いどらの生簀船
木古おうみ
Day1.お題「まっさら」
おれは頭の中が真っ新だからこの仕事に向いていると言われた。
真っ新イコール善良ではないことを知っている人間の発案だ。
おれは法律も常識もよくわかっていない。
例えば、子どもは半人前だから電車に半額で乗れるのに、子どもを殺したら刑期が半分で済むどころか大人を殺すより叱られる理由がわからない。
親がいたり、学校に行っていれば、わかったんだろうか。
おれは車の助手席に座って海を眺めていた。免許がないから、運転手が来るのを待つ他ない。
車内は茹だるほど暑く、こんな処刑道具があったなと思った。フロントガラスに広がる海は冷たいんだろうか。
車外に出れば三歩で飛び込めるのに、ガラス一枚が世界を隔てる壁のように厚い。
おれの近くにはいつも普通の世界があるのに、おれには決して触れない。
ノックの音が聞こえた。
顔を上げると、日に焼けた男の手があった。おれと同じ世界に住む人間だと思った。
涼しく快適な場所には行けず、罪人のように日差しに晒された肌をしていた。
おれが運転席のドアを開けると、男が長い背中と脚を折り曲げて滑り込んできた。
男は肩まで伸びた髪をまとめて、藍染のシャツと黒いスラックスを着ていた。やはりまともな仕事の人間ではないと直感した。
「暑いな。エアコン付けていいんだぜ」
浅黒い指が伸び、埃の匂いと共に冷風が顔に吹きつけた。
男は切長の目を細め、おれを見た。
「俺は
「
「夏の季語だな。俺と同じだ」
安居に手を差し出され、おれは少し迷ってから握り返した。骨張った硬い手だった。
君と呼ばれたのも、握手を求められたのも、初めてだった。
この男は全く善人ではないが、おれにとってはいいひとだと思った。
「夏魚くん、歳は?」
「十九です、たぶん」
「正確なのはわからないか。俺も同じだよ」
安居は汗の滴がガラス玉のように垂れた毛先を払った。
「仕事の内容はわかってるか?」
「人魚の肉を食べた人間を捕まえて連れて行くことですか」
「完璧だ」
薄い唇から犬歯を覗かせ、安居はダッシュボードを指先で叩いた。
「人魚の肉を食った奴は揃いも揃ってまともじゃなくなる。こんな風に」
おれは安居に示されるがまま、運転席の下に取り付けられた灰皿の引き出しを開けてみた。
白いイソギンチャクが生えている、と思った。
蠢く触手は古い皮のようにひび割れ、先端に桜貝に似たものがついている。爪だ。
切断された人間の左手首だった。
安居は声を上げて笑い、ゴミのように手首を掴んだ。
「驚かないとはね。肝が座ってるな。それとも、見たことが?」
おれは頷く。
「じゃあ、やりやすくていいや」
安居は運転席の窓を開けた。
微熱の人肌のような空気が車内に雪崩れ込む。
安居は窓から腕を伸ばし、誰かの左手首を海に放り投げた。白い飛沫が上がり、すぐに寄せる波に掻き消される。
イソギンチャクが海に還ったと思った。
安居は窓を閉めると、シャツで手を拭い、煙草を咥えた。
「悪いけど、嫌な仕事が多くなるぜ」
「仕事は嫌なものですから」
おれがそう答えると、安居は眉根を寄せて笑った。
「それだけじゃ気が滅入るだろ。俺といる間の特別ルールだ。ひとつ仕事を終えたら、ひとつ楽しいことをしよう。釣り合いが取れるようにな」
そんなことをしていいのか聞こうと思ってやめた。やっぱり駄目だと言われても困る。
おれの沈黙を肯定と受け取ったのか、安居はハンドルを握り、アクセルを踏んだ。
車内の熱気がようやく鎮まり、涼しい空気と煙の匂いが充満した。
おれは咥え煙草の安居の横顔と、高い鼻梁の先を流れる海を見た。
これが夏の間、おれがしばらく見ることになる光景だろうと思った。
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