Day3:お題「鏡」

 路地裏に車を停め、血塗れの車内を掃除し終えるまでに、雑巾十枚が犠牲になった。


 鉄錆の匂いがする赤い雑巾を絞り、安居あんごは口元を拭った。血を舐めたように見えた。

「シートがビニールで助かったな。布だったら目も当てられない」


 そう言って、安居は煙草を咥えると、スマートフォンを耳に押し当て、路地裏の暗がりへと進んだ。

 誰かと電話しているようだ。たぶん仕事のことだろう。

 女を送り届けることができなかったからペナルティがあるのだろうか。


 俺は血塗れの雑巾でいっぱいのビニール袋を握りしめ、車内を眺める。

 あの女の痕跡が拭い取られた後も、内側に血を塗った風鈴は揺れていた。



 戻ってきた安居はビニール袋を取り上げ、短くなった煙草を捩じ込んだ。女の血が燻る火を包み込んで消した。 

「追加業務だとさ。それで済むなら軽いもんだ」

「おれたちが爆破した訳じゃないですからね」

「それが通じる相手ならいいけどな」

 安居は思い出したように車のドアを開け、ルームミラーから風鈴を外して袋に放り込んだ。



 エアコンの風が車内に未だ残る鉄錆の匂いを際立たせた。安居は思い出したように言った。

夏魚なつおくんのお陰で助かったよ」

「たまたま気づいただけです」

「賢い相棒がいると寿命が伸びる」

「死ぬのは嫌ですか」

 おれの問いに、安居は困ったように笑った。

「そりゃ生きてる方がよくないか」

「死んだことがないからどっちがいいかわかりません」

 安居の左右の眉が更に寄った。

「じゃあ、生きてみた方がいいな。嫌になったらいつでもやめられても、逆はできない」



 商店街を抜けると、住宅街に入った。

 ブロック塀と乗用車、犬の置物、補助輪付き自転車、アロエの鉢植え。何処にでもある風景の片隅で、蘇轍に似た木が海辺街だと主張していた。


 安居が「あれだ」と曲がり角を指さす。

 ふたつの影が見えた。スーツ姿の神経質そうな男と、紫色の仏壇ほどの大きさの木箱。

「どっちですか」

「人間の方は交渉役だよ。つまり、箱の方がそうだ」

 不法投棄の粗大ゴミにしか見えない箱も、人魚を喰った者の成れの果てなんだろうか。



 停車するなり、男は窓ガラスを手の甲で叩き、犬を呼ぶように顎をしゃくった。運べというのだろう。

 車を降りると西陽が照りつけた。日晒しだった木箱は生温かく、元が人間だと言われても信じれると思った。


 後部座席に箱を運ぶ間に、男は当たり前のように助手席に座っていた。

 おれは仕方なく木箱を抱えて後部座席に乗り込む。


 振動で観音開きの扉が僅かに開いた瞬間、男が鋭く叫んだ。

「開けるな!」

 子どもが銃に触れたかのような剣幕だった。扉の隙間から凪いだ湖面に似た、透明な輝きが覗く。三面鏡だ。


 運転席から手が伸び、男が木の扉を叩くように閉めた。怒声が飛ぶ前に、安居が視線で男を牽制する。

「そう怒るなよ。少しくらい仕方ないだろ。引越し業者じゃないんだぜ」

「まったく……ガキ同然の素人を雇いやがって」

「優秀だよ。肝が据わって危機管理能力も高い」

「どうだか」



 発車の衝撃でまた扉が開きかけ、おれは三面鏡を抱きかかえる羽目になった。

 安居がハンドル片手に煙草を咥えると、隣の男が制止した。

「消せ。ただでさえ運転中だ」

 安居は肩を竦めて応えた。顔見知りのようだが、相性はよくないんだろうと思った。


 おれは紫色に染まった三面鏡を横目で眺める。

「これも人魚を喰った人間か……」

 思わず呟くと助手席から嘲笑が返った。

「紫鏡だろ。二十歳まで信じていると死ぬという都市伝説だ」

 男は眉を吊り上げ、おれを睥睨する。

「いくつだ?」

「十九、たぶん」

「あと一年か。忘れられるといいな」


 安居が深く溜息を吐いて言った。

「人魚を喰って化け物になるって言っても、いろんなパターンがあるんだよ。さっきの女みたいに虫の怪物になることもあるが、大抵は名前が知れた妖怪や怪異に似ることが多い。のっぺらぼうから吸血鬼まであるぜ」

