兵たちだった。彼らは目の前の光景に絶句し、次いで王の黒焦げの死体を見つけると、顔面を蒼白にさせた。

「へ、陛下!」

「何があったのだ! 敵襲か!?」


混乱と喧騒が、渦を巻く。その喧騒を切り裂くように、一つの凛とした声が響いた。


「どきなさい」


兵士たちが、モーセの前の海のように割れる。その中央を、一人の少女が、静かに歩いてきた。

銀色の髪を揺らし、夜着の上にローブを羽織っただけの軽装。だが、その佇まいは、居並ぶどの騎士よりも威厳に満ちていた。


ミア王女だった。


彼女は、周囲の混乱など意にも介さず、まっすぐに父であったものの亡骸へと歩み寄った。そして、その炭化した塊を、冷たい蒼い瞳で見下ろした。その瞳には、悲しみも、驚きも、一片たりとも浮かんでいなかった。


次の瞬間、彼女は信じられない行動に出た。

おもむろに足を上げると、黒焦げの父の死体を、ぐり、とヒールで踏みつけたのだ。まるで、道端の汚物を踏み潰すかのように、無造作に。


周囲の空気が凍りついた。兵士も侍女も、誰もが息を呑み、王女の常軌を逸した行動を見守るしかなかった。


ミアは、死体を踏みつけたまま、ゆっくりと顔を上げた。そして、その視線は、無数の人々の中から、的確に俺を捉えた。

俺は、壁際に座り込んだまま、彼女と視線を合わせた。逃げることも、目を逸らすこともできなかった。


ミアは、俺に向かって、にやりと笑った。それは、心の底から楽しんでいる者の笑みだった。


「あなたがやったの?」


彼女の声は、不思議なほど穏やかだった。だが、その問いは、鋭い刃のように俺の心臓に突き刺さる。

俺は、何も答えなかった。声が出なかったのだ。喉が張り付いて、ただひゅうひゅうと乾いた音がするだけだった。


「……」


俺の沈黙を、ミアは肯定と受け取ったらしい。彼女は満足げに頷くと、俺に近づいてきた。一歩、また一歩と。その足取りに、迷いはない。

俺の目の前で、彼女は膝を折った。俺の視線の高さに、その美しい顔がある。血と煤で汚れた俺の顔を、彼女は愛おしむような目で見つめた。


「私に嘘は通用しないわよ」

ミアはそう囁くと、そっと俺の頬に手を伸ばした。その指先が、俺の頬についた煤を優しく拭う。

「あなたの匂いが、変わったもの。いつもの絶望の匂いに、硝煙の香りと……ほんの少しだけ、希望の匂いが混じってる」

彼女の蒼い瞳が、俺の魂の奥底まで見透かしているようだった。この王女には、何も隠せない。俺が何を考え、何をしたのか、全てお見通しなのだ。


俺は観念して、目を閉じた。告発されるのを待った。


だが、彼女の口から出たのは、予想とは全く違う言葉だった。


「すごいじゃない。よく父を殺してくれたわ」


賞賛。

父親殺しに対する、心からの賞賛。

俺は驚いて、目を開けた。ミアは、満面の笑みを浮かべていた。それは、欲しい玩具を手に入れた子供のような、無邪気で、残酷な笑みだった。


「これで、あなたは自由よ。もう、誰にもあなたを奪わせない。あの汚らわしい男は、もういないのだから」


彼女は俺の手を取った。爪が剥がされ、血に濡れた俺の手を、彼女はためらうことなく両手で包み込んだ。彼女の体温が、冷え切った俺の身体にじんわりと染み込んでくる。


「ねえ、イリア」

彼女は、うっとりとした表情で、俺を見つめた。


「あたしと結婚しなさい」


「え?」


あまりに突拍子もない言葉に、俺の口から、間抜けな声が漏れた。結婚? 俺と? 何を言っているんだ、この人は。混乱する俺の顔を見て、ミアは不思議そうに小首を傾げた。


「え?」


まるで、「何を驚くことがあるの?」とでも言いたげな、純粋な疑問の表情。

その瞬間、俺は理解した。

俺は、一つの巨大な檻から逃れるために、別の、もっと歪で美しい檻に、自ら飛び込んでしまったのだと。



王殺しの犯人は、最後まで見つからなかった。

いや、見つけられなかった、と言うべきか。

王の死によって混乱する王宮内で、ミア王女は驚くべき速さと手腕で実権を掌握した。彼女の神童とまで言われた頭脳と、母親であるヒナ王妃の後ろ盾、そして何よりもその圧倒的な武力が、全ての反対意見を沈黙させた。

爆発は、敵国による卑劣なテロ行為であると結論づけられた。そして、唯一の目撃者であった俺は、ショックで事件当時の記憶を失った、可哀想な王の寵姫として、ミア王女の庇護下に置かれた。誰も、何も、言えなかった。


そうして私たちは、結婚した。

王の喪が明けてすぐのことだった。性別も、身分も、何もかもが異例尽くしだったが、新女王となったミアの決定に、異を唱える者はいなかった。

豪華絢爛な式典の中、純白の衣装に身を包んだ俺は、隣に立つミアの横顔を盗み見た。彼女は、世界で一番幸せだという顔で笑っていた。


俺の人生は、また新しい地獄の幕を開けた。

だが、それは以前の地獄とは少しだけ、色の違うものだった。

少なくとも、そこにはミアの歪んだ愛情と、そして俺の手の中に残された「力」という名の、一筋の黒い光があったからだ。

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