「人魚にだけはならないんですね」


 安居が応える前に、助手席の男が割って入った。

「食物連鎖の末端のゴミどもは化け物だが、本物を食べた人間は限りなく人魚に近くなる。そのくらい覚えておけ」

「じゃあ、何故ゴミ回収を? 慈善事業じゃないのに」

「教える義理はない」



 助手席の男が不機嫌そうに反り返ったので、おれはまた三面鏡と向き合った。

 隙間から鏡面が覗いているが、扉を押さえるおれの手は写っていない。少し傾けたが、運転席の安居の後頭部も反射しない。

 鏡に見せかけたガラスかと思って顔を近づけると、子どもの笑い声に似た微かな音が響いた。


 おれは三面鏡の扉をしっかりと閉め、正面を向いた。

 安居がハンドルに身体を預け、夕陽で染まる大通りを睨んだ。

「道が違う気がするんだけどな」

「構うな。これでいい」

 助手席の男の横顔は僅かに強張っている。


 安居は路肩に車を止め、先程吸い損ねた煙草に火をつけた。

「安居、ふざけるなよ」

「ふざけるも何も、この追加業務はあんたの私用だろ」

 男の喉から細い呻きが漏れた。

「何の話だ」

「不思議に思ってたんだよ。前から俺が回収した物と納品の数が合わない日があったんだ」

「こちらが誤魔化しているとでも?」

「そりゃあ使い道はあるもんな。そこらのガキ雇ってひとを殺させたら足がつくが、化け物なら訴えようがない」


 設定を変えていないのに、エアコンが吐き出す空気が徐々に冷えていく気がした。険悪な空気だった。


「安居、いいから運べ。それがお前の仕事だろ」

「仕事ってのは雇用主と雇用者で成り立つ飛んだぜ。あんたは横から割り込んだ部外者だ」


 目的の物を届けて終わる話ではないらしい。

 おれは抱えた三面鏡を眺める。ふと、気づいた。助手席の男の肩は鏡にしっかりと写っていた。

 左右が反転した虚像の男が、安居に腕を伸ばす。掌に何かを握り込んでいた。


 顔を上げると、男が安居のこめかみに指先を突きつけていた。小型の銃かもしれないと思う。

「運ばないなら降りろ。降りないならもう終わりだ」

「終わりだって言ったって……あんた免許持ってるか」

 安居が犬歯を覗かせて苦笑する。

 油断か虚勢か知らないが、おそらく安居が思っているよりこの男は本気だ。


 沈黙の中、ひどく小さな笑い声が響いた。おれは三面鏡と相対する。いけるな、と思った。

 だから、おれは助手席の男に手を伸ばし、わざと子どものように頰を突いた。

「何だ、割り込むんじゃない!」


 男が振り返ると同時に、おれは三面鏡の扉を開け放った。広がる鏡の回廊に、男の顔と、その身体にまとわりつく白くて細い子どもたちの腕が写っていた。


 騒がしかった車内が静かになる。

 助手席から男の姿は消えていた。代わりに三面鏡の内側から騒がしい声が響き、それもやがて静まった。


 安居は信じられないという顔で助手席とおれを見比べてから、煙草の先端の灰を落とした。

「夏魚くんがやったのか?」

「おれたちの仕事は人魚を喰った人間を運び届けることでしょう。それ以外の人間は業務に含まれていませんから」

 おれの言葉に深い溜息を吐くと、また苦笑を浮かべた。

「その通りだな。じゃあ、通常業務に戻ろうか」


 おれは三面鏡が二度と開かないようしっかりと抱える。安居は先程吸い損ねた煙草の煙を深く吸った。

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